第32話 小さな恐怖
大砲じみた轟音が廊下を木霊した。
とてつもない衝撃が空気を伝って、この心臓を打ち鳴らす。
煌々と輝く藍色の炎が炸裂する。
深々と抉れた床。遠くまで貫かれた廊下の壁。それはまるで、一つの星が通り過ぎたかのように超自然的な光景だった。
ケレスの影は跡形もなく消えていた。大方、塵か炭になって、そこいらの瓦礫と区別が付かない様子になったのだろう。目にも留まらないほど一瞬の出来事だった。唯一静かにそれを物語っているのは、この手で握っているマウルタッシュの赤熱した姿だけ。
滅転砲。きっと伝説に聞くマーガレットの技なのだろうが、恐らく彼女は私の数倍も恵まれ、鍛え抜かれた肉体をしていた筈だ。私は槌を振り上げた姿勢のまま暫く硬直していた。たった一発放っただけで反動から全身の筋肉が限界を訴えている。もう一度試みれば、少なくとも1カ月はスプーンを持つことすら難しいだろう。
マウルタッシュは役目を終えたように、端から崩れてただの砂鉄に戻っていった。まだ熱を帯びた粉末が首筋に触れて、私は思わずそれを振り払った。
「あつッ……」
砂鉄を振り払う際に、左肩のあたりで大きな異物に手が触れた。
柔らかい果物の詰まった小さな麻袋か何かのような感触。
何か重たいものが落ちる音がした
それは私の腕だった。袖に通されたままの左腕が、投げ捨てられたゴミみたいに何の違和感もなく床に転がっている。
じわりと赤が滲んで見えた途端、私は現実に立ち返った。痛みを感じない、悲鳴も出ない静かな発狂があった。真っ白な頭の中で、私の思考の声が遠のいていく。
咄嗟に私は、床に積もっている砂鉄を片手で掻き集めた。暗く赤熱した砂鉄を鷲掴みにして左肩口の面に押し当てると、聞いたこともない爛れた物音と、焦げた小麦粉のような異臭がした。
やはり悲鳴は出てこない。代わりに意識が朦朧として、自分のしている行動がとても俯瞰的に見えるというか。他人事のように感じられた。
焼いても完全には止血ができなかった。そうしているうちに、流れていく私の体液で砂鉄が冷えてしまった。
抽象的な思考しかできない。砦という砦を一息に壊された精神を守るため、脳へ送られる情報がふるいに掛けられている。しかし、思考だけが私の手元を離れて勝手に躍動する。
私が〈滅転砲〉を打った瞬間、きっとケレスは驚異的な速度で大勢を立て直し、蛇行剣で私の左腕を切断したのだ。再現が終わる一瞬を私が狙っていたように、ケレスもまた自分が自由に動けるようになる瞬間を狙っていたのだろう。
ああ、だからこそ。
私の中にある臆病が、最後に最悪の置き土産をしていった。
もしも、あの怪物に理性があるとしたのなら。
私の企みが、全てあの怪物に見透かされているのだとしたら……。
重たい目蓋が、ゆっくりと瞬きをする。
スリットマウスの言葉がこの頭の中で蘇った。
『――ビビってるの?』
偶像精霊ケレス・マリアンナが、廊下の向こうで幽鬼のように佇んでいる。
鯨の肌を彷彿とさせる漆黒の体表。細い体躯。女体のような膨らみのある稜線。虚ろな腹に空いた深淵の中で、暗い闇が煙のようにうごめく。あれは微動だにせず、海の底を彷徨う亡霊みたく私を見つめていた。
ケレスが歩み出す。全身の骨を支えるのも億劫にゆっくりと、ゆっくりと近付いてくる。鎮静剤を打たれた精神病患者が、明かりのない深い暗闇を歩くように。人間性や、生物としての輪郭を失い、ただ衝動のままに獲物を求めて徘徊する怪物。
そんなものが、私を見つけて、狙いをつけて歩み寄る。
私は動けなかった。
マウルタッシュの反動からではない。そうであると心から信じたいが違う。
小さな恐怖が、燎原の火のごとく私の全身へ巡る。彼のドラマに呑み込まれる。ここで死ぬべき登場人物として私の運命が食われ、呑まれ、上書きされていく。
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