第1話「勇者継承」

森全体が異様な静けさに包まれていた。


さっきまで吹いていた風が、突然ぴたりと止んだ。


枝葉は強張り、自分は石だと思い込んでいる。


獣も鳥も、そして虫たちでさえも、身じろぎ一つせずその場で息を殺していた。


森の奥深くにある小さな広場は、まるで悪魔たちによるオペラが始まる前のような、重い静寂に満ちていた。





月の光が照らす小さな丘。


そこに眠るのは、生まれたばかりの死。


腐臭こそ漂っていないが、消えゆく魂の残滓はあたりを鮮やかに彩っていた。


丘の上に、宙を漂うふたつの影があった。


手のひらよりすこし大きいくらいの、ファー毛玉ポンポン


そして、深紅のマントをまとった男。


白灰色シルバーアッシュの毛玉が、震えながら隣に問いかける。


「……モーロヴ様、これにてよろしいのでしょうか?」


声は光となり色となり、隣に浮く影に伝わった。


「イェヌ……今更何を言うか。そもそも、お主が言い出したことではないか。どうしてもというのなら、蘇生を止めてもよい。しかし、その後の責任は一切負わぬぞ」


辺りに響き渡る、モーロヴの意思。


彼は意地悪げに微笑みながら、ウェーブのかかった真っ白い髪を揺らした。


老人と呼ぶには早く、中年とも言い難い、焦点が狂ったような存在感。


マントの隙間から白銀の鎧がちらりと見えた。そこに刻まれた紅い紋様は、ゆっくりと脈動するように点滅を繰り返していた。


本能が直感的に「関わるな」と警告してくる。


しかし、イェヌは毛を逆立て、体を大きくふくらませて憤りをあらわにした。


「ぬぬ……責任を追わぬなど、またそのようなことを……」


モーロヴの周囲をぐるぐる飛び回るイェヌ。


「たしかにも申し上げたのは私でございます。


しかしそれは、あくまでも『この世界パーク』の定めに則ったものでございまして、私の私見ではございません。


それに、あのまま放置すれば、この者は必ずや『肉持ち不死人』となっていたことでしょう」


「まぁそれも一興であろう?」モーロヴは白いヒゲを撫でながら答える。


「あれほどの強大な魔力を放っておりましたゆえ……良くて『暴食者』、悪くて『門衛』にまで至ることもあり得たのです!


……ゆえに、ここで、それを見過ごすわけにはまいりませぬ!」


イェヌがモーロヴを回るたびに、鱗粉のような輝く粉が宙を舞う。


粉が地面に落ちると、ほのかに光るコケが生まれた。


それはじわじわと広がり、場所によっては草のように伸びていった。


「あぁ、こらこら、止せ止せ、冗談だ。お主を責めているのではない。少しからかってみただけだ、許せ」


モーロヴは重厚なガントレットをつけた手でイェヌを優しく掴み、空いたほうの手で宙をふっと払う。


光るコケや草は風に吹かれ、元の粉となって宙に霧散していった。


イェヌが手の中で「ふんっ!」と再びぶるっと震える。


「今一度、ご説明申し上げます」


すると、天から滝のように文字が現れる。


イェヌは伸ばした毛束で文字を滑らせ、ある箇所を拡大した。


「モーロヴ様、ご覧あれ。ここです! ここ!  先だってのニュースリリースでございます。


優先度が低くなったゆえ、上層にはもう見えずとも、つい最近まで入場時に周知されておりました!」




/* ―― 【お詫び】パーク内で疫病対策について ―― */


先日、当パーク内人界ランドにおいてクラスターが発生し、多くの皆様にご迷惑とご心配をおかけいたしましたこと、心よりお詫び申し上げます。当パークは「無責任・無礼講・無作法・無秩序・非効率」という五つの鍵を掲げながらも、人界での安全で楽しい体験を提供することを最優先に考えておりましたが、このような事態を招いてしまったことを重く受け止めております。


現在、関係機関と連携し、感染拡大防止策の強化および再発防止に向けた取り組みを進めております。また、クラスター発生の兆候である「肉持ち不死人(*1)」発見した場合は、速やかに最寄りのキャストにお知らせいただくか、各神での対応をお願い申し上げます。


今後もゲストの皆様とキャストの安全を最優先に考え、より一層の注意を払ってまいります。何卒ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。


パーク運営責任者:地球八百万八十八神


(*1)……腐死者、餓鬼、食屍鬼、偏食家、暴食者、等


/* ―――― */




「ふん……」宙に浮かぶニュースリリースの文面を見て、モーロヴは冷ややかに眉をひそめる。


「いかにも薄っぺらき文だのう……ただ謝罪の言葉を並べた児戯に過ぎぬ。それに、この粗雑さ、極低位の神工精霊が作ったことが丸わかりだ。


そもそも、『各神での対応をお願い申し上げます』などと言うは……つまりは『これまで通り好きにしてくれ』と同意ではないか」


「仰せの通りでございます。あえてそのようにして、意図的に挑発しているのでございましょう。


はぁ……我らがまだこの世に生きたる時は、かくのごとしではなかったはず……たかだか七百年にして、どうして欺くまで変わってしまったのか……『管理』の及ばなかったあの頃が懐かしい」


イェヌがさらに言葉を続けようとしたその瞬間、足元にある小さな丘がわずかに動いた。





ポフッ……





ふたりは口をつぐみ、その異変に目を凝らした。


……モゾ……モゾモゾ……


小さな丘の土が呼吸をするかのように、静かに上下している。


だが、それはネズミやモグラといった小動物の動きではない。もっと大きく、重々しい何かが地下でうごめいているようだ。


「おぉ! そろそろ出てくる」モーロヴが低くつぶやくと、イェヌは「この者、なかなか│いきが良いですな!」と応じた。


森全体がその時を見守った。


……ズッ……ズズ……


小さじ一杯ほどの土が宙を舞い、静寂が破られる。





ズボッ! スボボッ!





