10

 そしてトヨミは視線を足元に向けると、寂しげな声で言った

「花が終わってしまったのだな」

カタカゴのことだ。


「朝、陽が差し込めばまた開きます」

ホキが微笑めば、

「そうなのか? 昼間見た時は反り返っていた花弁が、今は真っ直ぐ伸びて閉じているぞ?」

トヨミが不思議そうな顔をする。


「カタカゴは陽の光が好きなのです。だから曇りの日は花を開きません。しょんぼりしています」

「ふぅん……と同じか。好きな相手が居てくれれば伸び伸び過ごせ、居ないとしょんぼり元気がなくなる」

ゆっくりトヨミが部屋に――ホキに近付く。床に腰を下ろしてホキはトヨミを待っていた。


「会いたかったぞ」

手を伸ばすトヨミ、そっとホキの頬をてのひらで包み込む。二人の視線はほぼ同じ高さ、互いに真っ直ぐ相手を見詰めていた。


「朝まで一緒に居たのに?」

「ホキはに会いたいと思ってくれなかったのか?」

ホキがトヨミの手に自分の手を添える。

「いいえ、会いたいと思っていたわ。もう会えないんじゃないかって、不安でいっぱいだった」


「またか? なんでそんなにホキはすぐ不安になるんだろう?」

のための部屋をどうするか家族で話し合ったの。父親てておやさまは広い部屋をに使わせたがったんだけど、ははさまと妹が反対したわ。妹は『人のために広い部屋を譲りたくない』って言ったし、ははさまは『都の貴人の』って言ったのよ」


「そうだったのか。そんなことがあったのか」

頬に触れていた手を、ホキの肩に回してトヨミがホキを抱き締める。

のせいで辛い思いをさせてしまったか……だがな、ホキ。ホキの母者ははじゃも妹も、の心を知りもしないで言っているんだ。本心を知るのは己のみ。の心はホキに伝えたとおりだぞ。信じてくれるな?」


 トヨミの懐でホキが頷く。トヨミの寝顔を見ながらどこまでもついて行くと決意した。その気持ちは変わっていない。


 ホキが頷いたことで安心したのか、トヨミが抱き締めていた腕を緩める。

「それで? いさかいは納まったのか? まさか母者ははじゃが産気づいたのは、カタブが乱暴を働いたからではあるまいな?」

これにはホキが苦笑する。


「大丈夫、父親てておやさまはだけど、無闇に手を上げたりしないわ。お産の手伝いに来てくれた女衆が心配ないって言ってたし、少しくらい早く生まれるってのはよくあることなんですって――それよりね、トヨミ。の部屋はとても狭いの。窮屈に感じないか、それが少し心配」


「狭いと言っても、二人が横たわれないほど狭いわけではないのだろう?――この部屋の半分くらいか?」

中を覗き込むトヨミ、ホキが、

「もうちょっと狭いかな?――ねぇ、トヨミ、この戸を開けた? 閉めたはずなのに開いていたの」

トヨミに問う。


「うん、開けた。開けておけばホキが閉めに来ると思った」

ではなく、父親てておやさまかも知れないし妹だったかもしれないわ」

「その時はホキのところに案内して貰えばいいだけだ――で、ホキの部屋はどこにある? もう使えるのか?」


「えぇ、郷の者にも手伝いを頼んで整えたから。建具を入れ替えて新しい茣蓙ござを敷いて、柱も磨いたの。そしたら見違えるくらい綺麗になったわ」

「ふむ。その部屋、元は物置にでも使っていたのか?」

「判っちゃった? やっぱりそんな部屋イヤよね?」

「いいや、ホキと一緒に居られるのなら洞穴だって構わない――どの部屋だ? 見ることはできるか?」


「案内することはできるのだけれど……」

戸惑うホキをトヨミが笑う。

「場所を知りたいだけだ。今夜は部屋を見たら帰る。母者ははじゃが大変な時に長居はできまい」

ついホキがホッとすると『其方そなたはやはり素直だな』とトヨミが微笑んだ。


「その部屋は庭から行けるのか?」

トヨミが訊くと、

「行けますが、表の入り口にお回りください。庭を歩かせるのは心苦しいわ」

とホキが答える。


「表に回ればカタブに知られ気を遣わせる。庭伝にわづたいにどう行けばいい?――心苦しいなんて言うな。が望んでいるんだ。遠慮は要らない」

躊躇ためらうものの、そこまで言われたら表にとは言えない。

「屋敷の西端の部屋なんです。えぇ、庭に面しているから、は中を通って行って、庭側の戸を開けるわ」


 するとトヨミが再びホキを抱き寄せる。

「好きだよ、ホキ。でも、すぐまた会えるね」

ギュッと抱き締めるとホキを放し、外から戸を閉めた。


 屋敷の中をホキが急ぐ。なるべく早く行って、戸を開けなければトヨミを待たせることになる。父親てておやや妹のいる部屋を避けたから遠回りだ。庭を抜けたトヨミに追いつくはずもない。


