第1話
気温が真夏日のそれを超える暑さのなか、真理奈と共に、洗面所にいる。冷房は当然のようについていない。お互い少し汗で湿っている。
「お前の髪って、サラサラしてて、ふわふわで、うらやましいなぁ」
真理奈は手ぐしで僕の髪をすきながら言った。
髪の間を彼女の指がするすると抜けていく。
彼女のひんやりとした手が、耳に当たりそうになったり、離れたりを繰り返す。すこし、ぞわぞわする。
三面鏡の前で、椅子にすわって彼女に髪を洗ってもらうのを待っていると、彼女は僕の髪をクシでとかしはじめた。
他人の髪の毛を触るのに、抵抗はないのだろうか。
「ないよ。……うそ、ないようにしたい。まぁ、幼なじみ同士でそれは気にならないだろ?だから……ね」
なるほど。
「でも、排水溝の抜け毛は、死ねばいいと思う」
それは、同感。
「まず、前準備から……。それにしても、まだ寝癖が立ってる。もう1時なのに」
うっそ。三面の左側をみて、ようやく気がついた。
左側の後ろ、それも、鏡一枚では見えないところに、寝癖がある。
「は~。直してきなよ、このくらいさ~」
あきれるように言った。
クシと髪がわずかにこすれる音がわずかに聞こえる。
彼女は僕の髪を凝視する。
「すっごくなめらかにクシが入るんだけど……。うらやましいねぇ。ホント。」
耳の近くで、声がする。口を開閉する音も聞こえてしまう。生ぬるい吐息が顔にまとわりつく。
「そういえば、知ってる?お前、下をうつむいたり、階段を上り下りすると、髪の毛が動くでしょ?」
気にしたことなかった。考えたことすらない。
「はぁ~!?贅沢者め」
彼女は自身の髪をつまんで、少し毛先をみる。
「本気でうらやましいなぁ。わたしがどれだけ努力しても、なれないのに……」
しょんぼりした彼女が、三面鏡に映る。
真理奈の髪だった十分にきれいじゃない。
「いいから、シャンプーするよ。頭を洗面器の中に突っ込んで」
洗面器を枕にして、仰向けになる。
真理奈は僕の目にタオルをかける。顔に水がかからないようにする。視界が暗くなると、本当に美容院に来たみたい。
蛇口のレバーを上げる。バルブが開く音がする。
それから、シャワーの流水の音。
頭の少し先に、わずかに熱を感じる。
「温度は、このくらいかな~」
彼女は自分の手にあてて、温度を確認したのが、水の流れる音の変化でわかる。
髪の毛にお湯が当たって、ゆっくりと頭皮に浸透していく。
「冷たくない?ぬるすぎない?」
平気。
「よかった。同じ温度でも、感じ方が違うと、困るね」
そう言えば、真理奈の手は冷たかった。なら、お湯は相対的に熱く感じやすいのかもしれない。
髪にシャワーを当ててる時間が長い気がする。
「いいの。シャンプーの正しいやり方はこうだから。まず、ステップ2、髪の毛をシャワーで予洗いする」
あれ、ステップ1は?
「それは、シャンプー前に髪にクシを入れること。さっき済ませたでしょ?
そして、今からステップ3だよ」
シャンプーのボトルだろうか、スプリングがきしむ音がした。
「シャンプーは泡立てネットを使って泡立ててから使う」
泡立てネットのこすれる音がする。だんだんとその音は摩擦が減っていく。
もこもことした泡が、僕の頭部を包み込んでいく。
真理奈の指が、僕の地肌をなでまわす。
「こう、髪の毛よりも、地肌の方を洗う感じで、指の腹を使うの」
なんだか、気持ちいい。
「それで、こう、あんまり強く洗わないこと」
「本当に髪がいいなぁ」
けれど、今度はすぐに声が柔らかになって
「だから、切ってみたいと思ってるんだけど~」
僕の髪を何回かなでる。
「本物の人間の髪を切るのは初めてだから」
初々しさを含んだニュアンスで、彼女は言った。
僕が初めてっ……。どういうこと?
「言い方。考えてよ」
今度は、指を地肌に当てて、指を動かす。
シャ、シャ、シャ。
「まぁ、練習はしてるよ?」
髪を切ったことないの?
「安心して、完璧に仕上げてあ・げ・る♡」
不安だ。
「少しは、冗談に付き合ってよ。つまんない」
口の周りに、泡を塗られた。
「ははっ。サンタさんじゃん。メリクリ~って」
あごの下と鼻の下がむずむずする。
幸い、すぐに落としてもらえた。
頭から指が離れて、真理奈の手が、風を切る音。
再び、シャワーヘッド蛇口から、水が勢いよく、ザーっと流れる。
頭を覆っていた泡が、流れていくのを感じる。
そういえば、なんで急に僕の髪を切るなんて言い出したんだ?
「それは、言ってなかったな~」
初めに言ってほしかった気もする。
「お前には、かっこよくなってもらうと、思って」
できないよ。
泡がパチパチと、はじける音がする。
「ムリはなしだよ」
真理奈には逆らえない。
けれど、ムリだよ。今まで、そんなこと、言われたことないのだから。
「いいから、わたしを信じなさいな」
冗談で本音をオブラートしている。そういうニュアンスを感じた。
「せめて髪を切った後に言って。じゃないと、信用されてないみたいで……イヤだ」
どことなくはかなく、繊細。それでいて、いじらしく、真理奈は言った。
なら、彼女の言い分を聞いて、彼女に踊らされてみよう。
だって、彼女のセリフには、それだけの重みがあったのだから。
それに、文句を言うのはそのあとでも遅くないっていう真理奈の言い分は、もっともだ。
「それに、もったいないしね~。それは、幼なじみとしても……歯がゆいの」
蛇口のレバーのバルブが閉まる。
「はい。これで、シャンプーはおしまい」
彼女は新しいタオルを取り出してきて、濡れた髪をばさばさ、と空気と混ぜるように拭く。
今度は、髪の毛をタオルとタオルで挟んで、小さくパンパンとたたきながら、頭部から毛先を拭く。
「これで、次はカットだよ」
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