第26話 美魔女のお守り
スリットマウスが教授に視線を移す。
「ねえ、アンドリュー・メカチャック。ベリタは本当に彼女の……いや、そんな事はどうでもいい。ボクが聞きたいのは……」
アリス・フロムオードは生きているのか。
私はスリットマウスの言葉の意味が分からなかった。
私の母は生きている。今朝だって笑顔で私を卒業式へ見送ってくれたのだから。それにしたって不気味な事だ。何故、こうもスリットマウスは私の母アリスにこだわるのか。それが不気味で、不可思議で、寒気がする。
私は咄嗟に言い返そうとした。母は生きていると。
だが、教授がそれを手で制した。それから、彼は信じられない大嘘を吐いたのだ。
「偶像精霊ケレス=マリアンナ。アリスは死んだ。勇者討伐の日、死の間際にお前がアリスを殺したんだ」
違う。
あの戦争で確かに母はケレスに深手を負わされたが、死んではいない。その証拠に歩行が困難ほどの痛ましい後遺症を抱え、車椅子の生活を送らなければなくなったのだ。だから、死んでない。しかも、私こそがその活き証人だ。何故なら、あの戦争で母が死んでいたとするなら、ここにいる私は一体何だという話になるではないか。
絶対にあり得ない。その証拠と確信がここにある。
だが、この時のスリットマウスの動揺があまりにも深刻だった。その表情が私の確信の支柱をグラリと揺さぶった。それから、彼女は悲愴な呻き声を漏らしながら、覆ったその顔に爪を立てた。滅茶苦茶に掻き毟る。涙袋にピリッと筋が入る。歯茎が抉れる。唇の線に沿って皮膚が裂ける。
「
私が思わずそう呟いた瞬間、彼女が壇上でしゃがみ込んだ。その拍子にステーキナイフを手放した。次に、酷い苦痛に悶え苦しむような様子の彼女から、何か黒ずんだ液体があふれ出てくる。
私は「まさか」と思った。教授たちが抑え込んでいるのに、〈歓びよ、人の輪よ〉を発動させたのか?……と。私は咄嗟に身構えた。
だが、そうではなかった。
それは彼女の皮膚や肉が溶け落ち、黒色の粘液質の液体になったものだった。やがて、それは一塊の泥のようになった。
「クソッ、失敗した」
教授が口元を乱暴に揉みしだきながら言った。
「いや、意味分かんねえよ。どういう事だ」
「先程のスリットマウスの問いが重要な分岐点だったのだ。ヤツは原初精霊としての側面を得ているからな。つまりは、ドラマに支配されるものだ。まだ貴様には分からんだろうが、ああして答えてやれば、本来なら彼女がこの場にいる
瞬間、泥の中から何かが起き上がった。
それは明らかにスリットマウスではなかった。
彼女を遥かに凌ぐ痩身の巨体。夜空の月明かりを思わせる、青白い艶のある漆黒の体。焼け焦げたような凹凸のある肌。骨が秀で、およそ内臓のあるべき部位がポッカリと空洞になった胴体。その体には首が無かった。ただ劇場の天井を仰いでいた。
ステラが私に問いかけてくる。
「ベリタちゃん。君は狂気って何だと思う?」
「いや何、こんな時に。つか藪から棒に。そりゃあその、気が狂ってるって事だろ?」
そう答えると、彼女は一層優しい目つきになって、まるで親戚の叔母がそうするように私の頭を思いきり撫で回した。
「うーん、違う。教えたげる。この場合はね。正気は理性。狂気とは、理性あってこその狂気。つまり、狂気も理性のうちなの」
やはりステラの言っている意味が分からなかった。ずっとそうだ。教授とステラはまるで私とは遠い時空にいる幻のようで、私はその言葉の意味がちっとも理解できなかったのだ。
そこで、ヒントを出すように、溜息混じりに教授が割り込んできた。
「本音を言うとな。あの女はヌルかったんだよ。弱すぎる」
頭の中にポンポンといくつもハテナマークが浮かんだ。
「はア? アンタ、全力出しといて何言ってんだよ」
いや、私の言っている事は何も間違っていない筈だ。スリットマウスとの対決で教授は間違いなく全力を出していた。少なくとも、普段から身近で講義を受けていた生徒の私から見て、そう思ったのだから。
