9
「芹入りの粥でございます」
いつもは威張り腐っている
粥は鍋ごと、他に焼き魚、菜を茹でたものなどのほか、塩と味噌が小皿に入れられ添えられていた。粥を装う椀と
ホキがそそくさと動き、椀と杓子に手を伸ばす。するとトヨミがカタブに向かって顎をしゃくる。察したカタブ、頭を下げて
「ごゆっくり」
立ち上がると部屋を辞した。
カタブの足音が遠ざかってからトヨミが魚を手にし、小皿の塩を振りかけた。魚には串が刺してある。
「
魚に嚙り付きながらトヨミが言った。ホキと二人きりの時の顔つきに戻っている。
「二本一組で使う細い棒だ」
「何に使うの?」
「食事だよ――二本を一つの手で持ち、食物を挟んで口に持って行く。巧く使えるようになれば便利だぞ。熱いものでも冷めるのを待たずに食せる。匙では食べずらかったり、串に刺せなくてもだ。それに手が汚れることもない」
トヨミの前に粥を
「手が汚れないのは嬉しいけど想像がつかないわ。トヨミは使ったことが?」
チラッとトヨミがホキを盗み見る。
「練習中って感じ?」
「練習しなくちゃ使えないってことね?」
ホキがクスッと笑う。
汁物などには匙を使ったし、肉や魚は串を刺して焼いたりするものの基本、食事は手づかみだ。煮物は熱いうちには食べられない。手が汚れるのもどうにもできない。
「このヤマテ国が島国なのは知っているな? 海を渡ると大陸があり、そこにはスイ国がある。スイ国はヤマテよりもずっと文化が進んでいるらしい。ミホトケへの信仰はその国から来た僧によって
「トヨミはミホトケを信じているのでしょう?」
「よく知っているな。カタブから聞いたか?」
魚を食べ終わったトヨミ、味噌を匙で取ると椀の粥に溶かし始めた。
「えぇ、テイビの乱ってミホトケに反対したモノブを滅ぼすためのものだったんでしょう? でも不思議なの。
「ミホトケを信仰してもアマツキ神が消えてなくなるわけではない。そのあたりをモノブは理解できなかった――帝の始祖はアマツキ神、それは変わらないんだ」
「帝はミホトケ信仰を支持しているんでしょう?」
「誰にも言うなよ、帝に信仰心はないと
「ソガシはミホトケを信じているのね」
「あぁ、かなり熱心にな。だがそれも
ホキが溜息を吐く。
「トヨミが自分のことしか考えない人たちに囲まれてるって言ったのがよく判ったような気がするわ」
「なんだ、気がするだけか?」
苦笑するトヨミ、
「それよりホキも食え。いい頃合いに冷めているぞ」
杓子を持ってまだ空いている椀に
「あ、自分で……」
「いい、待っているのが面倒だ。
見るとトヨミの椀は空っぽだ。
「気が付かなくてごめんなさい」
「これくらいのことで謝るな――ホキは味噌がいいのか? それとも塩か? まぁ、どっちでも好きにしろ」
ホキの前に椀を置くと、自分の椀を手にして鍋の中を覗き込む。
「心配しなくても粥はたっぷりあるわ。
するとトヨミが苦笑した。
「
「そうなの?」
「今も鍋の中を見て『足りるかな?』と考えていた――だからってホキ、遠慮するなよ」
「いいえ、遠慮じゃなく、
「ホキは少食か?」
「
「そう言えば
「えぇ……通う相手ができて、滅多に帰らなくなりました」
「そうか。羨ましいことだな。相手はカシワデの郷の娘か?」
「はい、
トヨミは微笑んだだけでそれには何も言わなかった。
トヨミが帰った後、カタブの屋敷は大騒ぎになった。去り際に、トヨミがカタブに言ったからだ。
「ホキは妹と同じ部屋にて休んでいると聞いた――これからはホキ一人の部屋を用意しろ。近いうちにまた訪れる」
大興奮のカタブ、郷の者を借り出して屋敷の改修を始めた。当初はカタカゴが見える庭の横に増築する気だったようだが、それにはどう頑張っても数日かかる。
「狭い部屋に追いやられるなんてイヤよ」
泣きじゃくるヒリ、ホキが
「
ヒリを抱き寄せ頭を撫でて慰めながらカタブに訴える。
「いや、しかしなぁ、ホキよ」
「
だが、それは母親が許さなかった。都の貴人の気まぐれで、家を継ぐ娘を外には出せないと言ったのだ。
「でも
「
母親の言うことはもっともだった。通ってくる男の援助、もしくは婿入りした男の稼ぎでその家の暮らしは成り立っている。いくらカタブが稼いでもいずれ老いて稼げなくなる。それを考えたら、ホキに男が通う、あるいは婿に来てくれる当てがないのだとしたらヒリに頼るしかない。
