現在1 ③前夜

「明日には、目的地ですね」


 何となく眠れなくて、その必要もないのに見張りもかねて宿の食堂の片隅に腰を下ろし、水を飲んでいると、突然声をかけられた。


 フィルツ首都から旅立って二晩目。

 目的地の砂漠を目前にした宿場町で休息を取っていた。

 宿を決め、明朝の集合時間を隊長から告げられた後は自由行動となった。


 他の連中と一緒に行動しても敵意を向けられるだけ。

一人で適当に夕食をとって湯を浴びて寝ようとしたものの眠れなくてこの場にいたのだ。

 まさかガスバがやってくるとは思わなかった。


「隊長」


 明日に備えて早めに寝るべき、なのだから少しバツが悪い。

 苦笑いで呼びかけると、人の好い笑顔を見せてガスバは俺の向かいの席に座った。


「お酒ですか?」

「いえ、水です」


 酒を飲むことができず水を選んだ。

 食堂兼酒場であるはずなのだが、辺りには他の客の姿はない。流行っていないようだった。

 宿屋の女主人がこちらも切り回しているようで、その女主人も水だけ注文すると、不機嫌さを隠しもせず奥へ引っ込んでしまったため俺たち以外に人の姿はない。


「飲みますか? 酒でも頼んできます」


 遠慮がちにガスバに尋ねると彼は小さく首を横に振った。


「しばらく前から禁酒してるんですよ。女房に止められましてね。まあ、ちょっとばかり深酒をしすぎたので当然の処置です。はい」

「そうなんですか」


 そう言われてしまえば、無理に勧めることもできない。

 水でも貰ってこようかと立ち上がろうとしたところ、ガスバが口を開いた。


「ヒュー君は、演技が下手ですよね」

「……は」


 思わず声が漏れる。


「ディノ殿下の命令かもしれませんが、全く愚鈍さが伝わってきませんよ」

「……は、あ」


 鋭い指摘に、返す言葉もない。


「命令とはいえたまには断ってもよいのでは?」

「そう思います」


 ディノは俺には何をさせてもいいと考えているきらいがある。

 断れるものなら断りたい。というか、今回のことが終わったら、しっかり断ろうと決めていた。

 一兵卒に過ぎない俺に対し、課せられる依頼が重すぎる。


「殿下がヒュー君を出世させないように手を回しているという噂は聞きますが」

「あいつ……っ!」


 そこまで出世欲はないが、いつまでも最下級でいるつもりもない。

 だが、昇給試験の話すら貰えていないあたり誰かの妨害を疑っていたが、まさかの最高権力者だとは。

 ディノの父親である国王は病に倒れて長く床についたまま、国王代行をディノが執り行っているのが現状だ。

 

「あまり乳兄弟を甘やかす必要はないのでは?」

「今心の底からそう思いました」


 正直な想いを告げれば面白かったのか、ガスバは声に出して笑った。


「とはいえ片腕に逃げられてはディノ殿下もたまったものじゃないでしょうけどね」

「そんな大層なものではないしょう」


 この雑な扱いは、そういう者に対する扱いというよりは、どんなに雑な扱いをしても壊れない便利グッズみたいな物みたいに思っているのだと思う。もしくはいくら無茶振りしても逆らわない弟とか。ちなみに俺の方が五日早く生まれてはいるのだが。


「少しでも離反する素振りを見せればすがってくるかもしれませんよ」

「その前に退路を塞いでくると思いますよ」


 そんな殊勝な真似をするような可愛らしさなんて幼少時代に捨ててきたように思える。

 ガスバが声を上げて笑う様を眺めながら、俺はコップに注がれた水を一口飲み込んだ。

 

「乳兄弟というのも、難儀なものですね」

「それでも自分は、あれに忠誠を誓うと決めているのでいいんですよ」


 幼少の頃から決めていたことだった。

 それはまだ、母にもディノ自身にもそれを告げたこともなく、漠然と考えていただけで、こうやって口にしてしまえば当然のことのように響いた。


「国にではなく、ディノ王子にお仕えするのだと決めているんです」

「いつか王子殿下から離れ政治屋にでもなるのかと思っていましたが」

「向きません」


 俺の家は先々代までは文官の家だった。だからそちらの道もあると母からは言われていたが、自分自身にその適性があるとは思えなかった。

 ディノの苦労を横で見てきた。だからこそ支えたい。でも政治家としての適性はない。

 選べる道は戦争屋のみだ。

 剣だけは誰にも負けない。剣技に全てを賭ける生き方しかない。


「確かに。君は実直で誠実な父親似ですね。その容姿も併せて」

「よく言われます」


 生き写しのようだ、とかなんとか。

 俺自身は物心つく前に亡くなった父のことを全く覚えていなかった。だからそう言われても特別な感情など抱くはずもなく。

 