 部屋に入った途端、忍ばせていた足音を気にすることなく庭への戸に駆け寄って開け放つ。すぐそこに立って庭の椿を眺めていたトヨミがゆっくりと振り返った。

「ホキ。また会えたね」

「もう! 会えるに決まってるじゃないの!」


 嬉しいのやら可笑おかしいのやら、顔がほころぶのが判る……床に腰を下ろしたホキは何も考えず両の腕を広げていた。トヨミも腕を広げて近づくとホキを抱き締める。何も言わず抱き合う二人、見つめ合う目と目、そして鼻と鼻がぶつかって、ホキがまぶたを閉じた――


「狭いというからどれほど狭いのか冷や冷やしたぞ」

部屋を覗き込んでトヨミが笑う。

「これならとこを並べて二十人は休めるな――ホキと二人で過ごすには充分だ」


「二十人も詰め込んだら、寝返りが打てなくなるわ」

「心配するな、二十人で寝ようとは言い出さないから。寝相はいいほうか?」

「悪いって言われたことがないからきっといいんじゃないのかな? トヨミは?」

「ん……うん。」


「言い難そうね、悪くったって嫌わないわよ?」

「いいや、寝相は悪くないんだ。だけど、寝言を言うことがある。うなされたりね。でもまぁ、一人で寝てる時だけだから」

「そうなんだ? どんな寝言を言うの?」

「それはよく判らない。ユキマルが言うにはヤマテの言葉じゃないって」

「そっか、ユキマルが聞いてるのね。一人で寝てて、どうして寝言が判るんだろうって思ってた――でも、ヤマテの言葉じゃないとしたらどこなんだろう?」


「それはユキマルにも判らないって言ってた……怖くない?」

「寝言を怖がるわけないじゃないの。寝言を言うなんてそう珍しいことじゃないわ」

「どこの言葉とも判らない寝言だよ?」

「ユキマルは余所よその国の言葉と思ったみたいだけど、ちゃんと聞き取れなかっただけかもしれないよ? 寝言なんて聞き取りずらいものだし、意味不明なものも多いわ」


「誰かの寝言を聞いたことある?」

「妹は小さい頃によく言ってたわ。急に笑い出したり、泣いたりしたりもあった。そうそう、いびきは?」

「鼾か? どうなんだろう、言われたことはないな」

父親てておやさまは鼾が凄いの。別の部屋で寝てるのに、煩くって目が冷めちゃうことがあるほどよ」

「そりゃあ、凄いなぁ……ところで、庭で咲いているのは椿だね」


「そうね、それはこの屋敷を立てた時からそこにあったらしいわ」

「なるほど、立派な椿だと思って見ていた。夜目に輝くように浮き上がっている。見事だ」

「椿が好きなの?」

「そうだね、でもホキのほうがもっと好き」


「トヨミって、時どき子どもじみたことを言うよね」

「あれ? なんか呆れられてる気がする。でも、嫌ってないよね?」

「嫌いかって訊くとに『また言ってる』と言われると思って、嫌ってないに変えたでしょう? 同じことなのに」

クスクス笑うホキ、トヨミも楽しそうだ。


「で、嫌ってないよね?」

「当り前じゃないの。子どもっぽいトヨミも好きよ。きっとそんな顔、にしか見せないんでしょ?」

「なんで判った?」

「話を聞いていれば判るわよ。トヨミの周囲ってトヨミに厳しい人ばかりに感じるもの」

「じゃあさ、その分、ホキが優しくしてくれる?」

「うん、目いっぱい優しくする。甘やかしてあげる」


「嬉しいな……あれ? 妹がホキを呼んでる?」

トヨミの指摘に耳を澄ますと、確かに屋敷の表の方でホキを呼ぶヒリの声がする。


「それじゃあ、は帰る。また近いうちに来る」

そう言いながらホキを抱き寄せると、トヨミが唇を重ねてくる。ホキもトヨミを抱き返す。


「近いうちって明日?」

「それは判らない――でも、できるだけすぐに。今度来た時は、直接この部屋に来てもいいか?」

「それって庭を回ってってこと?」

「表を回ればカタブたちが気を遣うだろうし、できれば干渉されたくない」


「この高さを上れるの? 踏み台を用意したほうがいい?」

「うん? これくらいの高さなら簡単に上がれるよ。踏み台は不要だ」

「そっか。判った……男の人は誰でも上れるもの?」

「多分大抵上れるんじゃないかな? ほかの男が来ても部屋に入れたりするなよ」

「誰も来ないわよ」


「そんなことを自信ありげに言うな。油断すると痛い目に遭うぞ」

「判った、トヨミが来た時しか戸は開けない」

「約束だからな――っと、誰か来たな。妹か? ホキが返事をしないから、見にきたようだな」


 近づく足音にホキが後ろを向いた。

「そうね、あの足音は……」

妹だわ、そう言おうとして庭に向き直るとすでにトヨミは居なくなっていた。


