第八話 滅びの道へ
滅びの道へ-1
「どういう魔法か、ご丁寧にここに全部書かれているわけよ」
ヴィンセントを簡素なベッドに座らせ、その前に立ったノインは、身を屈めて彼の胸に顔を近づけた。そこにある紋様に指を滑らせながら、つぶさに眺める。ヴィンセントがくすぐったそうに軽く身を引いたので、手を離して顔を上げた。
ヴィンセントは、やや気まずそうに視線を横に流していた。
「どうしたの?」
「いえ……。牢の中にあなたとふたり、というのが、どうにも背徳的な感じがして落ち着かないのです。ごめんなさい、続けてください」
顔をそむけてぼそぼそ答える彼に、魔法のことだけに集中していたノインは気をそがれ、改めてヴィンセントを見下ろす。
牢に入れられてどれくらい経つかわからないが、別れたときよりずいぶん痩せて、皮膚の上から骨が見えてしまっていた。もともと線が細い上、その薄い肩に、解かれた長いアッシュグレイの髪がこぼれかかり、いかにも儚げな風情の麗人が出来上がっている。
けれど出会ったころよりも目に力があって、頼りなさは感じない。
「……背徳的、って」
ノインは後ろを振り返り、鉄格子を一瞥する。昏倒した牢番から鍵を拝借し、ノインも牢の中に入っていた。
「わたしは、少し落ち着くけれど」
「えっ」
ヴィンセントが月色の瞳を丸くして見上げてくる。そこによろしくない誤解の色が見えて、ノインは急いで続けた。
「ある意味、ここが一番安全でしょう、今は」
ノインが牢に入ることについて、ヴィンセントは渋い顔をしたが、彼を牢から連れ出して、万一早くに脱獄が知れたら面倒だ。
好き好んで牢にふたりでいるわけではない。
それでもこの時間に安らぎを感じるのには、理由がある。
「ここを出たら、次はいつゆっくり過ごせるかも、どうなるかもわからないもの」
「……」
ヴィンセントは黙って目を細めた。気休めの口説き文句くらい言ってよさそうな場面であっても、適当なことは口にしないひとだ。だからこそ誠実なまなざしひとつで、彼の気持ちが伝わってくる。
「大丈夫よ」
ヴィンセントの胸に触れる。解読はもう終わっていた。
「もし、何もかもうまくいかなくて、本当にどうしようもなかったら、わたしと一緒に旅をしましょう。滅んだ国にも、それにこの国の外にも、『記録』すべきものはたくさんあるわ」
「魅力的な提案です」
目元を緩めて、ヴィンセントがゆるやかに微笑む。
「どこへでも行けるという、そのあなたの自由さを、羨ましく思っていました。でも、今は少し、違うのですよ」
胸にあったノインの手を取って引き寄せ、その親指の付け根、手のひらの柔いところへ、ヴィンセントは頬を寄せた。
「僕には、自分が重くて仕方がなかった。どうやって生きたらいいのかもわからないのに、この体だけがあって。何かをしなければならないと思いながら、何の力もない」
手のひらに、ヴィンセントの温かく湿った吐息が繰り返し当たる。
ヴィンセントの言うことは、ノインの感じたことのないものだった。ノインは、どう生きるべきかだけは教えられ、すべきことも、そのための力も与えられていた。その通りに生きて、迷わない代わりに、ノインの感情や、意思は、置き去りにしていた。
ヴィンセントが視線を動かし、月色の瞳がノインを見る。
「安直ですが、力があるかもしれない、そう思うと、僕に背負うものがあってよかったと思えるのです。守りたいものがあるのは、幸いなことです。胸が熱くなって、たまらない気持ちになります」
「そういう気持ちね、わたしも知ったばかりなの」
意外そうに瞬きをしたヴィンセントから手を取り返し、まだ残る彼のぬくもりを握り込んで、胸に抱く。
