第21話 やあ、フロムオード
それは聞き覚えのある、弾き潰すような打鍵。
昨晩にも聞いたあの音だ。
私は、自分がしてしまった事の重大さがいっぺんに分かってしまった。
精霊はドラマに支配される。だから、ドラマのない場所には現れない。そういう意味で、昨晩の私は取り返しの付かない事をしたのだと思う。
……母アリスは偶像精霊の攻撃を受けて重傷を負ったが、結果的に生き残る事ができた。
……偶像精霊が倒されると間もなく厳重な情報規制と緘口令が敷かれ、偶像精霊ケレス=マリアンナという大悪夢への認識は、世界の掃きだめに追いやられた。
……これで世界は平和になったと思われたが、数十年後、アリスの娘が力欲しさに駆られて、奴が封印されている研究室に侵入してしまう……。
斬新さのない、ありきたりな皮肉の物語。
だが、ドラマを始めるには十分なあらすじだ。
フロムオードの血と傷の因果を辿って、私は誘い出されたのだと思う。
俗に、物語の中で死んだ登場人物がまた戻ってくる事は中々ない。安っぽい展開だし、読者にも見透かされる展開だからだ。だが、もしも入念な伏線を仕込んでいて、何も不自然にならない準備が出来ていたのなら、死者はいつでもドラマに戻ってこられる。
クライマックスで化物が生き返る。それもドラマだ。大抵はバッドエンドになるが。
不安のせいで、くだらない妄想が頭を駆け巡る。
「あ、ダメだ。アタシ、何考えて――ッ」
教授と私の足元に大きな影が落ちる。
私の背後で、すぐ耳元で、あのアカペラが聞こえる。
『……貴方を見付けたら、この恋を終わらせてしまうから……』
美しいファルセット。
その筈なのに、今はとても醜悪で悍ましい歌声に感じられた。
全身に悪寒が走る。
私は振り向きざまに〈装甲貫通〉の廻し蹴りを放とうとした。この際、魔法が暴発するかどうかは二の次だった。私の足に、炎だか電気だか曖昧で危ういものが纏わりつく。しかし、暴発する気配はない。
正に会心の一撃だと思った。
正直、これなら化物の頭ぐらいボールみたいに蹴り飛ばせそうな確信があった。だが、これは決して幸運な出来事などではなかった。最悪のタイミングで、私は「自分の攻撃が相手に当たる」と自信を持ってしまったのだ。
だから、教授が待ったをかける声も耳には届かなかった。
「待て! 攻撃をしかけようとは考えるな!」
足の甲に鈍い感触がした。
確実に何かの肉体を打ち据えた。
その筈なのに、そこには何もいなかった。何かに当たったまま、宙で硬直した私の足だけがそこに留まっている。
私の目の前から声がした。
「……そうだね。君は後ろに化物がいると思って、思い切って蹴飛ばしちゃおうと思ったんだよね。
じゃあ、蹴った先に誰もいないのは不自然だ。無意味な行いだね。
だから、こうして貴方の可愛いアンヨが、ボクのホッペに触れているのは極めて道理に合っていて、ボクがここにいるのは
足の感触がする部分から、徐々に姿が表れる。女だ。私の足にまるで娼婦のように擦り寄っている。
まず目が現れた。
洞のような深いクマのある眼窩の奥から、仄暗い群青の瞳で私を一点に見つめている。
「やあ、フロムオード。君の血からアリスを感じる」
陰気で長く伸びた藍色の髪。涎で濡れた横長の唇。黒のダッフルコート。扇状的なキャミソールから露わになった腹部に編み込まれたコルセットピアス。
彼女は耳に届きそうなほどの笑みを浮かべた。
「是非とも殺したい」
瞬間、嫌な妄想が頭をよぎる。今にもその邪悪に垂涎した口が開かれて、私の足を食いちぎる光景が脳裏に浮かんだ。
「想像しちゃった?」
ジットリと湿り気を帯びた視線が、私を呑み込もうとする。
頭が真っ白になって滅茶苦茶に魔法を放った。それはまともな魔法にはならず、暴発を繰り返す。私はその斥力によって教授のほうまで吹き飛ばされた。
こうして魔力の暴発に巻き込まれるのも慣れたもので、私は難なく受け身を取り、すぐに体勢を起こして女の様子を見た。
暴発を直に何発も食らった彼女は、息絶えたように地面に倒れている。
服のあちこちが焼け焦げ、肉が裂けて流血している。それは明らかに死んでいた。
だが――。
「『――だが、彼女は何事もなかったかのように悠然とその場に佇んでいた』」
あの女の声が聞こえる。それは小説の一節を読むような口調だった。
すると瞬く間に、傷一つない彼女の姿がそこに現れた。
「ダメだよ。フロムオード……
妄想という言葉に、私の頭の中から嫌な考えが摘まみ上げられた。
もしかして、私の想像をそのまま現実にしているのか。
あれほど打ちのめしてもなお、もしかしたら起き上がってくるのかもしれない……という私の一瞬間の臆病な想像を見抜いて、原初精霊の権能でその通りにしたとしたら……。
「うそだろ」
こんな化物を『ヒューマンズ・セッション』はどうやって倒したのだ。
その時、困惑して呟く教授の声が聞こえた。
「こいつは、ケレス=マリアンナじゃない……」
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