「ありがとうと言う日」 ~ホームドラマ~ だから諦めないで

 きょうは大好きな母の誕生日。

 そう、特別な日、おめでたい日。

 だというのに、わたしの心は石像のように重かった。


 というのも、わたし、山埜有紗やまのありさの母、山埜成美やまのなるみは、わたしと大喧嘩をした五年前のあの日を境に、睡眠中に身体の時が止まり、目を開くことも喋ることも、立ち上がることも歩くことも、笑うことも泣くことも、こともことも……できなくなってしまったからだ。


 わたしはずっとあの日のことを悔やんだ、あの日のわたしを恨んだ。

 わたしはずっと……ずっと、あの日の母にごめんなさいと謝ることをすればよかった、と自分を責めた。


 しかし、いくら自分のしたことを悔いて、自分を恨んで責めても、母は五年前の姿のままであり、気づけばわたしは十七歳を迎え、いつまでも母のことでクヨクヨしていられなくなった。


 これはわたしの父、山埜翔輔やまのしょうすけの言葉。


「いいか、有紗。とうにおれは母さんのことは諦めた。だから、お前も母さんのことは諦めなさい。

 きちんと自分の将来について考えなさい。中卒でも社会に出て働くことはできる。

 そんなんじゃ、お前……余計に母さんを悲しませるだけだぞ」


 とうに父は母の回復を諦めているとは言うものの、そんなことはなかった。

 もし父が母のことを諦めているのなら、父は母のぶんの食事は作らないだろう。


 わたしはわたしで、母がいつ回復してもいいように、五年間もの日記を綴ったり、母のための服やアクセサリーなどをじっくり選んで買ったりしている。


 そう、わたしと父は母が回復する前提で動いている。


 けれど、ここ最近のわたしはもう……希望が消えかけていた。

 たぶんそれは父もだろう、父はここ最近、母がベッドに横たわる部屋には食事を置かず、食事は食卓に置かれるようになった。


 わたしの……せいだ。


 わたしは母の横たわる姿を前にして悲しみがこみ上げ、うっかり父お手製の誕生日ケーキを床に落としてしまった。


「あっ……!」


 床に落下したケーキは歪な形でわたしを見つめていた。


 そばにいた父は息を呑むと、嗚咽を漏らす。


 このとき、この瞬間、わたしの何かが弾けた。

 吹っ切れた、という表現がより正確か。


 わたしは母の顔をまっすぐ見据えると、髪を振り乱しながら、感情を込めて叫んだ。


「お母さん……ごめんね! わたし、お母さんのこと、大好きなの……眠り姫になっちゃえ、って言って、わたしのために作ってくれた誕生日ケーキを床に投げ落としたわたしでも、こんなわたしでも、お母さんのことを今でも大好き……!

 わたしはね、お母さんが元通りになるまで、何年も……ううん、何十年もこうして待ち続けるの!

 でもね、わたしたちのことは心配しないでいいからね? わたしは大丈夫。父さんはわたしがなんとかするから、安心してね。大丈夫、大丈夫だから。安心して」


「有紗、お前……ん」


 静かに、とわたしは手で父の言葉を制し、少しのあいだ真顔になったのち、精一杯の笑顔で母に「お母さん」と呼びかけた。

 精一杯の笑顔……そう、泣きながら笑った顔で、母に何度も呼びかけた。


「大好きお母さん……大好き大好きお母さん……わたしのお母さん……!

 わたし、お母さんのこと、大好きだよ……!」


 わたしは膝から崩れ落ちると、溢れ出した涙という愛の雫をこぼれるままにさせた。


 そのときだ。


「有紗、立派に……育ったわね」


 どこか安心感、どうにも愛おしく,無性に懐かしくもある女性の声がした。


 わたしは息を呑む。

 その声は……だって、その声は!


「でもあなた、痩せすぎよ。レディはムチムチなくらいがちょうどいいのよ」

「お母さん……?」


「それに何よ、男子から太ってる、って言われたくらいで……わたしお手製バースデーケーキを食べないと言い張ってさ、挙句の果てにケーキを投げ落とすのは、下の下……って、ちょっと? なんで床にケーキが落ちてるのよ!

 有紗ぁ? あなたの体型なんてどうでもいいから、アリさんが来る前にこのケーキを……」


「お母さんっ……!」

「成美……本当に成美、なんだな。夢じゃないんだな……!」


 わたしと父はそれぞれ反応する。


 母は床に落ちたケーキを人差し指で少しすくうと、それをペロリと舐める。


「うん、とっても美味しい……!」


 母の目から涙がこぼれ落ちる。

 直後、母は我に返ったようにハッとすると、わたしと父のほうに目を向け、口元を緩めて笑った。


「ただいま、二人とも……!」


 父は涙で濡れた顔をクシャクシャにさせながら、「おかえり、成美……ああ、おかえり!」と母の顔に触れた。


 わたし、わたしは……おかえりやごめんなさいよりも、まず言うことがある。

 それは――。


「ありがとう、お母さん……! おかえり、それからごめんね。そう、それからねっ」


 大好きだよ、お母さん……!

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