第26話 強いお婆さんは、好きですか?

「人のもんに手を出すのは感心しないさね」


《え?》

「は?」



 ――とん。



 しわがれた優しい声と、何かが床を突くような音がしたと思ったら、ゴキブリの頭がストンと落ちた。


 こちらに飛んできた勢いはどこへやら、頭だけが真っ白い空間の私が立っている足元へと転がる。


《ん、な……誰―――》


 ――とん。


 また音が聞こえると、次は八本あるゴキブリの脚が節ごとに綺麗に切断された。



《あ、え…、ふざけ――》


 ――とん。


 また音。残った胴体がバラバラに。


《え……うそ―――》


 ――どんっ。


 最後は、先程よりも大きな音がし、バラバラになったゴキブリの身体の全部が、ぐちゃっと汚く潰れた。


「え……汚い」


 何が、起こったのか。

 瞬きする間もなく突然目の前のゴキブリがバラバラになり、全ての部位がぐちゃっと潰れた。


《あ、あ、あ、ぐ……ぐぐっ、ぞぉぁ》


 ここまで潰されても尚、生命活動が停止ししていないゴキブリに、やはりゴキブリだなぁと素直に感嘆する。

 私が首の骨を折った時同様、放っておいたらまた再生するのだろうか。

 先程の顔面に迫りくる恐怖を思い出し、


「………、っっっ!」


 私が追い討ちを仕掛けようとした時、また――


 ―――どん、どんっ、どんっっ。


「……まったくしぶといねぇ。仮にも女神を名乗ってんだ、最後くらい潔くさっさと死ねってんだよ」


 上から途轍もない重さの見えない何かが降ってきて、それに見事に潰されたようにゴキブリが真っ白い床の染みとなった。


 私の足元でぐちゃっと潰れているものを見て私が最初に思ったのは、懐かしいな、だった。


 昔、私のオカンが壁にいたゴキブリを履いていたスリッパでおもっクソぶっ叩き潰したことがあった。


 一体どれほどの力でぶっ叩いたのか、体液を飛び散らせ壁の染みとなったゴキブリを泣く泣く掃除したのを思い出したのだ。


「まったく、人がちょっと留守をしている間にこんな虫やら盗っ人やらが入り込むなんてね。ここの戸締まりはいったいどうなってんだろうねぇ」


 真っ白い空間の床の染みになったゴキブリを呆然と眺めていたら、先程から聞こえていたしわがれた優しい声が、私の真横から。


「高い金取ってるくせに杜撰な管理ったらないよ! ……なぁ、アンタもそう思わないかい? えぇ?」


 突然パッと私の横に現れたように見える、一見どこにでもいそうなごく普通の老婆が私に問いかける。


 紅いハイカラなフードローブを纏った老婆は、片手には無骨な太い木の杖を、もう片方の手にはもう何年も大事に使っていそうなとても年季が入ったかわいい手提げ鞄を持っていて、その姿は足が悪いお婆さんがちょっと散歩してきた帰りのような、そんな印象を受けた。


「おや……? ふむ……ちょいと面倒臭いことになってるね」


 私の目をじっと見つめながら持っている杖でとんっ、と真っ白い床を突く。


 瞬間、目の前でぐちゃっと潰れているゴキブリだった染みが跡形もなく消え去る。


「で、アンタは何なんだい? その様子を見るに……盗っ人ってわけじゃなさそうだ」


 私の肩に手をポンと置いて、こちらを見てにやりと笑った老婆はそう言った。


「一応、話だけは聞いてやらんでもないさね。まぁ、内容次第ではアンタも……」


 いつの間にか私の目の前にいる老婆が、杖を私に向け胸の辺りをとんっ、とする。


「あ、う、」

「……何だい、ビビってんのかい? あっはっはっ、そんなに私が怖いのかい?」


 ここまでの一連の流れが、アニメや漫画に出てくる異様に強いじじぃやばばぁが大好物な私の癖を、これでもかと刺激した。


 超巨大ゴキブリに襲われた恐怖なんてどこへやら、私は、私の魂は、カッコいい老婆の出現に興奮しっぱなしである。


「え、かっこよ」

「……なんだいアンタ、頭がイカれてんのかい」


 老婆は、はぁぁぁぁ、と深い溜め息をつき、やれやれと顔を左右にふる。

 その後、何かが癇に障ったのか突然顰めっ面をしたと思ったら、明後日の方向を向いて独り言を言い始めた。


「……何だい? ……ああ、私だよ。うん? ああ、この前言っていたやつかい。丁度今その虫を一匹潰したところだ。……ふん、こんなのただの虫の駆除だよ、疲れるもなにもあるもんか。……何だって? 何で私がそんな、あ、ちょいと、お待ちよ! ちっ、……あんのボンクラ共、私に全部やらせる気かい! まったく、なんで私が……ん?」


 老婆が溜め息をついたと思ったら急に独り言を言い始めて、とても切なくなる。

 その姿が、顔は思い出せないが私の祖母の晩年の姿と似ていたからだ。


 私の祖母も認知症を患っていた。

 今まで孫の私の事をとても可愛がってくれていた祖母は、ある日突然私の事を他所の知らない子だと思い込み他人行儀で接してきた。

 そんな祖母に、おばあちゃん子だった私は幼心にとても深く悲しんだものだ。


 普通に話をしていたのに突然何もない空間に話しかけているこの老婆も……


「何馬鹿なこと考えてんだい! 私ぁまだボケてなんかないよ!」

「いっ、、てぇぇっ、!」



 頭にごちんと拳骨をもらった。

 痛い。

 たった2日ぶりに感じた痛みだったが、なぜか心地よい懐かしさだった。










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