手に入れた想いを、これからもっとたくさん知ってゆきたい。きっと、今までとは違う世界が見えてくるはずだ。
「きっと、大丈夫よ」
ノインは言葉を繰り返した。ヴィンセントが根拠のない言葉を口にできないなら、その分はノインが引き受ける。
信じないなら、叶えられるものもないだろう。
「ありがとう、ノイン」
微笑みを交わして、ノインはあらためてヴィンセントの胸の紋様に触れた。
理論は理解しているが、実践は初めてだ。今までだったら好奇心のまま実行できたことでも、ヴィンセントが相手だと思うと、恐怖と緊張で震えそうになる。それを抑えて息を吸う。
「ヴィンセント、いい?」
「はい」
ヴィンセントはノインを信頼しているのか、抵抗なくうなずいて、彼の胸元に視線を落とした。
ノインは指先に魔力を通し、封印に干渉する。絡みついた鎖を解きほぐすように、ゆっくりと魔法を解いてゆく。
ヴィンセントにかけられた封印の魔法は、魔力を生み出すみなもとに鍵をかけたようなものだった。封印の紋様は魔法の記述で、複雑ではあるものの、読み解けば、鍵の外し方もわかるようになっている。
封印をほどこした魔法使いは、解くときが来ることを見越していたのだろうか。
ヴィンセントを利用するためかもしれなかったが、魔力の持ち主であるヴィンセントへの気遣いであるような気もした。
「……っ、うあ……」
「ヴィンセント、痛いの?」
ノインの魔力は異変を伝えてこなかったのに、ヴィンセントが小さく呻いて歯を食いしばった。彼は思わず手を離しそうになったノインの手首を掴み、「続けて」と言う。命を蝕むような異常だったら、さすがに彼も止めるだろうと信じて、ノインは焦る気持ちを抑え、魔法に集中した。
もう少しだ。
息を殺すヴィンセントが、ノインの手首を掴む手に力を込める。少しの痛みを覚えたが、ヴィンセントが縋っているのだと感じ取って、振りほどく気にはとうていなれなかった。
ヴィンセントの胸の紋様は、封印を解くにしたがって端から消えてゆき、白い肌が見えている。
ノインは我知らず呼吸を詰め、その最後の黒ずみを消し去ったとき、大きく息を吐いた。
「……は……、ヴィンセント?」
ヴィンセントは相変わらず苦しげで、ノインの手を掴んだまま、何かに耐えるように背を丸めてゆく。ノインは空いているほうの手で彼の肩をそっと撫で、顔を覗き込んだ。
「どうしたの? どこが苦しいの?」
ノインの問いかけに、ヴィンセントはかすかに首を横に振り、細い呼吸を繰り返した。ノインにはどうしたらいいのかわからない。汗ばむ肌は、それでも異常な熱さも冷たさもなく、平素の彼の体温のままだ。
ヴィンセントが大丈夫だと示すから、不安を押し殺して彼の肌をただ撫でていると、次第に彼の呼吸が落ち着いてきた。
「……ヴィンセント?」
「……申し訳ありません、心配をかけました」
最後に長いため息を吐き出し、ヴィンセントはようやく顔を上げた。そして、ノインの手首を握りしめていたことに気づき、慌てて力を抜いて、心配そうに赤くなったそこを撫でる。
「痛かったでしょう」
「わたしは平気よ。それより、あなたは……」
「予想外に力が大きくて、対応できなかったのです。危うく暴走させてしまうところでした」
ヴィンセントは疲れたように弱く笑ったが、顔色は悪くなく、魔力は無事馴染んだようだ。
生まれてすぐに封じられ、星読みとして、わずかな力を制御することに慣れていたなら、そこに突然大きな力が流れ込めば、感覚も狂うだろう。
それをすぐに抑え込んだヴィンセントには、魔法を扱う才能があるのかもしれない。
「魔力は扱えそう?」
「問題ありません。ほら」
