6
そんなことはありません……そう言いたかったが言わなかった。嘘や世辞だとは思えなかったからだ。微笑んでいるがトヨミの眼差しは真っ直ぐだ。本心だと思った。
「そんなこと、言われのは初めて」
ホキも真っ直ぐにトヨミを見てそう答えた。するとちょっと考えてトヨミがニヤッと笑った。
「
「えっ? そうね、そう言われればそうだわ」
トヨミにつられてホキも笑う。
「嬉しいな。少しは打ち解けてくれたみたいだ」
「あっ! いえ、馴れ馴れしくし過ぎました。お許しください」
慌てて真顔に戻るホキに、
「おい、ちゃんと聞け。嬉しいって言ったんだ」
トヨミがさらに笑う。
「
「でも……都の貴人と聞いています。無礼があっては
「
「はい、ここは
「ふぅん。
「いいえ、アスハナの郷で生まれました」
「アスハナか……」
またもトヨミが考え込んだ。
「どうかしましたか?」
「うん? どうしたら
「だって……」
「
「あ……忘れてました」
「だったらすぐに考えろ」
そんなことを言われても、突拍子もないことを言えば笑われやしないか?
「それって、トヨミさまが『こんなことができる人だったらいいのに』ってことですよね?」
「さまがついてる。呼び捨てでもう一回」
「へっ?」
「ほら、もう一回言え」
なんだかこの人、思ったよりも
「えっと……トヨミにこんな能力があったらいいなってこと?」
「そうだよ、そう言うこと。なんだったら、
「トヨミさま――トヨミにして欲しいこと……」
誰かに何かして欲しいなんて考えたことがない。あったとしても『ちょっとこれ持ってって』なんて感じの日常の些細なことだ。トヨミが言っているのはトヨミにしかできない何か。
その横では
「あら、せっかく
「いいから早く考えろ。
「いえ、それはまだ……」
「それじゃあ、考えるのをやめて一緒に床に入るか?」
「――もうちょっと考えます」
少しでも床入りを先延ばしにしたいホキにトヨミがクスッと笑った。
「なんだ、
「ちょっと黙ってて。考えてるんだから。それにトヨミ、さっきから、イヤなのかを気にし過ぎ」
「だって嫌われていないか気になる」
「
「そんなことはない。これでいて、なかなか思い通りに行かないものだ」
「都の貴人ならなんでも思った通りにできるのかと思ってたわ」
「だとしたら認識を改めたほうがいい。で、
「もう! さっきも言ったじゃないの。嫌ってなんかいないって」
「
「ちょっと、なによそれ?」
「好いているって言ったんだよ――それより思いついたのか?」
「あ、いや、まだ――もう! 邪魔しないで」
はいはい、と肘の枕を倒し、自分の腕を枕にした。それでもホキから目を離さない。
暫く黙ってそうしていたが、今度は、
「アスハナに行ったことは?」
と訊いてきた。
「
「なんだ、カタブは身重の妻を追い出したのか?」
「いいえ、
「そうか。喧嘩の原因は?」
「よく判らないけど、
「かもしれないね」
カタブのヤツ、遊び
「
「トヨミは知っているの?」
「まぁな。いいところだぞ。北は山が連なり、残りの三方には川が流れている――
トヨミが身体を起こしホキを覗き込む。今までの、どの『イヤか?』よりも切実だ。
「トヨミ、また『イヤか?』って聞いてる」
ホキがクスッと笑う。
「イヤもなにも、どんな所かよく判らないんだもの、判断のしようがないわ」
「ふむ……それもそうだな」
詰まらなさそうに、トヨミはまた横たわった。
「で、思いついたか?」
「まったく……邪魔ばっかりして催促するのね」
「判った、
宣言通り黙り込んだトヨミ、けれど視線はホキに向けたままだ。視線が気になり落ち着かないホキだったがトヨミに出された課題を考えるうち、次第に夢中になっていった。
(誰もが飢えることのない世の中にして欲しい……って、これ、トヨミに願うことじゃないわね。豊穣神に願うことだわ)
