第28話 シャンパンブルーに煌めく

 頼もしい背中だった。狭くて小さな背中が今更に懐かしく見えた。


 ケレスがゆっくりと起き上がる。いつの間にか、私が蹴って抉った体の部分が元通りになっていた。教授がアレと真っ向から対峙すると、もはや私が割って入る隙は微塵もなかった。ただ教授の背中が「行け」と告げている。それだけだった。


 踵を返す。筋肉が吃驚仰天するほどの一瞬間に私は走り出した。劇場の出入り口を目指して、一直線に観客席の間を駆け上がる。


 私がそうすると同時に、背後でまたあの忌々しい演奏が始まった。負けじとステラのオルガンの音色が聞こえてくる。畏怖すら覚える格式ばったクラシックを、跳ねたり弾くようなステラの演奏が崩していく。競い合うように。互いを食い合う激しいセッションだった。


 その時、階段を上がる途中で私は躓いてしまった。勢いよく脛を打ち付けてしまって、あまりの痛みに大きく悶えた。足が痺れて動けなくなった束の間。その好機をケレスは見逃さなかった。目にも止まらぬ早さで教授の脇をすり抜けると、数十段はある高低差をヌルリと這い上がって来たのだ。


 ケレスが仰け反りながら蛇行剣を振りかぶる。


 対する私は、階段にもたれかかるという最悪の体勢。つまり、死に体。


 この一撃は絶対に避けられない。


 刹那、階下にいる教授が魔法を唱えた。


〈鉄の巨人〉


 いくら彼の得意であるとはいえ無茶だ。間に合わない。この波打つ凶刃が私へ届く前に、重たい砂鉄の巨体がここまで辿り着けるとは到底考えられない。全身から血の気が引いていく。代わりに冷たい諦めが昇ってこようとしていた。


 観念に心が凪いでいく。


 その寸前、教授の傍から白銀の人影が飛び出した。


 兎が跳ね回るように観客席をアッという間に飛び越えると、それはケレスの前に立ち塞がった。私が知るあの巨人ではない。ずっと華奢な体格。どちらかと言えば女性のような……直後、脳裡へ焼き付けられた光景がために、私は、この目が正常に現実を捉えているのか分からなくなった。


 彼女の履くロングブーツから藍色の炎が燃え上がる。私と同じ、魔力の暴走による異常現象だった。しかし、彼女のそれは私のモノとは明らかに異なった様子を見せた。


 爆発ではなく噴出。ゴウゴウと燃えるブーツに円環状の光が咲いたかと思うと、その足は刃物のごとき鋭さで蹴り上がった。ケレスの蛇行剣が弾き返される。


 甲高い金属の音。煌めく星の軌跡。


 その僅か一秒にも満たない光景に、私は目を奪われていた。


 女が足を翻し、間髪入れず怒涛の蹴りを放つ。無駄なく正確に叩き込まれた十数発の攻撃に、ケレスは一切の抵抗ができないでいた。その一連が終わると、散った火の粉が舞い、まるで青い花が咲いて見えるようだった。


 直後、彼女の靴が床を踏み鳴らす。


 すると、ケレスの体に刻まれた傷口から魔力が迸る。それは傷の上を燃えながら駆け巡り、もう一度、今度は爆発するように大輪の花を咲かせた。


 散らばり、階段を転げ落ちていく炭化したケレスの破片。


 砂鉄の女性像は静かにそれを見下ろしていた。


 彼女は外套の襟を正すと、クールに切り揃えられた髪の隙間から尻目に私を見た。その瞳は炎の色を受けて、美しいシャンパンブルーに煌めいていた。


「行かないの?」と、一言。


 まさか〈鉄の巨人〉の像が喋れるものだとは露知らず、驚いた私は飛び退くように立ち上がった。だが驚愕ばかりが理由ではない。心臓が、血液が、一拍溜めて大きくドクリと鼓を打った。


 短い言葉にあれほど強烈な叱咤激励の意を感じたのは人生で初めての事だった。飾った上辺や、気障に振り撒いた軽々しい言葉ではない。否応にも腑へ落とし込む、裏付けされた言葉の重みを感じた。


 私は再び走り出した。


 劇場を出る時にふと後ろを振り返ったのであるが、もうそこに彼女の姿はなかった。

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