第二章 過去1

過去1 ①堕落

 いつからこうなったのか、『その時』の境界はわからない。

 少しずつ俺は変わっていって、そして今に至っている。


 いつから、は曖昧なのに、「どうしてこうなったのか」、原因はあきらかだ。


 少しでも酒が抜けるとその原因が重くのしかかってきてつぶされそうになる。

 だから、つぶされるその前に自分から酒をあおるように飲んで自発的につぶれる。

 常に酔っていないと落ち着かない。――いつからか、本当にいつからか、昼間に寝て、夜は酔いつぶれるために酒場に向かう。

 以前の自分ならば「堕落している」と鼻で笑いそうな生活で、日々をただやり過ごすようになっていた。


 それまで真面目に生きていたことが幸いしてか、困らない程度の金はあったし、故郷を捨てた俺には忠告といったわずらわしいことをつべこべ言ってくる知り合いが周りにいなかったためこんな状況を加速させた。

 

 いつものように下宿代わりに借りている物置小屋を夕方過ぎに出て、少し寂れた場末の酒場へと向かう。

 もうすっかり常連になってしまった店で、店主が俺の顔を見てあからさまに眉を顰めたのがわかったが意に介さずいつもの席へと向かう。


 一瞬、ああ、わずらわしい、と感じてしまったが肩をすくめいつもと同じ酒を注文する。

 味はどうでもいい、店で一番強い酒だ。


 若いのに……と言いたげな目を向けてくる給仕の女とは極力目を合わせないようにテーブルに突っ伏し酒を待つ。

 この時間がいけない。

 一日の中で一番醒めている時間だ。

 余計なことをついつい考えてしまいそうになるのを何とかこらえながら気を逸らすのに必死になる。


 そうだ、ここに通う日々も長い。顔も知られてしまった。

 面倒なことになりそうだし、そろそろ移動してもいいかもしれない。


 少々長居をしすぎた気もするし――正直なところ時間の感覚など皆無に近く、長いような気がするがあくまで気がするだけで実際にどれぐらいの時間が経っているかなんて知る由もない。

