7
ホキを抱きすくめるのも忘れて、トヨミは腹を
「なによ! なんだって言うのよ!?」
どうして笑っているのかは判らない。だけど自分が笑われているのは判る。トヨミの目の色に驚いたのと笑われている羞恥で、ますますホキが混乱する。もう泣きだしたい。
「いや、だって、天界?」
涙ぐんでいるのはトヨミだ。こちらは笑い過ぎで
「天界に住む人がいるのなら、
などと言ってはまた笑う。
「月に住んでいるのはウサギだわ」
ついホキが呟けば、
「そうそう、月はウサギだった」
またもトヨミが笑い出す。とにかくトヨミが住んでいるのは天界ではないらしい。
「あれ? なんで沈んでいる?」
トヨミが真顔になった。
「だって……笑われて嬉しいはずがないわ」
「別に
「いいのよ、別に。どうせ
「それは違う。みなのために芹を摘んだりカタカゴを庭に植えたりする
「だって笑った。あれほど笑ったのに笑ってないとは言わせない」
「うう……っ」
トヨミ、弁解のしようがなくて困っている。
「確かに笑った。
「謝られても困る。許すもなにも、怒ってない」
「では、なんでそんなに沈んでいる?」
「沈んでいる……そうね、悲しかったから?」
「悲しかったのか? だったらもう二度と
「二度目があるのかしら?」
「それは――二度と
「こんな愚か者とはもう会いたくないと、トヨミが思っているんじゃないの?」
「まったく……」
トヨミが肩を落とし、溜息を吐く。
「ホキ、
「それは……だって、笑ったわ」
「楽しければ笑いもする。ホキのことを二度と笑わないと言ったが、訂正する。これからだって楽しかったり面白かったりしたら笑う。だが、ホキを馬鹿にして笑ったりはしない。今もそうだし、これからもだ」
「でも……」
「いいか、よく聞け。こっちを見ろ」
トヨミがホキの両肩を掴んで自分の方に向かせる。怒っているような口調に逆らえず、思わずホキがトヨミを見る。トヨミがホキに頷いた。怒っているわけではなさそうだ。
「ホキ、ずっと一緒に居たいと言ったばかりなのを忘れるな。あの言葉に嘘はない。
言葉を切ったのは、ちゃんとホキが聞いているのか確かめたのだろう。
「だがな、いやいやいて貰っても嬉しくない。ホキにも一緒にと望んで欲しい。だから嫌われていないかが気になった。一緒に居たいと言われ、どれほど嬉しかったことか……それとも
ホキが慌てて首を振る。そしてその勢いで言った。
「イヤなんかじゃない。
「無理? どうして? カタブが許さないか?」
「だって、身分が違う。
「ホキはさっき、都の貴人ならなんでも思い通りにできる、って言わなかったか?」
「言った。でもトヨミがそれは違うって言った」
「うん、思い通りになんかならない。誰だって、自分の思い通りになんかならない。自分の望みを叶えたいのなら、叶う努力をするしかない。いくら身分が高かろうが努力しなければ望みは叶わない」
トヨミがそっとホキの頬に触れる。
「
「
「よく聞くように言ったはずだぞ? それが
「そりゃあ、トヨミのためなら――」
「
「自分自身……」
「誰かのためではなく、自分のために力を尽くせ。きっと
「そんなこと、考えたことがない。それに、今だって幸せ」
「ふむ……では、将来は? どんな未来をホキは望む?」
「将来のことを急に訊かれても。漠然としか考えたことがない――いずれ見合った男の妻になり子を産み育て、老いていく。そんなものでしょう?」
トヨミがフッと微かに笑った。
「その男、
「
「またそれか、ホキは思ったよりも頑固だな」
「頑固な女はお嫌いですか?」
「好きではないが、ホキは好きだ」
「矛盾していません?」
「してないよ」
「そうかしら?」
ホキがジッとトヨミを見詰める。真剣な面持ちでトヨミはホキを見返している。その必死さについホキが笑う。
「なんで笑う?」
今度はトヨミが笑いを咎めた。
「いや、笑うのはいい。ただ、ちょっと理由が気になった」
「なんでだろう? トヨミがあんまり必死だからかな?」
「だって必死にもなる。ホキは頑固で、なかなか
「あら、トヨミは
「判らない。だから訊いてるんじゃないか。でもなかなか答えてくれない」
「そう言えば、たくさん訊かれた。でも、答えてなかったっけ?」
「でもだのだってだの言って本音を言ってくれないじゃないか」
「だって――」
「ほら! また『だって』が出た。
「トヨミ、強引ね。でもそれ、もう答えたと思う」
「それじゃあ『居たい』だな。次は
「それももう答えが出てる」