 庭への戸を閉めたところでヒリが戸を開けて部屋を覗き込んだ。

あねさま、ここに居たのね。呼んだんだけど聞こえなかった?」


「あら、ごめんなさい――どうかしたの?」

「どうかしたの、じゃないわよ。父親てておやさまが、ホキが来るまでちまきはお預けだって……おなかいたわ。早く食べましょうよ」


「やっとお返事なさったのね。そろそろ疲れたかな?」

行きましょう、とホキが部屋を出る。


「お産、どれくらいかかるのかしら?」

「その時によって違うから、何とも言えないそうよ」

ははさま、苦しそうだったわね――子どもを産むのが怖くなったわ」

スク末妹の名が生まれた時もそんなこと言ってなかった?」

ヒリがウフフと笑う。


「お産を考えると怖いけど、生まれてきた嬰児あかごを見ると可愛くて、も欲しいなって思う。ははさまの血を引いているからいっぱい子を産めるだろうってクガネに言われたわ。五人は欲しいな――あねさまは何人欲しい?」


 トヨミは何人欲しいんだろう? 生まれても成人を見ずに世を去る子も多い。子は多ければ多いほうがいいと、誰もが言う。

「産めるのなら何人でも産みたいわ」


「あら、あねさまも欲張りね」

ヒリがクスクス笑う。

「で、貴人さまはどうだった? 子を宿してくれそう?」


「そんなのまだ判らないわよ」

「あんなに細くって子作りなんかできるのかしら? 見た目も女みたいだし――ねぇ、あねさま」

「なぁに、ヒリ?」


「もしあの貴人が来なくっても、悲しまないでね。あねさまの良さを判ってくれる男は必ずいるから。だからはこの屋敷に居ちゃダメなのよ」

「でもははさまはヒリを頼りになさっているわ」

「貴人をはばかって誰もあねさまに近寄らないなんてないと思う。反対よ。都の貴人さえ心惹かれた美女だと、引く手あまたに決まってる」

そうか、そんな考え方もあるのか。


 でもヒリ、はトヨミがいい。トヨミしか考えられない――


 翌明け方、お産が終り、無事に生まれたのは男の子だった。大喜びのカタブ、妻を褒めたたえ、片時もそばを離れず甲斐甲斐しく世話を焼く。咽喉が渇いたと言えば身体を起こして支え、椀を口元に運んでやる。やっぱり父親てておやさまはははさまがお好きなのねと、ホキとヒリがカタブを揶揄からかって笑う。


「この妻がいればこそ、郷の者たちは、特に女衆はに従ってくれている。その妻を粗末になどできるものか」

他に通う女を持たず、八人も子を産ませているのだ、カタブが妻に惚れていないはずはない。だが素直に『好き』とは言えないらしい。


 もっともカタブが言うのも真実だ。武に長け、世俗に通じ、人の才を見抜く目を持ったカタブ、さらに統率力もある。少々ガサツな面もあるが、郷の男どもはガサツな面も含めてカタブを支持している。カシワデの郷を任せられる男はカタブしかいないと信じている。


 だが女衆はと言えば、少し事情が違ってくる。カタブのがさつさを毛嫌いする者もいれば、怖がる者もいる。しかしそんな女衆もカタブの妻には一目置いていた。七人も……ここに至っては八人も子を産んだ。それだけでも女にとっては尊敬に値する。しかもうち三人は既に成人した。八人目は生まれたてでなんとも言えないが、四人目から七人目は今のところ健やかだ。


 お産で命を落とす女も多い。幼いうちに命を落とす子も多い。子は宝、子が多い家は繁栄する。カタブの妻はカシワデの繁栄の象徴だった。


 そしてその気性も女衆に好かれていた。誰にでも分け隔てなく接し、郷の暮らしが楽になるようにと、でき得る限り尽力した。そんなカタブの妻が支持されないはずがない。カタブはそれを知っていた。今さら妻が大好きだなどとは恥ずかしくて言えない。代わりにその事を口に出しただけだ。


 そして女衆は、カタブの妻の代わりになれるのはホキだと誰もが思っていた。つい先日、配られた芹は冷たい水に入るのを嫌がりもせず、ホキが摘んできたものだと知っていた。郷の者の暮らしに心を配り、献身を惜しまないホキを女衆は知っていた。母親の気性を強く受け継いでいるのはホキだ。カタブの次の一族のおさはホキの婿に違いない。


 しかし、こればかりは幾ら女衆が支持してもどうにかなるものでもない。何しろホキに言い寄る男がいないのだから手の打ちようがない。郷一番の若者、次のおさ候補のクガネはヒリを選んだと噂されている。


 女衆はそのうちカタブが別の郷から、クガネに優るとも劣らない男を連れてくるのではないかと予測していた。

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