第一章 現在1

現在1 ①はじまり

「ヒュー!」


 勢いよく抱き着かれ、たたらを踏みながらもその体を受け止める。


「お待たせ」


 腕の中にいるのはミルドレット。

 いつものようにいたずらっぽい笑みを見せて、俺の両腕をとり背中を向けた。まるで抱き着けといわんばかりの態度に苦笑を漏らしながらも、ミルドレットの促すままに彼女を背後から抱きすくめた。

 その髪に顔をうずめれば、小さく「やめて」と抗議の声をあげる。

 どこか懐かしくも感じるその香りを惜しく思いながらも手を離した。


「外だから!」

「……ああ」


 辺りは薄暗いとはいえ、往来でやることではない。ミルの抗議は尤もであった。

 だが、怒っている風を装っているが、その表情は喜びの感情を隠しきれていない。


「……会いたかった」

「あら、珍しい! ヒューがそんなこと言ってくれるなんて」


 おどけてそんなことを言ってミルドレットはふふっと笑う。そんな姿が愛しく思えて仕方がない。

 

「今日はどこに行く?」

「?」


 そんなことを聞かれて、はた、と我に返った。


 そういえば、俺は今何をしていたのだろうか。

 ミルドレットをまっすぐ見ながらも、今日の行動を必死でたどった。

 いつもの仕事の後、ミルドレットと待ち合わせをしていたから、ここで待っていた。

 

 少し考えれば、『今何をしていたのか』の答えは導き出すことができた。

 だが、今の違和感は何だろう。

 まるで、今が今ではないような、そんな妙な感覚だった。


「"何でもいい"は、なしで!」


 はしゃいだ様子で俺の前を歩くミルドレットは生き生きとしていて眩しいほどだ。

 答えを先読みしていたのか、先手を打たれてしまった。

 

 なんでもよかった。ミルさえいれば。

 

 どうしてこんな気分になるのだろう。

 どんな店がいいのか、考えを巡らせながらも俺は足を進めた。


「早く行きましょう?」


 ふわふわの長いくせ毛に、吸い込まれそうなほどに大きな瞳。

 同い年だが年下に見えるのはどこかあどけなさが残るせいか。

 気に入っているのか何度か着ているピンクベージュのワンピースがよく似合っている。

 白い花をモチーフにした髪留めは初めて見たような気がするが、アクセサリー類の収集癖があるのを知っているのでいつものことで説明はつく。


 俺の手を引くように一歩前を歩くミルドレットをこっそりと観察する。

 ご機嫌な様子で足取りは軽い。


 ミルは――ミルドレットは、俺の恋人、だよな?


 今の状態だけでなく、彼女にも何となく奇異なものを覚えていることに気づく。

 こうやって彼女を観察していても、何にそう感じているのはわからない。

 何となく思考もぼんやりしていて焦点が合わないような感じがしていた。


 何だ、疲れているのか?


「ねえ、ヒュー、何か嫌なことでもあったの?」


 何となく様子がおかしいことに気づいたのか、ミルドレットは一度足を止めて、俺の方へと振り返った。

 心配そうに眉を顰めている様子に、こんな表情をさせるのが心苦しくなり、首を横に振り否定する。


「少し、疲れているだけ、だと思う」

「働きすぎ!」


 人差し指を俺の目の間に突き付けて、ミルは眉を吊り上げながらそう言って、その指で俺の鼻をはじいた。


「ヒューは頑張りすぎよ!」

「……そうか」

「そうよ!」


 絶対にそう、と力説するように拳を握ってそう言い切ると、その拳を解いて俺の右腕を掴んだ。

 右腕、が、ある? ないわけがない。のだが、これもまた奇妙な感覚だった。

 腕を切り落とすほどの怪我などしたことはなかった。なかったのに、ないはずのものがそこに存在している、そんな感じがした。


 疲れだ。

 ミルが言うとおり頑張りすぎなのかもしれない。

 多方面からの仕事の押し付けはそろそろ断ろう。――明日を最後にして。


「一体どこに行くんだ?」


 力任せに俺の手を引く彼女に問いかければ、俺の方へ顔を向けていつものまばゆいほどの笑顔を見せた。


「私の好きなところ!」


 結局彼女が決めるのか。

 それに関して異論はないが。


 生まれ育ったこの街で、俺がいてミルがいて、こうやって二人で会って会話して。

 ミルドレットが嬉しそうに笑うのを見るのは無上の喜びだ。

 

 何と言うか幸せ? そうだ、これが『幸せ』だ。

 

 そう感じるのが随分久しぶりのような気がして、再び違和感めいたものを覚えたが、あまり深く考えないことにした。

 

 考えれば考えるほど、怖い答えが待ち受けているようなそんな気がして。

 怖くて、何も考えるな、と暗示をかけるように、その予感に蓋をした。




 ミルドレットと共にやってきたのは家族連れが多い大衆食堂だ。

 とても落ち着くような雰囲気ではないが、こういう活気のある場所は嫌いではない。

 何よりミルドレット自身が楽しそうだからこれでいい。

 かわいいと正直に思う。


「何飲む?」

 

