第2話 猫をかぶる
あの土砂降りの日から、いろいろな手順を踏んで、わたしは、店に伺った。ちょうど、パートの中年の女の人がレジに出て、あのクマ君が休憩に入ったのを見計らって。
「こんにちは」
わたしは明るい笑顔に迎えられて、訳を話して、バックヤードに案内された。
「寝てるかもしれないし、今レジから離れられなくて」
そして、あのクマくんがこの店の店長だということを教えてくれた。
とーまくん、とそのおばさんは呼んでいた。
アナタは何ていうの?と聞かれて、加賀林です、と名乗った。
裏方に回って、休憩室に入ると、大きな男がうわっ、と声を上げた。
「あ!誰かと思った、びっくりした」
「この間は、ありがとうございます」
「あ~、いえいえ、あ、早苗さんに、入ってって言われたの?」
「はい、レジの方に。手離せないみたいで。すみません、驚かせて。寝てました?」
「うん、まぁ、ちょっと寝かけてたっていうか、……、どうしたの?」
そわそわ落ち着かない様子で、椅子を進めてくる。対角に座って向き合って、持ってきた菓子折りを渡した。
「そんな、そんな、気遣わなくていいのに~」
奥さん同士の会話みたいで、わたしは笑った。クマくんが何を好むのかは分からなかったが、ここに置いてあった焼き菓子はきっと食べるのではないか、と思われた。それで放課後、友達と前に行ったパティスリーで選んできた。
「この間、ここのお菓子いっぱい食べちゃって。あの、甘いもの好きか、わからなかったんですが」
わたしは、意識してにこやかに言った。店長は、目を大きく見開いて、嬉しそうな顔を見せた。
「俺、すっごい甘党なんだよね。へ~っ、開けていい?」
「あ、はい」
結ばれていたきらきらするリボンを解いて、箱を開けていく。
スノーボールにチョコチップクッキー。一口サイズのガトーショコラと小ぶりなドーナツ。スフレチーズやアップルパイもきれいに包まれて並んでいる。
「……、全部、好きだ」
店長の言葉に内心ほくそ笑みながら、良かった~、と両手を顔の近くで合わせた。
「あ、俺、今、休憩なんだけど、良かったら、お茶、入れるよ」
迷いが手に取るようにわかるほどのたどたどしさで、店長は言った。ちょっとでも、わたしが返事に困ったら引っ込める気満々のよわよわしさだった。
「喜んで」
わたしは、膝に置いていたカバンを横の椅子に置くと、店長に笑いかけた。
こういうことを自分からすることにわたしはあざとさを感じつつも、このテディーベアの人となりを知るための時間が欲しかった。
店長はさっそく、お店からコーヒーを持ってきた。それにミルクが付いていた。あの時、わたしが入れたことを知っていたんだな、と感心した。接客業って、こういう観察力が問われるのだろうか。わたしに関心のない様子しか見えなかったが、そうでもないのかもしれない。
「ありがとうございます」
「あ、いやいや、こちらこそ。あ、そうだ、名前聞いてなかったよね。俺は、」
「とーまさん?」
「へ?そう。早苗さんから聞いたんだ」
「藤間静(とうましずか)、おんなみたいでしょ」
そう言って笑った。
「わたしは、加賀林南央(かがばやし なお)おとこみたいでしょう」
「なおさん、スッキリした名前だね」
店長はコーヒーを飲んで、クッキーを食べ始めた。にこにこと美味い、美味いと感動している様子に、思わず、ガードが下がっていく。こんなに無防備に大人の男と一緒にいても平気なんだ、とわたしもコーヒーに口をつけた。
クマさんのお食事風景。かわいすぎる。
わたしは計画していた通りに、店長にちょっと相談がある、と見つめた。見つめ返してくる目がきらきらしている。切れ長と言われるわたしのそれと違って、思っていることがすぐにバレてしまうような目だと思った。
「あの、もしよかったら、ここでバイトさせてもらえませんか?」
「え?」
「進学したくて、うちの高校だと内部進学が多いんですけど、そうじゃなくて、行きたい大学が見つかって。親には反対されているんで、せめて、受験費用だけでも用意したくて」
「受験、来年か、」
「はい。幾つかの大学にも願書送るつもりなんです」
「……、いいの?ここ時給そんな高くないよ」
店長は首をかしげてわたしを見た。
「はい、大丈夫です、」
「なら、こっちは万年人手不足だから、願ったり叶ったりだよ。一応履歴書持ってきて」
「本当ですか。ありがとうございます」
わたしはカバンから履歴書を出すと店長に差し出した。
「え~、はやい。何で?そんな、働きたかったの、ここで」
「はい。アルバイトの経験ないんです。店長優しそうだし、なんて」
「へっ、俺、からかわれてたりする?ま、ありがたいけど、あの日、ここに駆け込んで貰えて、良かったな~」
呑気に言うところが、こんなに人が良くて大丈夫なのかな、と思われた。無邪気すぎて、こっちの方が大人なんじゃないかな、と不思議な感覚になってくる。
「わたしも、良かったです。店長、いつから来たらいいですか」
「ん~、来れるときからでいいよ」
「シフトは大丈夫なんですか、急に入っても」
「うん、しばらく、俺と一緒の夕方からの2.3時間勤務だけど、いい?」
店長はもぐもぐ咀嚼しながら喋っている。
こういう一見無防備で、バカみたいに人のいい人間って、弱気でもモテるのかもしれない。
ぬか喜び、という言葉もあるし、とわたしは冗談めかして、
「店長と毎回一緒に働いたら、彼女さんとかにヤキモチ焼かれちゃったりして」
と言った。
その言葉を聞いた途端、うっ、と焼き菓子を喉に詰まらせて、テディーは咳き込んだ。
慌ててコーヒーを啜り、軽く胸の上を叩いている。
「大丈夫ですか?」
「あ、ちょっと、ごめんね、へんなとこ入ったみたい」
店長はしばらくコーヒーをゆっくり嚥下して、喉を調整している。
「……、はぁ、うん、戻った。はぁ、くるしかった。いないよ、そういう人。結構、いない」
こういう話苦手なのかも、と直感して楽しくなる。店長の顔が赤い。なぜかわからない自信のなさは、もしかして、これに因るものなんじゃないか。ますます、いいかも。
「……、そうなんだ。モテそうなのに」
赤面して、さっきよりもムシャムシャ咀嚼している店長の背中をさすってあげたくなる。そんな慌てて食べなくったって、逃げないよ。
「言われたこと、ないよ、そんなの」
わたしを見る目がそわそわしていて、少し傷ついているようで、どうにかしてあげたくなった。
「わたしのこと肩に乗せて歩けそうじゃないですか、この腕も、すごい」
ぎゅっと握ったら、とび上がりそうなくらい店長はうろたえて、すぐに腕を引いた。
そう言えば、わたしのほうから誰かに触るのなんて、うちで飼ってる猫のトラぐらいだ。
それも、散々痴漢だ誘拐未遂だ、なんだ、とわたしの人生にうっとおしくも暗い影ばかり落としてきた大人の男に、思わず触れた。
それに、リップサービスでもなんでもなく、このクマみたいな大きな身体に包まれたり、ひょいっと持ち上げられたりしてみたいと思った。
でも、こんなに早く、白状したら、このビビりは引きまくって、逃げちゃうかもしれない。
そう思って、冗談にしておいた。
あんまり押したりしないで、少しずつ距離を縮めていこう。
「明日から働かせてください、制服は持ってるんで」
とわたしは、言って、笑った。
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