過去1 ⑦夜中と明け方の間

 久しぶりに湯を張った風呂に入り、久しぶりに普通のベッドに横になる。ほんの少しではあるがアルコールも摂取して、久しぶりに良く寝る――つもりだった。


 前触れなく目が覚めた。

 辺りはまだ暗い。

 正確な時間はわからないが、感覚的には深夜と明け方のちょうど真ん中ぐらいだろうか。


 癖で寝巻きを脱いで着替え、剣を手にして、そこで我に返る。

 剣は布袋に覆われたままだ。抜くことはできない。


 何だか奇妙な感覚だった。

癖で使うつもりもない剣を手にしてしまう自分に対してのものでもあったが、それ以上に取り囲んでいる空気がいつもと違うように感じられた。

 張りつめているというか、ぴりぴりとしているというか。

 こんな感覚を普通の宿で感じることが奇妙であった。


 酒に呑まれ過ぎて感覚が狂っているだけかもしれないし、そもそも勘違いなのかもしれない。

 だが、気にかかる。

 何だ? 何が起こっている?


 ベッドの上で逡巡していても結局は堂々巡りだ。

 着替えてしまったことだし、部屋から少しだけ出てみることにした。




 静まり返った暗闇が続く廊下には何の気配も感じない。それこそ不気味なほどに。

 一歩踏み出し、すぐに戻ろうかと一瞬迷ったが、足を進めることにした。――どことなく奇妙な感じがした。

 どちらかといえば嫌な予感に近い。


 後ろ手で扉を閉め、もう一歩足を踏み出したその時、隣の部屋の扉が小さく開いた。

 驚きで固まれば、小さく開いた隙間からセフィが顔を出す。


「……ヒュー……さん?」

「起きていたのか」


 この登場の仕方は心臓に悪い。激しくなった動悸を落ち着かせようと、努めて冷静にセフィに尋ねた。


「気配がしたので」

「あ、悪い、起こしたのか」


 俺が廊下に出た気配で起こしてしまったのだと、その言葉から判断し素直に詫びる。

 神経質なのか警戒心が強いのか、鋭いもんだなと思った。


「ケインは?」

「寝ています」


 薄暗い中でその輪郭しかわからないが、セフィはあの虚ろな目を俺に向けているのだろう。声にも抑揚がない。


「何か起きているんですか」


 何かが起こっているのか。何かが起こるのか。

 はっきりとはわからない。

 ただ、あまり良くない雰囲気な気がする。そんな曖昧な話だ。


「いや、何も起きていない」


「か、火事だ!! 火事だ――!!」


 どこかでそんな叫び声があがったのが聞こえた。

 火事? この宿で?


「今すぐケインを叩き起こしてくれ」

「はい」


 セフィは俺の命令にも近い言葉に素直に返事をすると、顔をのぞかせていた扉を閉ざした。

 俺もすぐに踵を返し、部屋に戻ると剣を手に取った。

 小さくため息を漏らしながらも、手早く布袋から取り出し鞘と柄を堅く結びつけた紐を解く。

   

 ――自分を守るために、あんたはまた剣を抜くんだよ


 昨夜のケインの予言がふと脳裏に浮かぶ。こんなに早く的中するとは。皮肉の一つでもいってやりたいが、今はそんな場合ではないだろう。


 鞘から刀身を抜く。刃こぼれが少々あるものの、まだ使えそうだ。その確認だけをしてずっしりと手にのしかかるそれを再び鞘に戻す。どちらかと言えば使い手の方がおんぼろだけど。

 ベルトに刀身を封じていた紐を通し、剣を括りつける。重量感が懐かしく、変な感慨を抱えながら再び部屋を出た。


「ヒュー」


 部屋から出た途端にケインに呼び止められた。彼もちょうど部屋から出てきた所のようだった。彼の持っているカンテラがぼーっと辺りを照らしている。


「火事って本当かよ?」


 先ほど違い、階下から行き交う足音が静寂を打ち破るように響き渡っている。

 誰かが繰り返し叫び声をあげているのも聞こえる。

 「火事だ、早く逃げろ」と。

 どこからともなく、焦げたような臭いが漂ってきている。煙や火そのものは見えない。

 あまりぐずぐずしていたらあっという間に煙か炎にのまれるだろう。


「セフィ、行けるか」


 ケインが部屋の中に声をかけると、着替えを済ませて荷物を持ったセフィが廊下に飛び出してきた。


「行くぞ」


 返事を待たず、二人を先導するように階段へと早足で足を進めた。

 こんなトラブルに見舞われるなんて、ツキから見放されているのだろうか。


 部屋は三階だ。

 階段を一階まで一気に駆け下りる。

 たどり着いた一回の受付ロビーは既に煙が充満していた。


 煙を吸い込まないように口元を腕で覆い隠すように出入口へと向かう。

 視界はあまり良くない。ケインとセフィの様子を一瞥して伺えば二人とも離れることなく後ろに続いていた。


「とにかく外へ」


 二人に声をかけると、ケインだけ大きく頷いて応じた。



 ロビー周辺は多数の人が行き交っている。

 火元を確認しようとしているらしき従業員や、俺たちのように外へと避難しようとしている客。何とか外へと誘導させようとしているのは従業員だろう。おかげで入口に人が殺到するような事態には陥らずに済んでいる。