 知りたくもない。


 どん、と突っ伏している俺の横に何かをたたきつけられたような衝撃にはっと我に返る。

 顔を上げると給仕の女が立ち去って行くところだった。

 注文品だけがテーブルの上に置かれている。

 関わるのも嫌だという現れだろうか。

 それなら好都合だと俺は奪い取るような勢いでグラスを手に取った。


「兄さん」


 飲んで全てを終わらせようとしたその時に、突然背後から声をかけられた。

 いちいち絡まれるのが嫌で、店の隅のテーブルを陣取り、入り口に背を向けて座っていた。後ろに人が通っても何もおかしくない。

 おかしいのは俺に声をかけてくる人間の方だ。


 無視を決め込んで、グラスを傾けようとしたが、それを妨げるように声の主は俺の横の空いた椅子へと腰を下ろしてくる。

 反射的に睨み付け、すぐにやめておけばよかったと後悔する。


 目が合った。

 明るい茶色の目、同じ色の短い髪。

 座っているためはっきりはわからないが、身長は低くも高くもない中背。

 やや痩せ型。目や髪の色と同じ明るく陽気な雰囲気を纏った若い男だった。

 若い、といっても俺と同じぐらいだと推察する。

 二十歳そこそこといったところか。


 睨み付けても、にこやかにニヤニヤ笑いを混ぜたような表情で親しげに男は言ってくる。


「なあ、それ、立派な剣だな。兄さん、あんたさぞかし立派な剣士とみた!」


 何となく癖で持ち歩いていた剣を男は指差していた。

 二度目の後悔だ。


 かつては俺の相棒であったもの。

 だが今は無用の長物だ。

 持ち歩く必要などない。


 俺は一生剣を振うことなどないだろう。

 だが、長年の習慣とは恐ろしいものでなぜか気がつくと手にしている。

 持っていないと落ち着かない。

 困ったもんだ。


 さすがに酔っ払った勢いで抜き放つことがないように、鞘と柄とを丈夫な紐で堅く結び布の袋に入れてある。

 一見剣には見えないであろう代物を簡単に見抜いたこの男がすごいのかなんなのか。


 いずれにせよ、これを持ち歩いていなければ絡まれることもなかったわけで。


「……違う」


 否定を口にして、三度目の後悔。無視すればよかったのだと言ってから気づく。

 さっさと追い払いたくて焦りが出た。


「へえ、あ、俺、ジュースね!」


 男は俺の否定の言葉など耳に入ってないかのような態度で近くを通った給仕へと注文を伝える。

 このどっぷり飲み屋な雰囲気の店でよくそんな注文ができるもんだと非難の目を向けてやるが飄々と受け流されてしまう。


「あのさ、頼みたいことがあるんだけど」


 今までの俺の否定表現をばっさり切り捨てるかのように男はそう言った。


「断る」


 とにかく追い払いたくて、俺は声を荒げる。


 声は店内に大きく響き、一瞬店の雰囲気が凍りつくのがわかった。が、気にせず、俺は男に向かってどっかいけと手を振る。


「そんなに邪険にすんなって」


 ヘラヘラと笑い男は言う。

 腹立たしい。


 こうやっている間にもどんどん酒が抜けていくような錯覚に陥り焦燥感に駆られる。

 早く酔って、自分を失うほど飲んで――


「あ、と、報酬とか気になっちゃう感じ? ちゃんと払うぜ?」


 無視することにしてグラスを傾きかけると、それを男の手が遮った。


「待った、飲む前に聞いてくれよ」


 グラスを持っていない方の手で男の手を振り払うが、男はすがりつくように今度は手に包まれたグラスを掴んだ。


「まー待てって」


 いい加減腹が立って手を出しかけたその時に、給仕が男の注文したを運んできた。

 黄色の混ざったクリーム色の液体で満たされたグラスを男に渡しながら給仕の女は俺を見る。

 その目にあるのは軽蔑の色だ。

 だが何とも思わない。


「はい、ジュース。この人には関わらない方がいいよ。単なる飲んだくれなんだからさ」

「ありがと、おねーさん」


 男は女に礼を言って、心配ないからと笑い給仕に仕事に戻るように促す。

 しぶしぶといった様子で給仕は厨房へと戻っていく。

 再度俺に侮蔑の視線を送るのは忘れない。


「ただの、飲んだくれ、ねえ。そうは見えないから声かけたんだってえの」

「じゃあ、単なるアル中だろ」


 気勢をそがれ、疲れたように嘆息を漏らすと男は急に大真面目な顔つきになって大きく首を横に振った。


「いや、俺の目に狂いがなきゃ、あんたスゴ腕の剣士だ」

「目が狂ってる」


 ぽつりと呟いて、ようやくグラスの中の酒を一口喉へと流し込んだ。

 常に酒びたりの状態だが、体質的に酔いにくいためこんな少量では飲んでいないも同義だ。


 しかし飲んだ、という事実だけで少し落ち着く。

 苛々が少しだけ鎮まった。


「いいや、あんたの中には鬼神めいたもんがいる! 俺、そういうの見えるんだよ」


 何戯言言ってやがる、と懐疑的な目で男を射抜くが、男はその視線を真っ直ぐに受け止めてしまう。

 その表情は真剣そのもので根負けして先に目を逸らした。


「それに、手ぇ見りゃわかるぜ? つーかさっき触った時に驚いたんだけど」


 言われ、反射的にグラスをテーブルの上に置き自分の手を見やる。

 その手を横から男が掴んでにやりと笑った。


「すげー、堅い手だ。マメなんてちゃちいもんじゃないな。んでもって、剣も持ってる。相当使い込んでんな」

「…は」


 自虐的な笑いを漏らして、俺は男の手をはたいて振り払った。

 こんな短時間でそこまで見ているとは大した観察眼だ。

 嫌いじゃない。

 いや、かつての俺ならば素直に感心していただろう。


 今は忌々しいと思いつつも、やはり嫌いにはなれない。


「……こんなに酔っ払ってて剣なんか振れるか。手が堅いから? それがどうした」


 愉快だった。

 言いながらも可笑しくなってきて俺は声をあげて笑った。

 狂ったように笑いながら、このまま狂ってしまえばどんなにいいかと思った。

 だが、俺という意識はしっかり残っていて無くなることはない。


「今更。何ができる?」


 店内はしんと静まり返り、皆が俺に注目していた。

 無理もない。俺は席を立った。このままここにいられるほど酔ってはいない。


「会計」

「あ、ちょっと待ってくれって。俺もジュース代、会計!」

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