第3話「神オーラ」
「目が覚めたか?」
声に驚き、サヤは周りを見回す。
「!?」
目を凝らして見ても、耳を澄ませても、鼻を効かせてみても、人の気配はない。
彼女は慎重に息を吐き、身体を強張らせた。
声は続ける。
「ぬ? 聞こえぬか? あるいは、言葉解せぬか? ぬぬ……しばし待て。『言霊の調律』を行わん」
少しだけ間を開けて、また声が響く。
「女よ、聞こえるか? すこし調律してみたが、これならどうだ?」
「……」
それでもサヤは答えない。
幻聴に答えてもロクなことはない。彼女は、そのことを誰よりも理解していた。
「ぬぅ……なぜ返事をせん……もしやすでに
うぅむ……であれば、由々しき事態。直ぐモーロヴ様に伝えておかねば……」
そのとき、クッションの毛がふわっと立ち上がった気がした。サヤはそれを見逃さなかった。
(!?)
彼女は何かを思いついたように両手でクッションの毛をかき分け、顔を奥に突っ込んだ。
しっとりした温かみ。鼻腔をくすぐるバニラフレーバーの甘い誘惑。フェロモン、あるいは汗。もっともっと、依存性のある愛しい匂い。
「うわっ! これ!? えっ、なななな、なになに!? なにこれ!? えこれ、生き物じゃん!?」
クッションだと思っていたものは、「巨大な生物」だった。
「おぉ、聞こえておったか! ならば早く返事をせんか、女よ! ……まったく」
「えなになに!? まって、何!? えだれ!?」
「確かに私が誰か気になろうな。
私はイェヌ。異方三聖獣が一柱、
先ほどは、
「えまってまって。てかどーゆーシチュよこれ? 夢か? まだ夢か? いや……まだキマってるんか?」
「待て? 私に『待て』と言うか? はっはっはっはっ! 私に『待て』とは、おもしろい!
汝が言わずとも、モーロヴ様より食事の支度の整うまで
「いやいや、何言ってるんのまじで? 意味わからんし……」
「ぬぬ……何が嫌か分からんが、珍しい物言いだ。
だが安心せい。
モーロヴ様の料理は全界極品の美味。人界や天界、魔界、さらには神界に住まう者たちですら、そうやすやすと口にすることができんのだぞ」
「まじ何言ってるかわかんない……」
巨大な生物がゆっくりと動き出すと、サヤはその場でころんと転がった。
「……おわっ! とと!」
安心感のある太いゴツゴツした部分や、やけにフヨフヨした部分にぶつかりながらも、彼女は必死に体勢を整える。
ちょうど窪みにはまり込んだところで見上げると、山の向こうから、大きな獣の顔が現れた。
「やば……どーゆー生き物だよ……」
まず目に飛び込んできたのは、六つの瞳。
紅、碧、金、翠、白、黒、それぞれの瞳は宝石のように異なる輝きを放っていた。
視線は鼻梁から鼻孔、そして口唇へ。
わずかに覗き見える巨大な牙。乳白色のそれは、慈悲と酷薄さを併せ持った剣のような形をしていた。
天を切り裂くようにそびえ立つ、四つの耳がピクピクと動く。
その姿に見とれていたサヤは、少し間を空けてようやく驚き、口早に叫んだ。
「えやばっ!! 目多っ!! つけ目!? 口でっかいいわ!! てか耳、耳かわいすぎ!! てかこれ本物のオオカミ!? なに食って生きてんの、熊とか丸かじりすんの!?」
イェヌは遠慮ぎみに口を開け、奥に続く真っ赤な洞窟を少しだけサヤ日見せた。
「なるほどそうか……食欲欲盛でなによりだ。『黄泉がえり』後から間もなく『完全回復』を施したのだ、さぞ腹も空いていることだろう」
「ぇ?」ぽかんとした顔でサヤも口を開ける。
「え、なに?……ヨミガエー……リー? から? カンゼンカイフクー……? てどゆこと? てかわたしのスマホ知らない? さっきから何言ってるかホントわかんない」
サヤの思考はクリアだったが、イェヌが何を言っているのか、さっぱり理解できなかった。
ガンギマリした後の記憶はない。
