第19話 偶像精霊ケレス=マリアンナ
森閑としていた会場から誰かの悲鳴が上がった。
思わず客席の方に顔を向ける。しかし、誰も彼もが困惑の顔を浮かべていて、キョロキョロと思い思いの方向を見回しているようだった。その間も長い悲鳴が続いていた。
一体誰が、という疑問が一個の泡になって客席の表面へ浮かび上がる前に、私達はそれが思い違いであった事を知る。それは悲鳴ではなく歌声だったのだ。断末魔の叫びのごとき、臓腑の底から冷たい戦慄を催す歌声。
これに続いて、今度はピアノの音が聞こえてきた。威圧的で、かつ演説的な力強い音色だ。
弦楽器の音も聞こえ出してきた。1、2、3……どんどん増えていく。
メカチャック教授の仕業だろうか、と壇上にあるパイプオルガンの方を向いてみたが、特に魔法が発動されている様子はない。
不審に思い、教授の方を振り返ってみた。そうして不用心に目の当たりにしてしまった彼の表情は、混沌の様相を極めていた。咄嗟に思い浮かんだ表現はこうだ。
――重篤な精神病患者が突然に現実を取り戻したような表情。
役者が観客のくしゃみに演技を遮られたような表情。
出し抜けに処刑の日取りが決まった死刑囚の表情。
過失で殺めてしまった筈の親友が、生きて帰ってくるのを見た表情。
「おい教授。何が起きてんだよ!」
私が声を掛けるや否や、教授は観客に向かって大声で言った。
「式は中止だ! 全員、劇場から避難を――ッ」
教授がそれを言い終える事はなかった。
演奏がフッと穏やかになる。
指揮者がそうハンドサインしたかのように、客席中の人々までもが静まり返った。
囁くような歌声ばかりが、幽霊みたく劇場のあちこちを彷徨っている。
『……今日は素敵な日になりそう。夜が遠ざかる。藍色に染まった空は、貴方の瞳に似ていたよ……淡くて、優しい月明かり。貴方がすぐ傍にいるみたい……夜が明けた時、私の見えない所にいて……』
狂気を孕んだ演奏が静かになると、美しく澄み切ったファルセットが劇場中を響かせる。想い人を儚むバラード……私……きっと誰もが、その歌声に聞き惚れてしまっていた。
消えゆく朝露のような歌声。
『……貴方を見付けたら、この恋を終わらせてしまうから……』
豊かな余韻が広がる。心の淀みがフワッと消えてしまうようである。
温かいものが頬を伝って、首筋まで下りてくる。
大観衆の前にいる事を思い出して、隠すようにそれを拭った。
「ベリタ!」
尋常ではない怒声を浴びせかけられて、私はハッと吾に返った。
彼の言葉がなければ、涙を拭った筈の袖が赤く濡れている奇妙な事態に、いつまで経っても気付かなかっただろう。感動の涙かと思われた温かいものは、いつの間にか切れていた頬の傷口から流れる血だった。
赤い水の粒が、ボツポツと床に滴り落ちる。
それは前触れもなく降り始める雨のように、おもむろに私の周りで真っ赤な水玉模様を描いていく。だが、不思議な事にその模様は私を避けるように降っているようだった。
いや、何かが雨を遮っているような……。
ふと頭上を見上げると、そこには私へ覆いかぶさる巨人の姿があった。
〈鉄の巨人〉
苦しそうに魔法を唱える教授。
あれほど絶対無敵な風格を放っていた鉄の巨人が、あの赤い小粒の雨に打たれるたびに、濡れたそばから砕かれ、崩されている。ありえない事だ。私の魔法の暴発を食らっても耐え抜いた頑強な体が、痩せた老人のように簡単に揺さぶられて今にも壊れかかっているだなんて。
魔法の巨人を辛うじて維持している教授の姿が見える。
驚くべき事に、教授は十本全ての指を使っていたのだ。
ここ数十年、彼がそこまでして魔法を使ったという記録はどこにもない。この時代が、彼の全力を必要としていなかったからだ。
ただでさえ余裕のない教授の顔が、苦悶に激しく歪む。
彼が傷を受けたわけではない。ただ一瞬間だけ、巨人の維持に働かせていた指のうち何本かを、別の魔法を使うために動かし始めたように見えた。しかし、もしもそれが事実なら大変な事だ。十本の杖を操りながら、同時に二つの魔法を使う。それも一つの脳ミソで。考えただけで気が狂いそうになる。
同時に十個の暗算を解きながら、左右の手で別々の絵を描くようなものだ。
人間にとっても、恐らくはハイエルフにとっても、ほぼ再現不可能な領域だろう。
〈
あれは教授が得意とする防御魔法だ。魔法の基礎となる式を解読して、それとは真逆の理を内包する魔法式を書き出すことで無力化するという技術だ。実戦に則した授業でも、生徒に対してよく使っていた。
そんな複雑を極めたものを片手間に使おうとするから、維持しきれない巨人の体が崩れ始める。焦った私は思わず両腕で頭を覆うのだが、もうその必要は無いようだった。
〈
教授が二言目にそう唱えると、赤かった雨は透き通っていき、やがてただの水の雫になって消えた。それを見届けてから巨人は崩れた。足元を流れる水に、泥のように溶けて消えた。
今まさに脈絡もなく死にはぐった私は、呆然と立ち尽くすしかなかった。
教授が、私の頬を杖で軽く小突いてくる。
「ボーッとするな、フロムオード君」
そう言った彼の表情はまだ強張っている。
「何の因果だか知らんが、復活の隙を与えてしまったらしい」
「……だからさ。その『自分は何でも知ってますよ』みたいに話す癖やめたら。アタシには今何が起きたのかサッパリ分かんねえんだって」
「いやいや、歴史の講義で話したから君もよく知っている筈だぞ。所謂『勇者討伐』と呼ばれる事件を。その末期に起きた悪夢を。こうならない為に情報規制やら緘口令なんぞが敷かれていたのだが、もはや無意味だろうな」
フーッと吐かれた教授の溜息が、彼の唇の隙間で慄えている。
「偶像精霊ケレス=マリアンナが戻ってきた」
教授の一言は、劇場中の人々に大きな衝撃を与えた。その一方で、それがいかに深刻な事態であるかを吾々は十分に理解しているとは言い難かった。当然だ。教授が言うようにこのカリステジアという国は、現代に至るまで、あの手この手で偶像精霊の正体を希釈し続けてきたのだから。
全てはその復活を防ぐために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます