朝餉あさげを運んで来たのはカタブだった。横たわったままだったトヨミが面倒くさそうに起き上がる。


「芹入りの粥でございます」

いつもは威張り腐っている父親てておやの畏まった物言いにホキが笑いを噛み殺す。同時にトヨミの顔つきがまるきり変わってしまったのにも驚いた。ホキと二人きりの時は柔らかだった表情がきりりと締まり、冷たささえ感じる。


 粥は鍋ごと、他に焼き魚、菜を茹でたものなどのほか、塩と味噌が小皿に入れられ添えられていた。粥を装う椀とさじが二つずつあった。粥の鍋には杓子しゃくしが突っ込まれ蓋はなかった。


 ホキがそそくさと動き、椀と杓子に手を伸ばす。するとトヨミがカタブに向かって顎をしゃくる。察したカタブ、頭を下げて

「ごゆっくり」

立ち上がると部屋を辞した。


 カタブの足音が遠ざかってからトヨミが魚を手にし、小皿の塩を振りかけた。魚には串が刺してある。

はしと言うものがある」

魚に嚙り付きながらトヨミが言った。ホキと二人きりの時の顔つきに戻っている。


「二本一組で使う細い棒だ」

「何に使うの?」

「食事だよ――二本を一つの手で持ち、食物を挟んで口に持って行く。巧く使えるようになれば便利だぞ。熱いものでも冷めるのを待たずに食せる。匙では食べずらかったり、串に刺せなくてもだ。それに手が汚れることもない」


 トヨミの前に粥をよそった椀を置きながらホキが首を傾げる。

「手が汚れないのは嬉しいけど想像がつかないわ。トヨミは使ったことが?」

チラッとトヨミがホキを盗み見る。

「練習中って感じ?」

「練習しなくちゃ使えないってことね?」

ホキがクスッと笑う。


 汁物などには匙を使ったし、肉や魚は串を刺して焼いたりするものの基本、食事は手づかみだ。煮物は熱いうちには食べられない。手が汚れるのもどうにもできない。


「このヤマテ国が島国なのは知っているな? 海を渡ると大陸があり、そこにはスイ国がある。スイ国はヤマテよりもずっと文化が進んでいるらしい。ミホトケへの信仰はその国から来た僧によってもたらされたものだ」

「トヨミはミホトケを信じているのでしょう?」

「よく知っているな。カタブから聞いたか?」

魚を食べ終わったトヨミ、味噌を匙で取ると椀の粥に溶かし始めた。


「えぇ、テイビの乱ってミホトケに反対したモノブを滅ぼすためのものだったんでしょう? でも不思議なの。父親てておやさまもミホトケを拝んでいるのにアマツキの神のことも信じてるみたいなの。何かというと弟たちに『悪さをするとアマツキの神が見ているぞ』って叱ってるのよ」