教授はくたびれた様子で鼻を鳴らした。
「……全力? ああ、指を10本使った事かな。その認識は実に甘いぞ、フロムオード君。吾輩のあれは基本の戦闘体勢だ。全盛期のな。それに付け加えれば、吾輩の力は『ヒューマンズ・セッション』の中でも、甘く見て3番目程度。
更に、更に言えば、吾輩はまだ攻撃魔法を使ってすらいない。そして……先の戦争、吾輩の攻撃魔法はヤツを倒すまでには至らなかった。
たとえそれが、国一つを悠に更地にする程度の威力があってもだ」
「――はっ?」
その時、壇上の怪物が泥の中で藻掻くようにして立ち上がった。
怪物。もといケレス=マリアンナは、床に転がっていたステーキナイフを長い腕で拾い上げる。彼はそれを上に掲げて、照明に照らしてマジマジと見つめた……ように見えた。
すると、それを一息に振り下ろす。
瞬間、ステーキナイフだった筈の銀食器が、彼の手元で全く異なる物体へと形を変えた。
刀身が炎のごとく揺らめきうねり立つ長剣。所謂、蛇行剣(フランベルジュ)。皮膚を裂き、肉を穿ち、骨の断末魔を奏でる残忍な凶器。二メートルはあるその蛇行剣の柄を、細い指で摘まんでいる。
まるで息を吹き返した屍のように、久方ぶりの肉体の重みを鬱陶しいほどに感じている様子で、彼は直立した姿勢のまま右へ左へとフラフラと大きく揺れた。その手に持っている蛇行剣を除けば、私の目には、その伝説の怪物とやらは酷く貧弱そうに見えた。
まだフラフラと揺れている。眩暈か、貧血持ちの病人にしか見えない。
だが、不思議だ。
目の錯覚だろうか。段々と、彼の姿が大きくなっているように見える。
ある1つものに対して瞬きをせずに注視し続けていると、それが歪んだり、霞んだり、膨張と縮小を繰り返したりする錯覚の経験があるだろうか。正にそういう感覚だった。意識がボーッとして、遠近感がスーッと失われていく。
そうした時、既に彼はすぐそこまで迫ってきていた。一筋の銀色の線が、微かに波打ちながら目鼻の先までやってくるのが見える。
どこまで刃が近付いているのか。
この絶命必至の状況に固唾を呑んでみる猶予はあるのか。
どのように避けるか。
今まで鍛えてきた反射神経を信頼して賭けに出るべきか。
そんな事を考えてみて、選択肢を選ぶ時間が私にあるのか。
いや、そうしてアレコレと逡巡した間に、私の持ち時間はもう終わってしまったのだろう。差す手がない。避けようがない。
間もなく来たる死を静かに観念した時、私の首元で、金属質の何かが千切れる音がした。その音の正体は、私のセーターの襟元から零れ落ちた。
巨大な十字架。
圧倒的な存在感を放つその鉄塊が、ケレスの蛇行剣を防いだ。
それを見た教授が、驚愕を抑えきれずに言った。
「それはマカブルの十字架ッ!? 何故貴様が持っている!」
私自身、記憶の片隅にも残っていなかった。昨日、あの授与式の後、散々な不幸を愚痴るために「精霊の揺籃」へ呑みに行った時の事だ。元騎士団長ドミニク・ディートリヒに、確かにあの十字架を譲ってもらったのだ。
あの時、彼はこう言っていた。
伸縮自在、変幻自在の武器なんだと。
つまり、私の危機感を悟り、この十字架が盾の役割を果たしたのだ。
私はその隙に大きく飛び退いた。その場から逃れると、マカブルの十字架はまた元の形になって私の手元に帰ってきた。ようやく呼吸をする余裕が生まれたので、私は教授に返事をした。
「いや、何でって言われても。ドミニクがくれたんだよ。親友の武器だとか何とか。どっかのクソ役に立たない超絶美女精霊がロクな証明魔法をくれなかったんでな!」
「キャーッ、超絶美女ですって! 今の聞いた?」と嬉しそうにするステラ。
「雨の精霊の癖に、性格は晴れ模様ってか。青天井のポジティブ女が! 何でも良いから、とっとと何とかしろ、メカチャック教授!」
「言われるまでもない」
教授は既に魔法の準備をしていた。
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