ヴィンセントは、ノインが扱っていたような光の玉をいくつか浮かべてみせた。魔力を発光させるだけの単純なものだから、難しい魔法式は要らないとはいえ、魔力に対する順応が早い。
「もともと、僕の一部ですし」
「一部だからといって自在に扱えたら、魔法使いは修行の必要がなくなるわ」
あっさり言うヴィンセントに、ノインは肩を竦めた。褒められたとわかって、ほんのり照れるヴィンセントが、光の玉を遠ざけて表情を隠そうとする。
「その光、ごく弱くすることはできる? 大きくするより、小さくするほうが難しいのよ。それができるなら……」
みなまで言わせず、ヴィンセントは光の玉を、小さな星ほどまで弱めてしまった。ノインはいよいよ呆れ、星に手を伸ばして、なんとなく悔しい思いでつつく。ヴィンセントの魔力はほのかに温かく、その心地よさが、ノインとの相性の良さを伝えてきた。
「才能の範囲じゃないわ。ヴィンセント、どこで魔力の扱いを覚えたの?」
「星読みは、世界の魔力の揺らぎを視るのに、繊細に魔力を扱います。力の大きさが違うので、少しだけ感覚は違いますが、コツは同じです」
「星読みが魔法使いだったら、よっぽど優秀でしょうに」
「逆ですよ。優秀な魔力持ちは、魔法使いになることを選ぶのです。星読みは、必要とされる魔力自体は多くないので、魔法使いになれない人間でも目指せます」
「魔力の制御だって、十分、優秀な技術だわ」
ヴィンセントは微笑み、ノインが触れていた彼の魔力を、ノインの手のひらに吸い込ませた。普通はかなり失礼に当たる行為だが、ノインには彼のちょっとした悪戯が可愛く思えてしまった。魔力を小さく絞っていたから、仮に魔力の相性が良くなくても、影響を及ぼさない程度だ。
意趣返しと、魔力の相性の良さを教えるのに、ノインは近くを漂っていた別の光の玉を、両手のひらで挟んで自分に取り込んでやった。
「ちょっ、ノイン……!」
「平気よ。あなたの魔力、わたしにすぐ馴染むわ」
ヴィンセントは一瞬、水と思ったら酢を飲んだかのように呆けた顔をしたものの、すぐに頬を赤くした。ノインにはなぜそこで照れるのか、いまいちよくわからなかったが、魔力に慣れないからだろう、と納得しておく。
「それで、あの王妃は、本当にあなたを処刑する気かしら」
「そのつもりがあっても、今の僕は逃げられます。でも逃げるのではなく……」
言い淀んだヴィンセントが、ノインをちらりと見上げ、それから真剣な顔をしてまっすぐに前を向く。その視線は地下牢の壁を越えて、どこかを見据えているようだった。
「……一刻も早く、大臣や、貴族の統率を取り戻し、体勢を立て直さなければなりません。おそらく、今の王ではもう難しい」
「それって」
「僕が、国王を今の地位から降ろします」
ヴィンセントは膝の上で強く両手を握りしめていた。
「あなたが王になるということ?」
「それはわかりません。この国がこれ以上、王政を望むのかも、定かではないのです。ですが隣国に対応するのに、一時的には、この国のために動ける、信頼できる貴族たちを束ねるつもりはあります」
そこまで止まらず言って、ヴィンセントは小さく笑った。
「この国の滅亡――もしかしたら、僕が導くものだったのかもしれませんね」
憑き物が落ちたかのような、清々しい笑みだった。
「それなら、わたしかもしれないわよ。『滅びの魔女』。だって、あなたに力を与えたのは、わたしだもの」
「では、僕も魔女です。予言では、魔女がひとりとは、言われていませんからね」
ノインは、握りしめられたヴィンセントの手を解き、自分の手と繋ぎ合わせながら、ヴィンセントと笑い合った。
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