「ミホトケを信仰してもアマツキ神が消えてなくなるわけではない。そのあたりをモノブは理解できなかった――帝の始祖はアマツキ神、それは変わらないんだ」


「帝はミホトケ信仰を支持しているんでしょう?」

「誰にも言うなよ、帝に信仰心はないとは見ている。が、モノブよりソガシにつく方が有利だと判断した。それだけだ」

「ソガシはミホトケを信じているのね」

「あぁ、かなり熱心にな。だがそれも政治まつりごとに利用できると考えているからだ」

ホキが溜息を吐く。

「トヨミが自分のことしか考えない人たちに囲まれてるって言ったのがよく判ったような気がするわ」


「なんだ、気がするだけか?」

苦笑するトヨミ、

「それよりホキも食え。いい頃合いに冷めているぞ」

杓子を持ってまだ空いている椀によそい始める。


「あ、自分で……」

「いい、待っているのが面倒だ。の椀が空になってしまった」

見るとトヨミの椀は空っぽだ。


「気が付かなくてごめんなさい」

「これくらいのことで謝るな――ホキは味噌がいいのか? それとも塩か? まぁ、どっちでも好きにしろ」

ホキの前に椀を置くと、自分の椀を手にして鍋の中を覗き込む。


「心配しなくても粥はたっぷりあるわ。父親てておやさまったら、粥の量まで見栄を張りたいのかしら?」

するとトヨミが苦笑した。

が大食らいなのをカタブは知っているからな」


「そうなの?」

「今も鍋の中を見て『足りるかな?』と考えていた――だからってホキ、遠慮するなよ」

「いいえ、遠慮じゃなく、は椀いっぱいで充分。多すぎるくらいだわ」

「ホキは少食か?」

ははさまも妹も同じくらいしか食べないわ――あにさまはどうだったかしら?」


「そう言えば兄者あにじゃがいると言っていたな。カタブが挨拶に連れてこないと言うことは不在なのか?」

「えぇ……通う相手ができて、滅多に帰らなくなりました」

「そうか。羨ましいことだな。相手はカシワデの郷の娘か?」

「はい、あにさまと、それに妹も、一緒によく遊んだ娘です。いつの間にあにさまがそんな仲になったのかと、最初に聞いた時は驚きました」

トヨミは微笑んだだけでそれには何も言わなかった。


 トヨミが帰った後、カタブの屋敷は大騒ぎになった。去り際に、トヨミがカタブに言ったからだ。

「ホキは妹と同じ部屋にて休んでいると聞いた――これからはホキ一人の部屋を用意しろ。近いうちにまた訪れる」


 大興奮のカタブ、郷の者を借り出して屋敷の改修を始めた。当初はカタカゴが見える庭の横に増築する気だったようだが、それにはどう頑張っても数日かかる。皇子みこを迎えるのに安普請と言うわけにもいかない。さらによくよく考えればトヨミが都を離れ、別の地に移る時は一族を引き連れて移住すると約束している。それを考えたらここで今の屋敷を立派にしても無駄になる。結局、今使っている部屋を補強するだけにした。だがここで揉める。部屋を出されることになりヒリが不服を申し立てたのだ。


「狭い部屋に追いやられるなんてイヤよ」

泣きじゃくるヒリ、ホキが

がそちらの部屋に移る。父親てておやさま、それではダメか?」

ヒリを抱き寄せ頭を撫でて慰めながらカタブに訴える。


「いや、しかしなぁ、ホキよ」

皇子みこが通っているなどと郷で噂になっては困るだろうと忖度したカタブはトヨミの身分を家族にも明かさなかった。だからあんな部屋に通せるかとは言えない。ホキにしてもトヨミの権力を自分が振りかざしているような気がして、ヒリに遠慮してしまう。もともと周囲への遠慮が過ぎるきらいのあるホキだ。カタブもホキをどう説得していいのか判らない。


あねさまに通う男ができたなら、はクガネのところに行く。そうしたら問題は解決するわ」

だが、それは母親が許さなかった。都の貴人の気まぐれで、家を継ぐ娘を外には出せないと言ったのだ。


「でもははさま、ははさまだって父親てておやさまの屋敷に来たのでしょう?」

には姉がいた。ヒリの姉には貴人のお手が付いた。噂は郷中さとじゅうに広まる。貴人をはばかって他の男は通って来ないだろう――ヒリ、其方そなたが居なくなれば暮らしに困ることになる」


 母親の言うことはもっともだった。通ってくる男の援助、もしくは婿入りした男の稼ぎでその家の暮らしは成り立っている。いくらカタブが稼いでもいずれ老いて稼げなくなる。それを考えたら、ホキに男が通う、あるいは婿に来てくれる当てがないのだとしたらヒリに頼るしかない。

「クガネは婿入りに不服はないのだろう? もうしばらく待て」

母親にそう言われてはヒリも黙るしかなかった。


 だがそうなると、ヒリも部屋を譲るのを断固として拒否し始める。

「あの部屋をあねさまが一人で使うことを考えているのは父親てておやさまだけだわ。たまにしか来ない貴人のために、どうして広い部屋を空けなくてはならないの?」

ムッとカタブが押し黙る。が、すぐに

「ではヒリ、其方そなたは姉を狭い部屋に押し込めと言うのか?」

反撃するが、

ははさまはがこの家を支えるとお考え。そのを狭い部屋に押し込めようなんてしいわ」

これまたヒリも負けてはいない。父と娘の言い争いが続く中、フッとホキが呟いた。静かな声だ。


が居なくなればまるおさまる」

「ホキ? 何を考えているのです?」

慌てたのは母親だ。思いつめたホキの言いよう、蒼褪めた顔にあらぬことを連想してしまった。


「カタブ! ここはヒリの言う通りでいいのではないのですか? ホキもそれでいいと言っているのです。それともあの客人は、そこまで大事にしないとならぬほどの貴人なのか?」

トヨミの身分を言えないと思っているカタブ、またもぐっと押し黙る。そこに母がさらに一押しした。

「それに……本当にまた来るのですか? こんな田舎に? あまり騒ぎ立てて、もし訪れが無ければ却ってホキが可哀想だと判らない?」


 これにはとうとうカタブも折れた。妻の言うことももっともだと思ったのだ。去り際のトヨミの言葉に嘘は感じなかったが、少し有頂天になり過ぎて冷静さを失していたかもしれない。


