第2話「人生最高の朝」

秋の朝。


森は薄靄に包まれ、シルクのような静寂が広がっていた。


木々の隙間から光が射し込み、森全体に金色の筋を描きだしている。


クワッ!と鋭い鳴き声。


それを合図に小鳥たちが一斉にざわめきはじめる。


ひんやりとした風が滑るように吹き抜け、色づき始めた葉が揺れた。


カサカサという音が響き、森全体がゆっくりと目を覚ます。





女はまぶたを閉じ、横たわりながら、神々の息吹を感じていた。


身体はまだ重く、砂の夢は心を捕らえて離さない。眠気の残る感覚が、女をさらに憂鬱へと誘う。


だが、光の温もりがじわじわと肌に染み渡り、意識は次第に浮上してくる。


(……あー……また朝だ……あぁぁぁぁ、朝……ほんとやだ……ほんと……やだ……朝、まじムリ。起きるのイヤ。てか目覚めたくない……)


女は朝が好きではなかった。


特にこの一年半、毎朝毎晩、おはようおやすみと「死」を願っていた。


しかし、なぜか今日だけは違った。


(……えまってまって?……今日……なんか寝起きやばくね?……な、なにこれ?……わたしどーなった?)


ずっとモヤっていた頭が、今朝は信じられないほどシャキっている。


五感フルMAX。


目は閉じているのに、周りのことが手に取るように分かる。


クスリが残ってる感じはない。でも、やばい。


ここは森の中。わたしはふわふわで毛足の長い毛布に包まれてる。


裸で。


冷たくて心地よい空気が頬に当たって、肌がすーっと引き締まった。体の細胞が目覚めて、力を取り戻してるみたい。


土っぽい木っぽい香りがして、ちょっとカビ臭い匂いもする。


葉っぱの揺れる音、動物の小さな鳴き声まで耳にハッキリ届いてくる。今なら、「光の粒」」ひとつさえ掴めそうだ。


クスリじゃ絶対味わえなかった「本物の幸福感」が、わたしの全身を満たしている。


人生最高の朝。


てか、なんでこんなことになってんの!?


わたしは深く息を吸い込み、ゆっくりと昨日の記憶をなぞりはじめた。


(えぇと……昨日は……)


夕方から七人の客をこなし、最後のを支払いに「店長」のもとへ向かった。死ねハゲ。


もちろんそこには「あいつ」も居た。


コンプレックスを包皮で覆った、無駄にデカく鍛えられた身体。ふた昔前のヤンチャ格闘家ライクな変な髪型が、とにかくキモかった。死ねチビ。


あいつは指が四本しかない左手でわたしの肩を掴み、ニヤついた口元を動かした。離せ、殺すぞ?


「サヤぁ~! ついに今回で終わりやのぉ~!


一年半、ホンマあっちゅう間やったな〜。しょ〜じきオレもな、最初は無理や思たけど、よ〜耐えたわ。


もちろん約束通り『例のこと』は施設には内緒や。お口チャックや。


どこの世界でも信用第一やからな! がはははは!」


臭いうえに無駄にデカい笑い声が、耳クソになって消えていく。


店長もあいつに合わせて笑うと、誰もいない店内にふたりの声が響いた。


死ね。ふたりとも死ね。


でも、これで「ケジメ」はつけた。もう終わった。二度と関わりたくない。全員死ね。


「じゃ、これで終わりてことで……色々さーせんした……」


わたしが席を立とうとすると、あいつが右腕をガシッと掴んだ。


掴むな、殺すぞ。死ね。


「まぁまぁまぁまぁ! まてまて、サヤ!


今日は『ケジメ記念日』やで?

ほんで明日、お前誕生日やろ?


ほなら、このタイミングで『誕プレ』渡さな、いつ渡すねんな? がはははは!」


いらね。殺すぞ。死ね。


まじそーゆーのいらんから。


あいつはダサいブランドバッグから小さなパッケージ袋を取り出し、それをわたしに差し出した。


それは百均に売ってるようなフレークステッカーセットのようなものだった。


まじいらね。死ね。


「これ、今度発売予定の『新作』や。かわちぃやろ?


使い方も簡単や。後ろのシート剥がしたら、舌に乗っけて溶かすだけや。しかもこいつ……いままでのんよりめっちゃ効くで?


モチモチ、キレッキレや。まぁこれは、ホンマのホンマに『善意』のプレゼントやからな。お前の新しい門出への選別や! がはははは!」


「……」


わたしは理性を失い、迷わずその「誕プレ」を口に放り込んだ。


人生最期のガンギマリ。


その後、何があったのかは分からない。


次に目覚めたときに見たのは、夢か幻覚か曖昧なもの。それを思い出し、サヤは胃の中がひりつく感覚を覚えた。


暗くて、寒くて、痛くて、永遠に続く恐怖と苦痛。


夢とは思えないほどリアルな「死」がそこにあった。


思わず吐き気をもよおすサヤ。


(っぷ……)


それなのに、今日はまるで神に祝福されたような気分だった。


目覚めの不安も、頭の中のモヤモヤも、寝起きの一服すら欲しくない。


常に気になっていたクスリのストックのことも、今はまったく気にならなかった。


「風」も「立ち」も「抜き」も「クスリ」も、ぜーんぶ止めて、もっかい真面目に生き直せそう。


今なら出来る。彼女はなぜか確信めいたものを感じていた。


(……このまま寝ててもしゃーないし、とりま起きるか……てかなんで裸? 服とかどーしよー……)


サヤは軽く伸びをして、「んっ」と上体を起こした。





まぶたに眩しい光が射し込んでくる。


それは祝福の闇でもあり、弔事の光のようでもあった。


目の前の木々には、彩り豊かな秋の点描が広がっている。遠くのほうで響く鳥の声。そこには、思い描いていた通りの景色が広がっていた。


ふと視線を落とすサヤ。


自分が包まれているものが毛布ではなく、超巨大なクッションであることに気づいた。


サイズは繁華街の安ラブホ安部屋では収まりきらないほど大きい。


白灰色シルバーアッシュの長い毛は、ふわふわでサラサラで、幻想的な温もりを持っていた。


表面を優しく撫でながら、サヤは吐き捨てるようにつぶやいた。


「……どこで売ってんだよこんなの……そんで、クスリで飛ばして、森のクソデカクッションで青姦してポイとか、ほんと最後の最後までマジのクソだな……ほんと死ねよ社会のゴミが……」


思わずクッションの毛をぎゅっと握りしめると、突然どこからか声が響いた。


「目が覚めたか?」

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