 

 落ち着いて出入口へと向かう。

 前を歩く夫婦に続いて出入口の扉をくぐって、建物の外に避難することができた。

 焼死からは逃れられてとりあえずは一安心だ。

 これからどうするか考える余地ができた。


 今までいた建物を見れば、夕食を食べた食堂の方が大きく火の手が上がっているのが目に入る。

 火元は食堂の方か。火の後始末が失火の原因なのかもしれない。

 黒い煙をあげながらも、瞬く間に建物を炎が飲み込んでいくのをしばらく漫然と眺めてしまう。

 こちら側が風上のようで、黒煙はこちらには流れてこない。

 

 まだ宿泊施設の方には燃え移っていないようだが、あがっている火の大きさから炎に包まれるまであまり猶予はないようにも思えた。

 延焼を食い止めるのは難しそうだ。


「火……」

「あんまり見るな。何か手伝えること、あんのかな」


 呆然と呟くセフィを窘めるように言って、ケインは辺りを見回している。

 ここで見ている以外にやれることなどあるのだろうか。


 と、


 近くで小さな悲鳴があがった。

 弾かれたようにそちらに視線を送る。

 悲鳴という恐怖の感情はあまりよろしくない。あっという間に周囲に伝播して恐慌を招く可能性もある。


 焦りにも近い気持ちを抑えて悲鳴のした方に視線をやれば、人が一人、倒れ伏しているのがわかった。

 倒れ伏した人間の前に立つのは、血のついた抜け身の剣を手にした男だ。


 その場にいたほとんどが自然にそちらに視線をやっていたのだろう。

 目に映る非現実的なその光景に、誰かが息を飲むのが気配でわかった。

 その一瞬の間を置いて、あちこちから悲鳴があがる。恐れていたことが――現実になった。


「うああああ!」

「……ひ、と、人殺し! 人殺しいいいい!」

「きゃあああああ!」


 恐怖を感じた時、人が取る行動はいくつかのパターンに分かれる。

 大概が、立ちすくむかその場から逃走を図るか。


 躊躇わずその場から駆け出した幾人かの人々は、いつの間にか現れたやはりナイフのような小ぶりの刃物を持った連中に斬り捨てられその場に容易く転がった。

 恐怖で固まっていた者たちの恐怖がさらに膨れあがるのが手に取るようにわかった。


「な、何が、どうなって……! なあ、ヒュー!」


 ケインも固まったまま問いかけて来るが、俺にわかるわけがないだろう。

 内心舌打ちをしながらも、ケインとセフィを見やる。

 セフィは相変わらずの無表情だが、ケインは混乱が伺える顔色をしている。


「動くな!」


 恐怖と混乱状況の中、全員を支配するような威圧的な声があがった。


「いいか、動くなよ。言うことを聞け」


 全身黒い服で身を包んでいる一人の男が鞘に納めた大剣を片手に、残った宿泊客と従業員たちに呼びかける。

 人相が悪い男だと反射的に思いながらも、ケインとセフィの二人を背中に庇った。


「あ……、あいつ、何だ?」

「盗賊か」


 こっそりと俺に問いかけて来るケインに短く答えているうちに、一つの可能性が思い浮かんだ。

 この火事もこいつらの手によるものかもしれない。

 火事を起こして混乱を招き、その隙に略奪行為を行う。

 盗賊とはそういう輩の集まりだ。


 この辺りを根城にした盗賊団の存在について記憶を探ったが思い浮かぶものはなかった。どこからか流れてきたのだろうか。

 何にせよ、こんなに大胆な犯行は無理が過ぎるとしか言いようがない。

 

「女と子どもを差し出せ。抵抗すれば殺す」

「人身売買……ときたか」


 女も子どもも高値で取引されると聞いたことがあった。

 若ければ男も需要はあるらしいが、抵抗されることを考慮すれば扱いにくいのだろう。

 しかし、奴隷制度を禁じているこの国では人身売買は重罪だ。


 盗賊どもが手にしているのは一人を除けば小柄なナイフだ。

 冷静に辺りを観察してそう判断を下す。

 恐らく、鞘に納めた剣を持っているのがリーダー的な存在で、その他のナイフか抜け身の剣を持った奴、四人がその部下とみて間違いなさそうだ。

 