「それじゃあ……」
急にトヨミの声が弱々しくなった。
「好き。で、いいのか?」
ずっと自分の頬に触れているトヨミの手にホキが手を重ねる。
「笑わない?」
「笑わない。
「ううん。すごく嬉しかった」
「
「嬉しくて?」
「……どうしたらいいか判らない」
「トヨミにも判らないことがあるのね」
不意にホキが俯いて、トヨミの胸に顔を埋める。トヨミに告げる言葉は、顔を見られたままでは恥ずかしくて言えないと思った。少し戸惑ったトヨミが、それでもホキを受け止めてそっと抱き締める。
「好きよ、トヨミ」
トヨミが腕に力を込める。そして頬をホキの耳元に擦り付けた。
「
嘘でも嬉しい、そう思ったが言わなかった。どうしてトヨミを否定したがるのか、ホキは自分が不思議だった。思い返してみると、否定されてトヨミは困っていた。せっかく好きだと言ってくれているのに困らせてばかりでは、いつかトヨミは
トヨミがそっとホキを放し
「顔を見せておくれ」
と言った。羞恥に
不意に目が覚めたような顔になるトヨミ、ホキの視線に気づいたのだ。
「そうだ、
「えぇ、遠目だと他の人と同じ黒にしか見えないのに、こうして近くでよく見ると緑色よね?」
「うん。まぁ、みな黒に見えているが、よく見れば鳶色だったりするぞ。まぁ、
「最初の? 妻と呼ぶ人は何人居るの?」
一夫多妻は当たり前、まして都の貴人、何人いたって
「今は一人、二人目の妻がいるだけ」
「最初の人は?」
「亡くなった」
「居なくなった?」
「いや、
もっとトヨミの最初の妻のことを訊きたかったホキだが、根掘り葉掘り訊けるもんじゃない。
「トヨミの一族には時おり居るって言ったけど、そのかたも一族だった?」
「あぁ。伯母の娘だ。二人目の妻は大伯父の娘だ。目の色はどうだったかな?」
「大叔父?」
「うん、
「なんだか快く思っていないみたいね」
「いや……同族同士で凝り固まって、自分たちの権力を維持しようとする。気持ちは判らないでもないけれど、父親の妻を息子に
「えっ? トヨミがその息子?」
「いや、違う。身近にそんなことがあっただけだ――言っただろう? 一人目は伯母の娘。二人目は大伯父の娘だって」
「ひょっとして、その二人じゃイヤだった?」
「いや、一人目は
「二人目は?」
「二人目か……これは、向こうがイヤだったんじゃないのかな? 大伯父の意向で
「身体は冷たいって?」
ここでトヨミがハッとする。余計なことを言ってしまったと思ったのだ。幸いホキには意味が判らなかったようだ。
「いいや、ホキの身体は柔らかくて暖かいな。ますます好きになりそうだ」
「何か誤魔化してない?」
「誤魔化してなどないぞ――何しろ
絶対何かを誤魔化した、そう思うがやっぱり追求しないことにした。追及したところできっとトヨミは白状しないし、トヨミに勝てる気がしなかった。
「いいえ、まだです――ねぇ、して欲しいことって一つだけじゃなきゃダメ?」
「なんだ、たくさんあり過ぎて選べずにいたのか?」
「そうじゃないけど、一つだけだったらじっくり考えなくちゃって思ったの」
「なるほど――ホキの望みで
うふふと嬉しそうにホキが笑う。なんて愛らしいんだとトヨミが見惚れる。
「まだね、思いついていないの。でも、なんでも叶えてくれるのね――ねぇ、トヨミは
「そりゃあ、言えないくらいいっぱいある」
パッとトヨミの脳裏にはあんなことやこんなことが浮かぶが、それをここで言えるはずもない。が、ホキが
「例えばどんなこと?」
と訊くのも当然だ。
「そうだなぁ」
トヨミが苦笑する。ホキには言い訳するなと言ったくせに自分では言い訳を考えてしまうトヨミだ。
「一緒に摘んだ芹を食べたいというのは既に言ったな」
「えぇ、聞いたわ。他には?」
トヨミがチラリとホキを見た。言い訳ではなく、さっきから考えていることがあった。それを言ってしまおうか? でもさすがに時期尚早か?
トヨミはアスハナの地の開拓を考えていた。そこに自分の宮を建てる。宮ができたら共に暮らさないか?
「そうだな。
「本当に!? 嬉しい。毎日でもトヨミに会いたい」
「毎日とはちょっといかないかもしれない。あぁ、でも、真夜中でもいいなら、クロコマに連れてきて貰える。でも、すぐまた都に戻らなくちゃならない。それに来られない日もあると思う。それでも……許してくれるかい?」
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