4
結い上げていた髪は下ろした。そのうえで
「ホキ……」
髪に
「どうしてもいやなら、月のものになったとカタブに言おう。今ならまだ間に合う」
「それはヒリのために使った言い訳。姉妹揃って月のものは、ないとは言いきれないけれど見え透いた嘘だと思われる。事実、嘘ですし――ヒリがダメなら
傍らでヒリが『なるほど……』と納得している。
「それは違うよ、ホキ。カタブはヒリとは一言も言わなかった。最初から客人はホキを望んだのです。だからホキが考えてくれた言い訳はまだ使っていない」
それをホキは、
「しかし
「
なんとも言えない心地なのだろう。姉の思いやりへの感謝と選ばれた姉への嫉妬、その板挟みでヒリの声が揺れる。
「それに……客人のお心に背けば
「ホキ……」
母が悲しげに、そして頼もしげにホキを見る。
ホキが言うのももっともなのだ。客人がホキを望んだようなことをカタブは言ったが、ひょっとしたらどちらでもいいと言ったのではないかと母は考えていた。ホキの名を口にしたときのカタブは悩んでいるようだった。二人の娘のどちらにするか考えあぐねた挙句、姉にしたのだと思った。
だからホキがダメならヒリでと、きっとカタブは考える。カタブは甘い。ヒリを説得するのは無理だ。屋敷を抜け出してクガネのもとに走るだろう。いくらテイビの乱で優れた働きをした若者だとしても、カタブはクガネを許さない。下手をすればヒリもろとも成敗してしまう。都の貴人の手前、それくらいしなければ申し訳が立たないと考える。
それにカタブは言っていた。
『もしもホキが貴人の子を宿せば……』
なにしろ貴人に娘を抱かせたいのだ。
何を馬鹿なと思った。もし子を
だけどホキ……
「本当に良いのですか?」
良くないと言われれば困るのに、それでも母は訊いてしまう。髪を梳く櫛からさえも伝わってくるホキの震え、娘は男を怖がっている。いずれそのうち通る道だとしても、こんな形で良いはずはない。できることならせめて初めての夜は、思う相手にしてやりたかった。
静かにホキは微笑んだ。諦めてしまっていると母は感じた。
先ほどはヒリと二人、この部屋に来た。だが今度は一人だ。妹がいないというだけで、こうも心細いものか。
部屋の中からは相変わらずカタブの声しか聞こえない。ホキの心とは裏腹に高らかに笑っている。
「ご案内いたします」
戸を開けずに、ホキが声を掛ける。応じるカタブの声はない。笑い声も消え失せた。代わりに聞こえたのは
がらりと戸が開き、伏したホキの目に装束の裾と足が見えた。装束は美しく染められたもの、足は白く、父親のものとは違うのが判る。客人だ。
顔を伏せたままホキも立ち上がり、客人に背を向けて先を歩いた。客人はちゃんとついて来ているだろうか? むこうが
床を延べた部屋の前で再び膝をつき、戸を開けた。深く頭を下げ、
「こちらでございます」
告げるホキの視界の先で白い足が部屋に入っていく。来たんだ――絶望に似た心地でホキは思う。本当に客人は、
ドサリと音がした。客人が部屋の中ほどで腰を下ろしたのだ。ホキは戸を開けたまま、頭を下げ続けた。この先どうしていいのか判らない。部屋に入っていいものか、それとも『来い』と言われるまで、ここに控えていたほうが?
客人が己を見ているのを痛いほど感じる。きっとこちらをじっと見ている。頭を下げた姿勢ではホキの顔は見えていないだろう。望んだ娘だろうかと怪しんでいるのかもしれない。
フッと客人が息を吐く。ため息ではないような? あれは……失笑したのだ。
「失礼いたしました。
「いえ、その、けっして
言っていることが滅茶苦茶だ。この言いようでは無礼ではないか? でもこんな時、なんて言えばいいんだろう?
とうとう客人がクスクスと笑い始めた。そりゃそうだ、さぞや滑稽に見えたことだろう。今は笑ってくれているが、これ以上の失態は怒らせてしまうかもしれない。
「あ……ご無礼いたしました。どうかお許しください。こう言ったことは不慣れでして、どうしてよいやら判りません――お
慌てて言うと、戸を閉めようと膝を立て手を戸に伸ばすホキ、すると
「目障りなはずがあるか?
初めて客人の声を聞いた。
「えっ?」
戸に手を掛けたまま、聞き覚えがある声にホキがつい客人の顔を見る。そうだ、その顔は忘れもしない。
「トヨミ……」
思わず呟いたホキにトヨミが微笑む。
「覚えていてくれたか。忘れられていたらどうしようかと思っていたぞ」
「あ……でも、なんで?」
「また会おうと言っただろう? だから会いに来た――いいから早くこちらに。顔をよく見せておくれ。あぁ、ちゃんと戸は閉めろ」
そうは言われてもすぐには動けないホキ、茫然とトヨミを見ている。手は戸に掛けたままだ。それをトヨミが笑う。
「なんだ、その恰好は? 戸を掴んでいるのが流行でもしているのか?」
「えっ? いえ、閉めます」
慌ててホキが戸を閉める。部屋の外にいたままだ。トヨミがホキの視界から消え、やっとその事に気が付くが、今度は気まずくて戸を開けられない。どうしよう!? やっぱり戸に手を掛けたまま、ホキは動けない。
するとガラッと開けられた戸、引きづられたホキは体勢を崩してその場に寝転んでしまった。それを見て大笑いするトヨミ、屈みこんでホキの手を取る。
「立って、中に入れ……それともこの場がいいのか?
言いながらケラケラと笑う。
「そんな馬鹿な!」
トヨミの手を振り払い、ホキが立ち上がる。トヨミが腕を伸ばし、トヨミの肩に回した。
「会いたかったぞ。
耳元で囁く声、身体がカッと熱くなるのをホキが感じる。だけど……母の言葉を思い出す。今宵一夜のお相手――もう二度と会うことはない。それを忘れてはいけない。心に吹いた冷たい風に、火照る身体が
「
心にもないことを口にして、それが本心だとホキは自分に思い込ませようとする。忘れなければ辛いだけ、慕ったところで叶う相手ではない。
肩に回されたトヨミの腕に後押しされて、部屋の中に足を踏み入れながらホキが答える。
「あと十日もお
「なんだ、
愉快そうにトヨミが笑う。すでに部屋の中ほどだ。トヨミがホキを座らせて、自分も腰を下ろした。すぐそこに延べられた
「十三日? えっと……芹を摘んだのはいつだったかしら?」
「三日前だ。あれ?
「たった三日?」
「あぁ、そろそろ行かないと、一緒に摘んだ芹を食べそびれると思ってね。必死に務めを終わらせて、時間を作ってここに来た」
そうだ、よくよく考えてみるとトヨミの言うとおりだ。その三日は、なんと長く切ないものだったか?――たった三日が
「あれ? なんで泣いている?」
「泣いてなどいません。えぇ、芹はまだございます。だけど一緒に摘んでなどいません。
「泣いているように見えるけどなぁ……これは涙だろう?」
ふいにトヨミがホキの頬に手を近づけた。泣いてないと言った手前、拭えなかった涙は溢れ、ホキの頬を濡らしている。ハッとホキが身を引いてトヨミの手を避ければ、行き場を失ったトヨミの手が宙で寂しげに止まった。
「
トヨミの顔から笑みが消えた。
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