第24話 友よ、その響きではない
私の傍でカタカタと何かが音を立てる。
ふとそちらを見ると、そこには教授が置き忘れていった傘があった。忙しなく床を飛び跳ねていて、まるで武者奮いをしているようだ。すると、視界の端から教授の視線を感じた。それは間違いなく「それをよこせ」と私に訴えかけてきている。
咄嗟に、私は硬直した足を強く踏み込んで、怖気づいて動けない体に喝を入れた。それから床の傘を拾い上げると、唯一の取り柄である腕力で、その細く絞られた傘を教授めがけ、槍の要領で鋭く投擲した。
「うおおおおッ!」
それは巨人の脇をすり抜けて、彼の元まで一直線に到達した。
傘は教授が構えた両手の間まで飛んで行くと、半回転、ピンと立ち上がった。
教授は口まで下りてきた汗を舐め取り、ニヤリと笑う。
「上出来だ」
――アリス。
今、教授がそう言ったような気がした。私の母の名を呼んだような。
傘が青白く輝きだす。込められた魔力の量は、明らかに彼の手元で扱われている魔法の比ではない。傘を杖の代替品として使っているのだろうか。しかし、するとあの傘は教授の証明魔法〈偉大なる知の示指(グレイテスト・インジケーター)〉の上限を超える十一番目の杖……すなわち、存在しない指に神経を通すという事と同じだ。
教授は自分に与えられた証明魔法の、その先の高みへ手を伸ばそうとしている。
証明魔法とは、その個人生涯の代名詞。その限界に彼は挑戦しているのだ。
教授は、まるで窮地に立たされた博打師のような底の知れない笑みを浮かべた。
「吾輩は、お前の〈歓びよ、人の輪よ〉を打ち破るためだけに研究を続けてきた。意趣返しだよ、スリットマウス君。ある魔法に真逆の理をもつ魔法式をぶつける事で消滅させられるなら、原理上、原初精霊の〈賛歌〉だって無効化できる筈だ。だが、今の吾輩はその段階にまだ到達していない。とりわけ魔法式を歌に乗せる原初精霊の神秘には、まだ遠く及ばん。……だから、吾輩も
教授は一言、〈
これも聞いた事がない魔法だった。一体彼はどれほどの知識を隠していたのか。私は教授を何も理解できていなかった。ただ少し優秀なだけで、ひけらかしたがりな傲慢な男だと思っていた。だが今は、私の目には教授がどういう人間であるか、というのがしっかりと映っている。
伝説『ヒューマンズ・セッション』の最期の生き残り。
真に最後の魔法使い。アンドリュー・メカチャック。
若き魔法使いの憧れとされる彼は、これまで一度も魔法の詠唱文を唱えた事がなかった。詠唱文とは詩のような言葉の運びで、魔法の効力を引き出す正式な準備であるのだが、彼に言わせてみれば「冗長で下らん。古臭くて時代遅れ」なのだとか。いつも無詠唱の技術ばかり教わっていた気がする。そんな彼が初めて、全校生徒の前で魔法の詠唱を始めたのだ。
「止まぬ雨。陽の盲。星の忌み。されど
ポタ、ポタ。
この大混乱の中でハッキリと聞こえてくる。水の滴る音。
「――雨の精霊!」
教授が一喝するや、狂騒慌ただしかった劇場がフッと静かになった。
ポタ、ポタ。
その音はやがて水溜まりを踏む足音に変わる。
それは観客席のどこからともなく近付いてきて、いつの間にか教授の隣にいた。
パステルカラーの女の子。雨の精霊、ステラ。
彼女はスリットマウスを見ると、昨日と一言一句変わらないセリフを言った。
「悪いけど、この選曲は好みじゃないの」
私の横のオルガンが独りでに演奏を始めた。授与式の時と同じだ。教授が造った劇場の装置をステラが支配している。
穏やかな音色。心が澄み渡るような聖なる曲が劇場を震わせる。スリットマウスの奏でる曲を呑み込んでいく。
巨人が崩れる。押し寄せる赤黒い凶器の波が溶けて、ただの水へ変わる。
スリットマウスの笑みが消えた。
「……あの子の故郷の匂いがする。君は、ボクを知ってるのかな?」
ステラは「知りません」とだけ答えた。その返答には妙な間があった。ただ、彼女はスリットマウスを見ても驚かず、感情の機微すら表わさず、通りすがりの赤の他人に道を訊かれたかのように至極淡々と振る舞っている。
ステラは教授に言った。
「なるほど。歌う事しかできない私みたいな精霊じゃ、原初精霊の権能の一部しか打ち消せない……だから、この劇場を用意したのね。原初精霊の〈賛歌〉を完全に無効化する装置として」
「そうだ。これは一時的に貴様を原初精霊の権能にまで至らせる舞台装置である。この装置を含めた全ての研究成果を魔法として括り、これに名を付けるなら……」
〈
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