 何気ないミルドレットからの問いかけに、不意に動揺した。

 二人で酒を嗜むのはいつものこと。

 二人とも弱くはない。

 俺はどちらかと言えば底抜けだし、ミルドレットもいける口だ。

 疲れていても酔いつぶれるような心配はないから、そちらに動揺したわけではない。

 

 そうではなくて「酒を飲む」行為がとてつもなく恐ろしいことのように感じている――のだろうか。


「あ、いや、今日はやめておく」

 

 頭を振って何とか声を絞り出す。

 続けて彼女には好きなものを頼むように促し場と恐怖心を誤魔化した。

 

「どうしたの? やっぱり体調悪い?」

 

 驚いて、すぐに心配そうな表情になるミルドレットに罪悪感が芽生える。

 こんなわけのわからない感情で振り回して申し訳ない、と。

 

「明日、早いから。遠慮しておこうと思って」

「仕事なの?」


 特に食事の後の約束はしていなかったが、一緒に過ごしたいと思っていてくれたのか、ミルドレットはうなだれた。

 

「今日、城に呼び出されて。ディノ……様の勅命で」

「王子様の?」

 

 唇を尖らせる彼女は本当に可愛らしくて本当に心が痛む。

 

「で、その」

 

 今回の勅命、というかお願いだな、は彼女に伝えづらくて、言い淀んでしまう。

 が、言わなくてはならない。

 

 ディノはこの国フィルツの王子で、俺の母はその王子の乳母である。

 歳が同じせいもある。乳兄弟で幼馴染みだ。

 普段は敬語も敬称も使わないような間柄だが、平気で厄介事と押し付けてくるので困る。

 

「明日からしばらく首都を離れなければならなくなって」

「ええっ?」

 

 彼女の反応は想像どうりだった。

 

「仕事、だから?」

 

 恨みがましい目で問いかけてくる彼女にただただ頷く。

 罪悪感がどんどん大きくなっていく。

 

「もう、仕方ないな。王子様のお願いをヒューが断れるわけないもんね。でも帰ってきたら――わかってる?」

「ああ、わかってる。なんでも奢る」

「ならばよろしい」

 

 こんなにも簡単に許してくれて、弾けたように笑ってくれるミルドレットが好きだと改めて思った。

 

 帰ってきたら彼女の好きなものをプレゼントしたらまた笑顔を見せてくれるだろう。

 そして今のように好きだと思うに違いない。

 惚れた弱味なのかもしれない。

 どこか懐かしさを孕んだ幸福感に彼女につられたように俺も笑う。


 そんな束の間の休息は、とても貴重なもののような気がした。

 きしむように胸が締め付けられた。愛しさなのか。それとも。



 食事を終えたらミルドレットを家まで送って帰る。いつものルートだ。


 彼女の家は商家だ。

 商売の才気溢れる彼女の父親がその手腕により国内屈指の豪商といわれるまでに事業を拡大させた。

 一代で財を築いたことへのやっかみからか「成金」嘲笑されることもある。

 だが、それでどうにかなるような人物ではないことは何度か顔を合わせるうち嫌というほど思い知らされていた。


 そんなやり手商人が溺愛する一人娘がミルドレットだ。

 彼女が謂われのない中傷をあびることのないよう上流階級の教育を施したらしい。

 確かに貴族の娘と並んでも見劣りしない振る舞いができるが、そんな娘の中身は庶民よりだったりする。

 

 そんな庶民派のミルドレットの家は豪商の名に恥じないほどの豪邸で。

 貴族の古めかしい屋敷とは趣が違うもののとにかく大きくて立派だ。

没落した名ばかり貴族の俺の家とはもちろん比べ物にならない。使用人も20人以上いると聞いたことがある。


「寄っていく?」

 

 そんな豪邸の門の前で、名残惜しそうにミルは聞いてきたが、俺はすぐに首を横に振った。

 

「ごめん、明日早いから」

「そう」

 

 悲しそうに目を伏せる彼女の頬にそっと唇を落とした。

 

「パパもヒューに会いたがってる」

 

 彼女の両親には気に入られているようでいつも寄ってほしいとは言ってくれている。

 さすがにこの時間からは迷惑だろう。

 ありがたいがまたの機会にお願いしたい。

 

「帰ってきたら、土産でももって挨拶にいく」

「うん、おやすみ。気を付けてね」

 

 微笑んで、小さく手を振ると、ミルは門を開けて豪邸の中へと返っていく。

 俺はその後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、自宅へときびすをかえした。



 ――どうして、なんだろう。

 

 自宅への道をたどりながら自問する。

 ほんの数日、いやほんの数時間まで、ミルに会うことが楽しみで、とにかく一緒にいる時間が足りなくて、彼女が横にいることを切望していたのに。

 

 今は――


 ――今は、一人になって、安堵している自分がいる。


 そしてそれがどうしようもなく苦しくて、悲しくて、俺は泣きそうになった。

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