地中から現れたのは、「白い根」—— 人間の指先のようなもの。


しかし、そこに生々しい肉の温もりはなく、剥がれた指の腹からは、泥に塗れた骨が飛び出ていた。


十本の白い根は、土を掻き分け、大地の息吹を求めるように激しく蠢きはじめた。


地中から響く断末魔の声。


それはまるで、赤い苦痛と黒い絶望による、青臭い初恋バラードのようだった。


ついに何かが地中から這い出してくる。


「っぷぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!!!」


グチャグチャに絡まり合った黒とピンクの毛束が土を払い、狂気の産声が夜空に響き渡った。


土と体液のメイクで飾られた顔は腫れ上がり、鼻が真横に折れ曲がっている。


垂れ下がった前髪の奥には、悪鬼羅刹の慣れ果てのように紅く燃える瞳があった。


地獄のオペラ歌手は歌う。


「……ひゅっ!ひゅっ!ひゅっ!ひゅっーーーー!……ぶはぁぁぁぁーーーー!……っひゅぅぅぅぅーーーー!……ぶはぁぁぁぁーーーー!…………っひゅぅぅぅぅーーーー……ふはぁぁぁぁーーーー……ぁぁぁぁ……あ゙あ゙あ゙あ゙……あ゙あ゙あ゙あ゙!!!!」


凄まじい音が空気を引き裂き、地表のマナを貪るように吸い込む。


開いた穴の中に歯は一本も見当たらず、まるで捨てられた性具のような惨めさをさらけ出していた。


土にまみれた青白い肢体には死斑が浮かび上がり、全身が狂気に震えている。ときおり見える肉の断面は、まるで美大一年生の抽象絵画のように鮮やかだった。


唯一性別を感じさせる二つの乳房を振り乱しながら、女は地中から下半身を引きずり出し、力尽きたようにその場に横たわった。


「かひゅぅーー!! ふひゅぅーー!! ふすぅー!! ふぅー!!……すぅー……すぅー……ふぅ……すぅ……」


森全体を包んでいた異様な静けさが薄れ、再び時間が再び動き出す。





なんてことのない、秋の夜。


少し寒いくらいの風が吹き、枝や葉がカサカサと音を立てた。


キキキッという鳴き声と虫の音が混ざり合い、安らかな原始のシンフォニーを奏でた。


さっきまで食用不可のクズ肉だった女は、森の音に耳を傾けながら、深く肺に空気を吸い込んだ。


「……うふぅ……はふぅ……」


冷たい地面の感触が土と石を通して全身に伝わってくる。


風が肌に当たり、自分が一糸まとわぬ姿であることに気づく。


背骨、胸、腕、脚、下腹部に走る激痛は、骨折や酷い裂傷を直感させるものだったが、苦痛に顔を歪める気力はない。


指先は異常な熱さを帯び、さらに言えば、顔面の感覚はまるでなかった。


女は身体を仰向けにしようと、腕を挙げ、股を開く。


「……あぐっ!……はぁっ、はぁっ……あぅっ!……ふぅぅぅぅ……あ゙あ゙あ゙あ゙!!!!」


信じがたい激痛が全身を襲い、意識が遠のく。


もう耐える必要はない、楽に死のう!

どれだけ苦しくとも、生き残るのだ!


安楽を願う死の天使と、苦痛を司る生の悪魔が、激しい議論ディスカッションを繰り広げる。


両人が激しい論戦を繰り広げるなか、彼女の目に映り込んだのは、闇夜に輝く白い月。


その美しさに、一瞬だけ苦痛が和らぐ。


だが、再び痛みが襲いかかる。


意識を飲み込むほど強烈な痛み。意識を手放しかけた瞬間、女は目の前に広がる奇妙な光景に気がついた。


空中から自分を見下ろすのは、まるでファンタジー映画の世界からそのまま抜け出したような、マントをまとった人影。


老人と呼ぶには早く、中年とも言い難い、焦点が狂ったような存在感。


否、コスプレをした白髪の爺。


それに、高価そうなファーの毛玉ポンポン


そんなものが瀕死の自分を見下ろしている。空中から。


混濁する意識を必死にたぐり寄せ、女は頭を整理しようとする。


だが、思考は│も《・》│や《・》がかかったままで、今は何も考えられない。


もはや自我すらハッキリしない中、唯一ハッキリ聞こえてくるのは、彼らの話し声だった。


「見よ、イェヌ! あれだけ損傷をこうむりながらも『黄泉がえり』だけで、ここまで這いずれるとは! まったく恐れ入る!」


「モーロヴ様、これをご覧くだされ!


蘇生した途端、詰まっていた『逕路スキルツリー』が通じ、最初の『スキル』が開かれたもよう!


それに、この者の魔力は……まさか……の……」


「おぉ、これは……なるほどな……そうか……今さら、かくのごとき機会に巡り会わんとは……この世界パークの管理者たちも、なんとも粋な計らいをするものよ……」


「モーロヴ様、いかがなさいましょう?……」


「千載一遇の好機。まさか、これを逃す手はあるまい……」


遠のく意識を繋ぎ止め、女は必死に彼らの声を聞き続けた。


しかし、それも限界を迎えようとしていた。


(なに言ってんだ……こいつら……へんなの……あぁ……やべ……ねむ……またしぬ……)


意識が途切れる直前、神々しい声が女の耳に届いた。




「……『 勇 者 継 承 』……」




温かい光に包まれ、心地よい陶酔感が全身を包み込む。


女は人生で一番幸せな眠りについた。

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