悪夢から目覚めると、そこは森の中。巨大なオオカミの上で寝ていた。しかも裸で。もちろん財布もスマホもない。
さっぱり理解できないことが続いているが、逆に言えば、昨夜「何か」が起こったということだ。
彼女はそのことについて尋ねようとする。
「てか昨日って――」
が、それよりも早くイェヌが大きな口を開いた。
「おぉ! ちょうど整ったようだ! さすがモーロヴ様だ! お忙しい中でも、すべてご覧になっていたのかもしれん」
「え? モーロ……なに様?」
「では、『大広間』へ参ろう」
「えー無視!? ……てか? オーヒロマ? 大広間てこと? なになに!? えなに?」
イェヌの六つある眼のうち、黒い瞳が鋭く光った。
(キンッ)
その瞬間、森のざわめきが消え去り、まるでシーンが切り替わったかのように世界が変わる。
「うぇっ!?」
まるで中世の宮殿のような豪華な大広間。
頭上に枝葉はなく、見上げた先には無数のシャンデリアが煌めいている。
天井まで伸びる大きな窓から朝日が射し込み、豪華絢爛な内装が金色に輝いていた。
優美なタペストリーや地図。奥のほうには、三匹の獣を従えた青年の絵画が見えた。
長く伸びたテーブルには、真っ白なクロスと燭台以外何もなく、三つの高背椅子が静かに置かれていた。
サヤは自分が立ちすくんでいることに気付いた。
「えどゆこと!? なにこれ!? 城? ドッキリ!? やば! なんで? 個撮だったらまじウザいんだけど!?」
彼女の問いかけに答える者はない。
イェヌは立ち上がり、その巨体を揺らしながら黙って椅子の方へ歩いていく。
彼の大きな尻尾が揺れるのを見つめていると、サヤは
「……あれ? これやばい? やっぱわたし、いまキマってんの? えー? わりとガチで夢と現実分からんとかえぐい」
(ノソ……ノソ……)
(サッ……サッ……)
イェヌの巨体が一歩ごとに縮んでいく。
その姿は次第にぼやけ、まるでそこだけブラーをかけたように見えた。
(コツ……コツ……)
そして気がつけば、ファンタジックな軍隊の儀礼服をまとった
「あー……」と声を漏らすサヤ。「……ケモノの俺、実は、2.5次元超イケメンコスプレイヤーでした系?……て?」
唖然とする彼女の後ろから、「こほん」という乾いた音が響いた。
「お待ちしておりました」
「わあっ!? ばびった!!」
サヤは思わず大きな声を出す。
プロの殺し屋ほどではないが、普通に後ろに人が立って居れば分かったはず。
彼女はぎょっとして振り返る。
そこには、クラシカルなメイド服を纏った給仕の女性が静かに立っていた。
「こちらをお召しくださいまし」
無表情で立つその姿は、まるで彫像のように微動だにしない。彼女は音もなく腕を伸ばし、「白い薄布」をサヤに差し出す。
「お召くださいまし。て……ちょ……こわいこわい……顔こわ……メイク盛りすぎて笑えん感じ?」
メイドは無言のまま、薄布を差し出し、立ち続けている。
遠くから人型になったイェヌの声が響いた。
「我々には何ら差し支えはないが、汝が心もとないなら、それをまとうと良い。受け取れ」
「……
いや、てかその前に、わたしハダカじゃん? ノーパンノーブラで布だけ着る?
て、もうそれ完全に撮影前の女優スタイルじゃん?
あー、やっぱこれキメセク系の個撮か!? あー、クッソむかつく! てかわたし、ネット同人系はぜったいやらんで!」
サヤが憤りながら布を受け取ると、手にしていた薄布が滑り、彼女の胸と腰に巻き付いた。
「えっ!?」
(キラッ!)
布は一瞬だけ光を放つ。
サヤに巻き付いた布は、赤と黒のレースで彩られたフロントクロスのコードブラと、透けバックのTショーツへと一瞬で変化した。
ガラス窓に写った自分の姿を見ながら、サヤは下着を確認する。
「……え……これ、アニメの『変身シーンで一瞬映る、光るインナー』? まじ?
