第23話 吾輩は天才である
地面が揺れる。地震ではない。
空気が揺れる。これには覚えがある。
服の裾が揺れる。私は確信した。
人間の聴覚が認識できないほど低い音が、いつの間にか劇場中に充満している。その絶妙な境界線を僅かに超えた瞬間、地獄の亡者が苦しみ悶えるような絶叫が聞こえた。それは間違いなく歌声で、かつ本来は出し得ない音階を奏でる楽器の音色も伴っていた。
人類の本能が、聞いてならないと警鐘を出すこの曲。
これがハッキリと全員の耳に聴こえてくると、異変は突然起こった。
スリットマウスの足元の木床が下側から何かに突き破られる。
それは、あの赤黒い魔力でできた凶器だった。
長剣、短剣などの刃物だけでなく、フォーク、十字架、歯車、ハサミ、針、硝子の破片のような物体。そんなものが滅茶苦茶に飛び出してきて、濁流のように観客席へ押し迫る。
その一枚の光景を、私は壇上から呆然と眺める事しかできなかった。
絶望だ。絶望しかない。
あの『ヒューマンズ・セッション』は、どうやってこの怪物に勝利したのか。
私には、あれに立ち向かう勇気すら起こらなかった。今正に、多くの人間の命が奪われようとしているのに、この期に及んで私は自分の才能を恨む事しかできなかった。もしも魔法が使えたら……魔法が……魔法が使えたとして、私はあの怪物に立ち向かえたのか……? 冒険者になりたいなどという時代錯誤で、平和な時代に意気揚々と産まれた甘えたの私になんて……。
「できるさ」
誰かが私の肩をポンッと叩いた。
「えっ?」
それは教授だった。
ほんの僅かに私を一瞥。それから、彼はその体躯からは想像もつかない俊敏さで、滑るように壇上を駆け下りた。そうして総勢およそ五百名を背に、教授はあの怖ろしい赤黒の高波に立ちはだかる。その堂々たる小さな仁王立ちは、私の知る誰よりも頼もしかった。
〈
十本全ての指を操りながら、教授が魔法を発動する。名前から推察するに〈解析〉の上位互換だろうか。教授のモノクルから、凸レンズ状の透明な障壁が現れる。それは二重三重……と現れ、拡大し、巨大な盾となり、ついにはキョウキの濁流と衝突した。
肌身に感じる衝撃。
遠巻きにも感じられる、いとも簡単に命を奪い去るであろう圧倒的な質量。
だが、濁流は障壁を破れなかった。間一髪、それは見事に凶刃を防いだ。
……かに思われた。
思わず胸を撫で下ろした束の間、私は奇妙な事に気付いてしまう。
まだ彼は〈解除〉を詠唱していないのだ。それはつまり。
瞬間、障壁の面をバリバリと抉りながら疾走する赤文字、幾何学的な図形。蠢き、分裂し、増殖する。それは間違いなく魔法式だった。
スリットマウスが唱えた〈歓びよ、人の輪よ〉の魔法式だ。
もし本当にあれを解読しようとしているのなら、メカチャック教授は気が触れている。そうとしか言いようがない。正真正銘とは断言し難いが、あれだって原初精霊の〈賛歌〉である事には違いないのだ。世界最大の神秘である原初精霊の言葉を解読するなどという愚かな発想は、精神をおかしくした狂人の考えに他ならない。
障壁が一枚また一枚と、赤い字に浸食されて破られる。その度に教授が新たな障壁を生み出す。
実際彼はその神秘を解読して、なおかつ濁流の進行を確実に食い止めていた。
まさに五分の対決。
この様子を見たスリットマウスの表情が心なし和らいだように見えた。
「へえ、これを食い止めるだなんて」
「まだ無効化するには至らんがな」
教授のパープルホワイトの前髪が汗でベットリと額に貼り付いている。返事の言葉を考えるだけでも頭の思考が決壊しそうな様子だ。その様子を見て、彼女もまた教授の力量をジックリと試して楽しんでいるようだった。
「ボクが眠ってから何年が経った?」
「30年も経ってないさ」
「……ああ、思い出した。アンドリュー。君、前にもそんなふうにボクの魔法を防いだよね。たかがチョッピリ魔法に秀でたエルフ族の癖によくやるものだ……でも、前回はもっと上手にできていたはずだね。成長するどころか、経年の割に著しく衰えている……仲間がくたばって気力が失せたか……この平和の腐れに君も巻き込まれたのか?……ウハハッ……なら、
スリットマウスがステーキナイフを振るう。その指揮者みたような大仰な仕草には既視感があった。彼女の指揮に合わせて曲が転調する。危機感を煽る、脳の側部をガリガリと削るような重たい曲になる。
無作為に流れていた濁流の中から、おもむろに人型の巨体が起き上がる。それは教授の〈鉄の巨人〉の模倣に思われた。だが、それだけではない。
崩壊と構成を繰り返しながら姿勢を起こす。身体のあちこちからボロボロと剥がれ落ちた物が、また頂上を目指して何度も巨体へしがみつく。まるで、これまでにあの濁流に呑み込まれたであろう人々の怨念が、形を得てこの世に這い出してきたような悍ましい姿だった。
巨人が咆える。
喉奥の刃物がぶつかり合って、耳を塞ぎたくなるほど不快な金切り音が聞こえる。
イヤな想像がいくつも浮かび出す。あの濁流に、巨人にどんな惨たらしい殺され方をするのか。そんな想像が絶える事なくブクブクと浮かび上がる。
勝てるワケがない。どうしようもない。喧嘩が強いだけ、威勢が良いだけの私という女が、どうしたらこの化物に敵うというのか。ああ、もしもこの世界に『ヒューマンズ・セッション』の面々が生きていたら、あれを再び打ち倒してくれたはずだ。
でも、彼らはもういない。伝説は死んだ。伝説を礎に繋がれた現代は、生温い平和に絆されて何も成長をしてこなかった。この世に、あの化物に太刀打ちできる人間はもういない。
その時だ。教授が声を上げた。
聞き馴染みのあるセリフが、劇場に木霊す。
「――吾輩は天才であるッ!」
声高々に宣う彼の顔は、まだ蒼褪めている。
いつだって彼は自分を「天才だ」と自画自賛していた。あの傲慢な自信が、才能のない私にとって今まで如何に鬱陶しく耳障りだったか。しかし、今は少し違って聞こえる。彼があれをどうして自分の口癖にしていたのか、その理由が分かった気がする。
妬ましくはない。むしろ、尊敬すら覚える。
たぶん彼は自分にそう言い聞かせながら努力する事で、あそこまで強くなったのだ。
恐怖に屈服した私の胸に、何か熱いものが込み上げた。
「数千年、魔法にのみ人生を捧げた
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