「口下手なところも、不器用なところもね」

「はあ」


 そうなのか。父はそういう人物だったのか。

 そういうマイナス面について口にする者はいなかったから、それは少しだけ新鮮さを覚えた。


「君がいればディノ様は荒事には強くはなるのでしょうが、参謀が欲しいところだと思いますよ。積極的に探してあげてくださいね」

「隊長は?」


 カマをかける意味で問いかけてやる。話していれば気づく、この人は昼行燈などではない。

 ディノにとっての、『使える人間』なのだと思う。恐らく隊長をこの任務につけたのもディノだ。


「僕はね、もう引退が近いので。若者に頑張ってほしいんですよね」

「なるほど」

「君のそういう実直さは美点ではあるんですけどね。ディノ様はひねくれているので、余計に」


 ガスバはそう言いながらも、頬杖をついて意味ありげな視線を虚空に向けた。

 ディノがひねくれているのは事実だ。事実だが主君に向かっての言葉ではないだろう。


「でも、実直なだけでは利用されるだけです」

「肝に銘じます」


 ディノがひねくれているのも、俺に考えが足りないのも、言われたとおりだった。

 それは素直に受け入れて改善しなければならない短所でもある。


「そういう忠告に素直にうなずける所は、個人的には好感は持てますけどね」


 そう言うとガスバは視線を俺に戻して、声を潜めた。


「城内でひそかにディノ王子の排斥活動が起きているんですよ。貴族派の」

「排斥活動、ですか?」


 規模は大小あれど、貴族を優遇しないディノの方針に反発する活動はたびたび起こっている。過激なものだと暗殺計画なんてものもあったか。ほとんどが嫌がらせレベルで、うざったいといえばうざったいが潰す労力を割くのも惜しい程度。 


「ええ、詳細までは探れませんでしたが、かなり大規模なようで」

「貴族連中を動かす何かがある?」

「そう見ていますが、何かまでは探れませんでした。残念です」


 なぜか先ほどから悪寒がしていた。動悸が激しくなる。大規模な活動、裏で動いているそれ。

 ミルといたときや母と話したときの不安。あれに似ている。根拠がなく捉えどころのない、不安。ぐるぐるする。大切なことが思い出せないようなもどかしさ。様々なものが交じり合う。気持ちが悪い。


「どうしましたか?」

「いえ」


 これは一体なんだ。

 気持ち悪さがどこから来るのか、自問してもわからない。


「二人とも出かける様子はありませんね。ひょっとしたら商人たちと接触するかなと思ったんですけど」


 突然そんなことを言われて、何のことか理解するのに時間が要った。疑惑の隊員だ。


「その可能性を懸念していたのではないんですか」

「少しだけ。でもそこまで迂闊ではないかと」


 気を取り直す意味で、正直に答えるとガスバは大きく頷いた。


「そういう迂闊さがあればもっと楽なんでしょうけどね」


 少し、寂しそうに言う。楽だが、そんなのが部下なんて嫌だろう、とは言わないでおく。

 これだけ情報を集めるのに長けているから、奴隷商人たちと二人の繋がりについてガスバが知っていることは不思議でもなんでもなかった。


「…んー、寝入るためにほんの少し飲みましょうかね。ヒューくんはどうします」

「このところの深酒のせいで、自主規制してるんです」


 冗談めかして答えると、ははは、と声に出してガスバは笑った。


「早く結婚すればいいですよ。妻による規制の恐ろしさは知るべきです」


 早く、結婚か。よくわからないがただ漠然とした不安と、ほんの少しの駄目だろうな、という諦めにも似た気持ちがある。

 だが、やはり何からそう思っているものなのかは掴めずあやふやだ。


 ただ、『深酒』という言葉は自分で言ったのに身震いすら覚えたので、勧められた酒には一切手をつけず俺は寝床に戻った。これも意味不明な感情でやはり気持ちが悪かった。

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