 狭いとは言え、ホキに与えられた部屋も庭に面していた。だがそこにカタカゴはない。代わりと言ってはなんだが、赤や白の椿が咲いていた。


 建具だけは新しいものを用意して入れ替え、ゆかみが茣蓙ござを敷いた。柱に油を塗って拭き上げれば、見た目はそれなりになった。

「まぁ、こんなものだろう――みな、ご苦労だった。心ばかりだが礼の品をくりやに用意している。受け取って帰ってくれ」

郷の者たちが『団子かな? 団子がいいな』とか『干飯ほしいいがいい。団子は子が喜ぶがすぐ無くなっちまう』などと賑やかに立ち去っていく。


 ところがいくらも経たないうちに、駆け戻ってきた者がいた。

「大変だ! くりやで産気づいて動けなくなってるぞ!」

慌てるのはカタブ、あたふたするだけだ。ホキが、

「誰か女衆を呼んできて! 残りはははさまを産屋うぶやに運ぶのを手伝って! ヒリは湯をたっぷり沸かすこと!」

てきぱきと指示を出す。


 あらかじめ用意されていた産屋に運び込む頃には女衆の中から経産婦が集まって、産屋から男ども追い出した。

「ホキ、ヒリ、偉かったね。あとはらに任せてカタブのそばに居ておやり」

ははさまは大丈夫?」

産屋の奥から聞こえる母の唸り声に奥を覗き込もうとするヒリの袖をホキが引っ張る。

「邪魔にならないうちに行くわよ」

目の前でぴしゃりと戸が閉められるとヒリも諦めた。


 母屋ではカタブが怖い顔で一点を見詰めて動かなかった。すでに七人の子を得、これが八度目の経験だが慣れることなどはない。いつにおいても出産は命がけ、何人産んでいようがそれが変わるわけではない。


 声を掛けても反応を示さない父親てておやにホキもヒリも諦めて、ただ同じように座して待つほかなかった。どれほど時間がかかるか判らないのだ。それはそれで辛いものがある。


 やがて日が暮れ、あたりは宵闇に包まれる。ホキがヒリに念のための戸締りを頼むと、ヒリがこっそりと耳打ちした。

あねさま、夕餉ゆうげをいただいておりません」

母の出産ですっかり忘れていた。どうしたものかとホキが思っていると、表でホキを呼ぶ声がした。女の声だ。


 ヒリと二人で行ってみるとよく見知った顔、いつも弟妹の面倒を頼んでいる郷の女だ。今も預かってくれている。

「腹が減ってるんじゃないかと思ってね? 夕餉の支度にまで気が回らずいるんだろう?」

女が籠に入れたちまきを差し出す。米を竹の皮で包んで蒸し上げたものだ。喜んで受けとるヒリ、ホキが深々と頭を下げる。

「産屋にも持って行ってあるからね。その籠のものはカタブと三人で食べていいんだよ」


 ヒリはさっそくカタブのところに籠を持って行った。戸締りするのは結局ホキだ。

表の戸を閉め、くりや口を確認し、庭に面した戸が閉められているかを見て回る。


 昨夜トヨミと過ごした部屋は開け放されたままだった。トヨミが帰ったあと閉めたのに、そのあと誰が開けたんだろう? とにかく閉めようと庭側の戸に近付く。


 月のない夜だった。光源のない庭は薄暗い。だが空に目を向ければ雲もなく、零れそうなほど星が煌めいている。春にしては珍しく空気が澄み渡っていた。

「きれい……」

いつ見ても星空は美しい。


「うん、きれいだ」

「えっ!?」

急に聞こえた声はトヨミ、庭に立ってこちらを見ている。


「いつからそこに?」

「少し前からだよ。表には誰かが来ていたからこっちに回った――母者ははじゃが産気づいたのかな?」

「そうなの、急に……あと一月ひとつきは先だと思っていたのにね」


のせいかな?」

「違うわ!」

慌ててホキが否定する。本当は心のどこかで思っていた。貴人を客に迎え、そのあとはカタブと揉めた。さらに屋敷の中に大勢が集まって、ホキのための部屋を整えた。昨日、今日とどれほど気を使ったことか。身重のははさまにはきっと負担だったんだ。


 違うと叫んでからハッとする。叫んだのは失敗だ。これでは反対に、肯定してしまったことになる。夜の暗さの中でトヨミが笑ったような気がしたが、ホキにはよく見えなかった。

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