第5話 入部の動機

「くそっ、今に見てろ」


 昼休みになっても、俺は数学の授業で受けた怒りが収まらなかった。


「もしかすると、あの先生わざと斎藤君に当てたのかも」


 北野がイーピンを切りながら言った。こんな時でも紙マージャンをしている自分が、我ながら情けない。


「どういうこと?」


 平中が不思議そうに聞く。


「最初から嫌味を言うつもりで、斎藤君に当てたってことよ。だって、12に導くことなんて、先生にとっては容易たやすいことでしょ?」


「それはそうだけど、なんでそんなことしようと思ったんだろうな」


 林が聞くと、北野は待ってましたとばかりに答える。


「多分、顧問が実績のある岩田先生に替わったことで、簿記部に脅威を感じてるのよ。現に、それっぽいこと言ってたでしょ?」


 そう言われて、さっき和田先生がそのようなことを言っていたのを思い出した。


「だから、みんなの前で恥をかかせて、やる気を失くさせようとしたのか?」


「そう。もし今度の大会で私たちが優勝なんてしようものなら、今までのように優越感に浸れなくなるでしょ?」


「もしそれが事実なら、あの先生、器が小さすぎるな」


「そうね。もしかしたら、お猪口ちょこより小さいかも」 


 平中が林に同調したうえで、少し面白いことを言った。

 もしかすると、彼女なりに場の雰囲気を良くしようとしたのかもしれない。


「よし、じゃあみんなで、あのお猪口野郎を見返してやろうぜ」


 発を切りながら、そう言ってみんなを奮い立たせようとすると、平中が低い声で「ロン」と言った。


「ホンイツ、発、ドラ一の満貫よ」


 涼しい顔でそう言う平中に、俺は口を尖らせる。


「何もこんなタイミングで上がることはないんじゃないか?」


「それとこれとは話が別でしょ? それより早く八千点払って」


(毎度のことだけど、ほんとマージャンに関しては容赦ないよな)


 俺はそんなことを思いながら、五千点棒と千点棒三本をそっと渡した。



 放課後、掃除当番の三人を置いて一人で簿記室に行くと、一年生の二人が何やら言い合いをしていた。


「だから、それは昨日教えたでしょ! 何回も聞かないでよ!」


「聞いたのを忘れてただけなのに、そんなに怒んなくてもいいじゃん」


「私は早く二年生に追いつきたいのよ! だから勉強のジャマしないで!」


(なるほど。そういうことか)


 言い合いの理由が大体飲み込めたところで、俺は二人の間に割って入った。


「まあまあ。二人の言い分は大体分かったから、もうそのくらいでやめろよ」


「あっ、斎藤先輩! いいところに来てくれましたね。今、美桜ちゃんにいじめられて、困ってたんですよ」 


「私はいじめてなんていないでしょ! でたらめ言わないで!」


「だから、もうやめろと言ってるだろ。何度も言わせるなよ」


「分かりました。先輩がそう言うのならやめます。その代わり、この問題の解き方を教えてください」


 一条はそう言うと、仕訳の基礎問題を聞いてきた。


【問題】 京都商店から商品¥1,500を仕入れ、代金は小切手を振り出して支払った。ただし、当座預金の残高は¥900である。また奈良銀行と当座借越契約を結んでおり、借越限度額は¥3,000である。なお引取運賃¥100は現金で支払った。


「ああ、これはだな、まず借方は仕入1,600で……」


「えっ! 仕入は1,500じゃないんですか?」


「引取運賃が先方負担の場合はそうなるが、この問題は当方負担だから、引取運賃の100は仕入に含めるんだよ」


「なるほど。で、貸方はどうなるんですか?」


「貸方は、当座預金900、当座借越600、現金100だ」


「当座借越って、なんですか?」


「当座借越とは、口座に現金がない状態で小切手を振り出した時に、銀行に立て替えてもらうことで、不渡りを回避できる制度だ。まあ簡単に言えば、銀行に対する借金だな。ちなみに限度額を超えた場合は、小切手を振り出すことはできないんだ」


「その場合はどうなるんですか?」


「不渡りになって、取引先や金融機関の信用を著しく失うことになる」


「なるほど。ということは、当座借越を使う時点で、その会社は危ないということですね」


「まあ簡単に言えば、そういうことだな」


 俺はまだ入部して日の浅い一条に、できるだけ分かりやすく教えてやった。


「先輩、実は私、今度の検定で三級を受けようと思ってるんです」


「先生がそうしろって言ったのか?」


「いえ。美桜ちゃんが受けるっていうから、私も受けてみたくなったっていうか……」


「ふーん。そういえば、高橋はこの高校に合格した日から簿記の勉強を始めたんだよな」


「はい。私ももう簿記の基礎は大体分かったので、あとは検定の日までひたすら応用問題に取り組もうと思っています」


「すごいな。俺なんて、去年のこの時期はまだちんぷんかんぷんだったけどな」


「斎藤先輩はいつ三級に合格したんですか?」


「去年の11月だ。ちなみに、他の三人も一緒だ」


「じゃあ今度の検定で三級に合格すれば、去年の先輩たちを超えることになるんですね」


「……まあそうだけど、俺たちが簿記部に入部したのは去年の10月だからな。単純に比べることはできないんじゃないか?」

 

 強気な発言をする高橋に、ムキになって言い返すと、一条が興味津々な顔で聞いてきた。


「先輩はなんで簿記部に入ったんですか?」


「仲が良かった他の三人が入るっていうから、俺もそれに付き合ったんだ」


「えっ! そんな理由で入ったんですか?」


 高橋が不思議そうな顔で言う。


「まあな。それと、その時の顧問だった先生が優しかったのもあるけどな。ところで、お前らはなんで入ったんだ?」


「私は将来税理士になりたいからです。私の目標は高校時代に簿記の一級を取得して、大学時代に税理士試験に受かることなんです」


「へえー。それはまた随分高い目標だな」


「まあそうですけど、過去にそれを達成した人は結構いるので、不可能ではないと思います」


「まあ志が高いのはいいことだよ。で、一条はなんで入ったんだ?」


「私は単純に簿記の成績が良くなると思ったからです」


「なるほどな。まあ入部した理由や志はともかく、一年生は二人しかいないんだから、あまりケンカしないようにな」


 上級生らしくそう言うと、二人はお互いの顔を見ながら、苦笑いしていた。

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