うわー、あれってほんとにあるんだ……
じゃこれ、ぜったいワンチャンあるじゃん……ぜったい全身いけるやつじゃん……」
ニヤリとするサヤ。
すこし考えて、自分の愛用しているブランドの「新作セットアップ」を思い描いた。
(……今年のAWコレクション! サイドアップヘムレース長袖セットアップ! ワインレッドのやつ! ハートボタン付きリボンで、ソックスはあれで……靴はこれにして……リングとバッグは別ブランドにして……髪は編み込みツーサイドアップで、リボンも同色で……)
布は再び光を放つ。
(キラッ!)
サヤがもう一度ガラス窓を見てみると、想像した通りの自分が写っていた。
深紅と黒の量産型コーデに包まれた少女は、満足げにその姿を眺めた。
「えやばっ! 変身まじ変身! 変身やばー! サイドのスピンドルめっちゃ良き! しかも靴とかバッグもコーデできんのやばすぎ! やばー! バレエコアのセットアップも着たいんだけど!? てかこの布ほしーんだけど!」
―― チリンチリン
耳の奥をくすぐる鈴の音が、大広間に響いた。
そして、部屋の横にあった両開きの扉が静かに開く。
(キィ)
列をなしたメイド服の給仕が、音もなく料理を運び込んでくる。
宙に浮く銀色のカート。山盛りの料理。
本能を刺激し、視覚と嗅覚をクラックする、原始的で残酷な拷問。
メイドたちは手際よくテーブルに料理を並べ、それが終わると壁際に沿って整然と並んだ。
彼女らはまるで時間が止まったかのように微動だにしない。
「いや、こわ……(ジュル……)」と眉をひそめるサヤ。
すべての準備が整うと、開け放たれた扉の奥に白い人影が見えた。
コック姿の男。
老人と呼ぶには早く、中年とも言い難い、謎めいた雰囲気。彼が帽子を取ると真っ白のウェーブヘアがふわりと揺れる。
サヤはその顔を見て、昨夜の夢をはっきりと思い出した。
「あーーーー!!」
暗くて、寒くて、痛くて、果てしなく続く恐怖と苦痛。
夢とは思えないほどリアルな「死」――その後に見た、奇妙な光景。
まるで、ファンタジー映画の世界から、そのまま抜け出したような人影。
否、コスプレをした白髪の爺。
「うぇっ! あっ! 夢ん中にいたコスプレイケ爺!? えまってまって……
じゃ2.5次元超イケメンコスプレイヤーくんって、でかオオカミ=ファーのポンポン!?
えやば! あれ
混乱するサヤをよそに、コック姿の男は堂々とした足取りで最後の席に座り込み、にっこりと微笑む。
そして「パン!」と手を叩いて言った。
「皆、待たせたな。『あの
だが、自信作だ。許せ」
「とんでもございません! モーロヴ様の手料理を口にできるならば、このイェヌは幾千年でも待ちましょうぞ!
この場に居合わせなかった者たちのことを考えると、もはや憐れみを感じるほどです」
軍服姿のイェヌは白灰色のサラサラヘアを揺らし、まるで忠犬のように姿勢を正した。
「はは、世辞はよせ」
モーロヴは微笑みながら手を上げ、遠くの頭を優しく撫でるような仕草をした。
そして今度は、サヤのほうに向き直って語りかける。
「女よ。気分はどうだ?
まぁ、悪くないだろうが、今は戸惑いのほうが大きいかもしれんな。なにせ昨夜は黄泉から帰ってきたのだ」
「でった……またヨミガエーのリー…の話しかよ……それ意味わからんから……」
「ともかく腹ごしらえが先だ。遠慮せず食って、よい一日のはじまりを迎えよう」
サヤはモーロヴに、畏怖や尊敬をまったく感じなかった。
それはもはや、不敬や冒涜では済まないほどの大罪とも言えたが、彼女にとってモーロヴは「そのへんの爺」と大差ないように見えた。
だが同時に、彼女は別のものを感じ取っていた。
目が眩むほど神々しく、息が止まるほど禍々しい「何か」
なんの「力」も持たない人間には、決して感じることのできないもの。
「えー、めっちゃ『神オーラ』出てんじゃーん!」
彼女にとって人生最高の朝食が始まった。
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