トヨミはトヨミにして欲しいことを聞きたいのだ。
(不思議な力があるのは教えて貰ったけれど、具体的にはまだ聞いてない。
不思議な力でもし叶うなら、
冷たい水に入っても冷たさを感じなくなるとか? ううん、水が冷たいのは秋の終わりから春の初めまで。そんなことを願ったら、つまらない女だと思われそう。そうよ、もっと楽しいことを願ったほうがいい。だったら……
「トヨミ、あのね!」
ホキが勢いづいてトヨミを見る。
「フシのお山が見てみたいわ」
「フシヤマ? いいぞ、今度連れて行ってやる。クロコマに乗ればすぐに着く。それで、何か思いついたのか?」
寝転がったままトヨミが事も無げに言った。ホキがあからさまに落胆する。
「そう……」
やっと閃いたホキの願いはトヨミの力がなくても叶えられるらしい。
「なんだ、がっかりして……今すぐ行きたいのか? 三日ほどかかるから、すぐには無理だ。
「ううん、そうじゃない。そのうちでいい――もうちょっと待っててね」
そうか、クロコマは空を飛ぶ。それでも行って帰ってくるのに三日もかかるんだ。噂に聞く美しいフシの山、そんな
そうか、
「トヨミと居たい」
「うん? 今なんて言った?」
聞き取れなかったせいか、トヨミが上体を起こし聞き返す。
「もっと大きな声ではっきり言ってみろ」
自分を見詰めるトヨミを見てホキが思う。なんと馬鹿なことを言ってしまったものか……トヨミは都の貴人、
「いえ、独り言。気にしないで」
「独り言でもなんでもいい。今の言葉をはっきり聞きたい」
「今の言葉?」
「聞こえていたぞ、
「聞こえていた?」
「あぁ、聞こえたとも。だから、もう一度言って欲しい、大きな声で、はっきりと」
そんなこと言われても、『はい、そうですか』と言えはしない。馬鹿なことを言ったと後悔しているのに……
「大きな声ではっきり言えば、身の程知らずと笑うのでしょう?」
「身の程知らず? 何を言っている?
「それは……」
「
「トヨミ……」
「
「イヤ、いえ、
判らないのに判ると言って、あとでバレれば余計に軽蔑される。
「そうか、判らないか。うん、判らないならそれでもいい。いつか判る時が来るかもしれない――何しろ『身分が』などと二度と言うな。
話しているうちにトヨミはジリジリとホキに近付いてきている。興奮が何も考えずトヨミにそうさせていた。
「あ、いえ、
「ホキか、うん、いい名だ――
トヨミがふいっと動き、えっと思ううちにホキは抱きすくめられていた。
「好きだ、ホキ。
耳元で聞こえるトヨミの声、なんだか耳が
トヨミの顔が近づいてくる。こんなに近くで誰かの顔を見るのは初めてだ。今日は初めてのことばかりだ。ホキもまたトヨミの顔を見詰めたまま考える。
新調された装束は今まで着たことがないほど美しかった。初めて髪を結い上げ
トヨミの手がホキの頬を撫でる。
ますますトヨミが近づいてくる。このままだと鼻と鼻がぶつかってしまう。あぁ、でも、やっぱり夢を見ているんだわ。だって、トヨミの目が緑色に見える。綺麗な緑色……
「えっ!?」
「はっ?」
突き放すように離れようとするホキ、驚いて逃がすまいとするトヨミ、
「ヘンな声を上げてどうしたんだい?」
引き寄せながらホキに問う。
「だって、よく見せて。近すぎて見間違えたのかも……トヨミの目が緑色に見えた」
「あぁ……」
嫌われたわけではないと安心したのか、トヨミがほっと息を吐き微笑んだ。
「なんだ、そんな事か」
「そんな事って……瞳の色が緑色なんて初めて見たわ……やっぱりトヨミ、都に住んでるなんて嘘ね? 天界に住んでいるんでしょう?」
一瞬息を飲んだトヨミがマジマジとホキを見て、大声で笑い始めた――
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