「クガネは婿入りに不服はないのだろう? もうしばらく待て」
母親にそう言われてはヒリも黙るしかなかった。
だがそうなると、ヒリも部屋を譲るのを断固として拒否し始める。
「あの部屋を
ムッとカタブが押し黙る。が、すぐに
「ではヒリ、
反撃するが、
「
これまたヒリも負けてはいない。父と娘の言い争いが続く中、フッとホキが呟いた。静かな声だ。
「
「ホキ? 何を考えているのです?」
慌てたのは母親だ。思いつめたホキの言いよう、蒼褪めた顔にあらぬことを連想してしまった。
「カタブ! ここはヒリの言う通りでいいのではないのですか? ホキもそれでいいと言っているのです。それともあの客人は、そこまで大事にしないとならぬほどの貴人なのか?」
トヨミの身分を言えないと思っているカタブ、またもぐっと押し黙る。そこに母がさらに一押しした。
「それに……本当にまた来るのですか? こんな田舎に? あまり騒ぎ立てて、もし訪れが無ければ却ってホキが可哀想だと判らない?」
これにはとうとうカタブも折れた。妻の言うことももっともだと思ったのだ。去り際のトヨミの言葉に嘘は感じなかったが、少し有頂天になり過ぎて冷静さを失していたかもしれない。
狭いとは言え、ホキに与えられた部屋も庭に面していた。だがそこにカタカゴはない。代わりと言ってはなんだが、赤や白の椿が咲いていた。
建具だけは新しいものを用意して入れ替え、
「まぁ、こんなものだろう――みな、ご苦労だった。心ばかりだが礼の品を
郷の者たちが『団子かな? 団子がいいな』とか『
ところがいくらも経たないうちに、駆け戻ってきた者がいた。
「大変だ!
慌てるのはカタブ、あたふたするだけだ。ホキが、
「誰か女衆を呼んできて! 残りは
てきぱきと指示を出す。
あらかじめ用意されていた産屋に運び込む頃には女衆の中から経産婦が集まって、産屋から男ども追い出した。
「ホキ、ヒリ、偉かったね。あとは
「
産屋の奥から聞こえる母の唸り声に奥を覗き込もうとするヒリの袖をホキが引っ張る。
「邪魔にならないうちに行くわよ」
目の前でぴしゃりと戸が閉められるとヒリも諦めた。
母屋ではカタブが怖い顔で一点を見詰めて動かなかった。すでに七人の子を得、これが八度目の経験だが慣れることなどはない。いつにおいても出産は命がけ、何人産んでいようがそれが変わるわけではない。
声を掛けても反応を示さない
やがて日が暮れ、あたりは宵闇に包まれる。ホキがヒリに念のための戸締りを頼むと、ヒリがこっそりと耳打ちした。
「
母の出産ですっかり忘れていた。どうしたものかとホキが思っていると、表でホキを呼ぶ声がした。女の声だ。
ヒリと二人で行ってみるとよく見知った顔、いつも弟妹の面倒を頼んでいる郷の女だ。今も預かってくれている。
「腹が減ってるんじゃないかと思ってね? 夕餉の支度にまで気が回らずいるんだろう?」
女が籠に入れた
「産屋にも持って行ってあるからね。その籠のものはカタブと三人で食べていいんだよ」
ヒリはさっそくカタブのところに籠を持って行った。戸締りするのは結局ホキだ。
表の戸を閉め、
昨夜トヨミと過ごした部屋は開け放されたままだった。トヨミが帰ったあと閉めたのに、そのあと誰が開けたんだろう? とにかく閉めようと庭側の戸に近付く。
月のない夜だった。光源のない庭は薄暗い。だが空に目を向ければ雲もなく、零れそうなほど星が煌めいている。春にしては珍しく空気が澄み渡っていた。
「きれい……」
いつ見ても星空は美しい。
「うん、きれいだ」
「えっ!?」
急に聞こえた声はトヨミ、庭に立ってこちらを見ている。
「いつからそこに?」
「少し前からだよ。表には誰かが来ていたからこっちに回った――
「そうなの、急に……あと
「
「違うわ!」
慌ててホキが否定する。本当は心のどこかで思っていた。貴人を客に迎え、そのあとはカタブと揉めた。さらに屋敷の中に大勢が集まって、ホキのための部屋を整えた。昨日、今日とどれほど気を使ったことか。身重の
違うと叫んでからハッとする。叫んだのは失敗だ。これでは反対に、肯定してしまったことになる。夜の暗さの中でトヨミが笑ったような気がしたが、ホキにはよく見えなかった。
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