 ――行けるか? そう自問する。

 抵抗すれば殺す、と言っているが抵抗しなければ殺さないとは言っていない。目撃者を生かすとは思えなかった。

 ならば、やるしかないのかもしれない。


「逃げろ」


 ケインにそう言い放ち、剣の柄に手をかけ抜け身の長剣を持つ盗賊との間合いを一気に詰める。

 そいつが反応という反応を見せる前に、その喉笛を真一文字に掻き切った。

 

 くぐもった叫び声のような音を漏らしているがそちらには目をくれず、別の盗賊へと足を向ける。

 一歩目を軽く跳躍して距離を稼ぎ、後は地面を踏みしめ盗賊との距離を縮める。

 しまった、と舌打ちしそうになるのは歯を食いしばって耐えた。近づきすぎだ。

 

 酔いが醒め切っていないせいか、はたまた体が訛りきっているせいか、感覚がおかしい。

 しかしそれを悔やむ時間はない。


 盗賊を踵の部分で蹴り飛ばし、掴んでいた剣から左手を離し、素早くベルトと剣の鞘を結びつけていた紐を解いて鞘を手にする。

 たたらを踏んで反撃に転じようとした盗賊の鼻先目がけ、手にした鞘を突き出した。

 どっと鈍い手ごたえを覚えるのと同時に、そいつは後方に転がる。

 呻きながらも起き上がろうともがいているそいつは無視。

 

 鞘をその場に投げ捨て、剣を両手で持ち構え直しながらも別の盗賊に向かって駆ける。

 剣を突き出し、体当たりをするようにそいつの腹部めがけて剣を突き立てれば、肉を貫く独特の感覚が伝わった。


「ひ……ぃ……」


 己の腹を貫通する剣を見下ろしながらも何が起こったのか理解できないのだろう。

それでも間近に迫った死の気配は察知し、可解さと恐怖の混ざり合った顔つきをしているそいつからゆっくりと剣抜く。

 ややあって、盗賊は倒れ、そのまま動かなくなった。


 は、と息を吐く。まだ終わりではない。

 

「今のうちに逃げろ」


 生き残った宿泊客や従業員たちに言い捨てて、俺は更に駆ける。

 思うように動かない体に苛立ちめいた感情はある。それでもあれだけ怠惰な生活を送っていたにしては動いている方だ。

 尤も、こんな状態でどこまでやれるかなんて、わからないわけで。


 襲い掛かってくる盗賊のナイフを剣で受け止め、そのまま押し返す。体勢を崩した隙を突いて大きく振りかぶった剣で脳天から叩きつけるように斬りつけた。

 視覚的にはあまり良くない殺し方だが、今の俺では手加減などできない。戦意を喪失させるにはこうするほかない。


 先ほど鞘で突いて転がした奴の元へと再び向かい、ようやく起き上がったそいつに向かって振りかぶった剣を思いきり突き立てた。


 あと、一人。

 方向転換しようとした瞬間、膨らんだ殺気に、咄嗟に剣を構える。

 手に加わった衝撃に一歩後退しつつ体勢を整えた。


 リーダーと思わしき盗賊が斬りかかってきたのを受け止めた形だ。


「やってくれたな」


 怒気を孕んだ声音には反応を見せず、次々と打ちかかってくる大剣の斬撃を確実にいなしていく。

 力も技術も粗削りだが決して油断してかかっていい相手ではない。

 だが、油断しなければ今の俺でも負けることはないだろう。


 がちっと頭目の長剣と俺の剣とがかみあった。

 力を込めて頭目の刃を弾き、一歩踏み込んで頭目の長剣目がけて渾身の力で剣を振り下ろした。


「うおっと」


 大きく体勢を崩し、盗賊のリーダーらしき男はおどけた声を上げているが、それには構わず俺は次々と剣を叩きこんでいく。


「あんた、強ぇじゃねえのよ」


 圧されているはずの状況でそいつはにやりと笑う。

 わかり易い挑発だ。反応を示さず冷静に追い詰めていった。


「おいおい、ちったぁ乗れっての」

「ヒュー!」


 鋭いケインの叫びで、そいつの後ろにある何者かの気配にはじめて気づいた。

 一歩後退ってひそかに吐息を漏らす。

 息が、想像以上に息があがっていたことにようやく気付いた。


 周囲が、周りが全然見えていない!

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