小鳥の片翼-4
「牢番が居眠りなど、どういうことなのッ」
入り口で、叱りつける声と、それに慌てて弁明する兵士のやり取りがあったあと、王妃が牢に降りてきた。
「お前」
今度は侍女以外に誰かも引き連れてきたらしい王妃は、挨拶も前置きもなく、体を横に向けたまま、視線だけでヴィンセントを呼びつけた。
ヴィンセントの内心は、先ほど彼女が訪れたときとまったく変わっていて、冷たい牢に立つ自分の両足がしっかりと石の床を踏みしめ、体を支えているのを感じた。
「服を脱ぎなさい」
「え……?」
「早く」
苛立つ王妃が舌打ちをせんばかりに言うので、ヴィンセントはとりあえず、簡素なシャツから腕を抜き、上半身をさらした。急なことにさすがに心許なく立ち尽くしていると、王妃が彼女の後ろにいた男を顎でしゃくって、牢の前に立たせる。
「神官長……!」
会えたらと思い浮かべていた人物に、つい声が弾む。しかし王妃の目もある手前、状況が良くなったわけではないと、すぐに口を閉じて事が動くのを待った。
神官長はヴィンセントの体をちらりと見て、何かを訴えるように王妃を振り返る。
王妃は、ひどく嫌なものを見るようにヴィンセントを睨んだ。
「お前が隣国と取引をしたのでないというなら、その身で侵攻を止め、国を守りなさい」
「えっ?」
「お前には、その忌々しい魔力があるでしょう」
王妃の視線は、ヴィンセントの胸元に向いていた。そこを見下ろし、ヴィンセントは首を振る。
「僕の魔力は、生まれたときに王妃殿下が封じさせたと聞いております。それは、今もそのままです」
ヴィンセントの胸、心臓の上には、複雑な紋様が浮かび上がっている。
ヴィンセントの魔力に対する封印だ。
強大な魔力を持って生まれてきたとは聞かされたが、ヴィンセント本人としては、赤子のときからずっと封じられたままで、強い魔力を感じたことはない。
「だから神官長を連れてきたんじゃないの」
王妃は素っ気なく、神官長をぎろりと睨む。神官長は途方に暮れた声で彼女に答えた。
「王妃殿下、ヴィンセント殿下の封印は古代魔法によるものです。魔法使いでもない私に知識はなく、また、これを扱える魔法使いは、この国にもうおりません」
「文献でも何でも、調べてやりなさい」
「古代魔法の文献は残っていないのです。今となっては、わずかな魔法使いが、師から弟子へと受け継ぐのみで……」
ヴィンセントは王妃と神官長の話を聞き流しながら、胸の紋様に触れていた。
己の封印が古代魔法であったことを初めて知った。もともと、封印を解こうと思ったことはなく、関心もなかったから、ヴィンセントにとっては、自分の体にあるちょっとした痣のようなものだ。
もし、この封印を解いて、力を手にしていたら何かが違ったのだろうかと思ったのは、ノインとともにいたいという、胸が痛いほどの欲求を覚えたときだった。
「封印が解けなかったら、どうやって隣国の軍を止めるというのッ!?」
王妃の金切り声が響く。神官長が床に膝をつき、額ずく勢いでこうべを垂れた。
「恐れながら王妃殿下、今のわが国に、隣国を止める力はありますまい。民のためには、国が荒らされる前に、速やかに玉座を明け渡すほうが、まだしも……」
「国王陛下への反逆、かしら。お前の言うことは」
「殿下……」
神官長の声が落胆を帯びる。
王妃が、息子である国王を深く愛していることは、ヴィンセントにもわかる。
だが結局はその国王が、大臣たちを十分に統率できず、貴族と隣国との取引も見抜けず、国の窮地を招いたのだ。これ以上は、考慮すべきは保身ではなく、民の生活だろう。
「もういいわ、この役立たずども」
言い捨て、王妃は荒々しく牢を出て行った。
深いため息をつき、立ち上がりかけた神官長を、ヴィンセントは呼び止める。
「何用でしょう、殿下……」
疲れ切ったような彼を引き留めるのに、少しの申し訳なさを感じつつ、ヴィンセントは牢番をうかがいながら小声で尋ねた。
「今、城で信頼できるのはどなたですか?」
神官長は目を瞠り、勢いよく顔を上げる。その驚いた表情でヴィンセントを上から下まで眺め、意外そうに瞬きした。
「そのようなことに、なぜご興味を?」
「今さらと思われるかもしれませんが、できることがあるのなら、諦めたくはないのです。ですが隣国と交渉しようにも、僕には何も情報がありません」
ヴィンセントの答えを聞いた神官長は、普段はもの静かな目をこれでもかと見開き、穴が空くほどヴィンセントを凝視して、しばらく呆けていた。王妃の目をはばかり、無関心に生きてきたとはいえ、そこまで驚かれるほどとは、とさすがに反省させられる。
「神官長」
ヴィンセントが呼びかけると、彼ははっと頭を振った。
「……大臣はみな忠臣のようです。それに、五つの公爵家や、そこと繋がりの深い家。この国の平和を愛する者たちのようでした」
神官長は周囲をうかがいながら早口に言い、「しかし私も、政治に深く関わっていたわけではありませんので」とことわってから、牢番の目を気にして立ち去った。
ややあって、牢の入り口で重いものが落ちるような音がする。ヴィンセントが鉄格子の前で待っていると、ノインがまた姿を現した。
「牢番を眠らせたのですか?」
「そうよ。それよりヴィンセント、封印の紋様を見せてくれない?」
「かまいませんが……」
まだ服を脱いだままだったヴィンセントは、胸の紋様が見えやすいよう腕を体の横に下ろした。光の玉をうかべたノインが、じっとヴィンセントの胸を見つめる。彼女の左手は、胸元を握りしめていた。
「封印の、古代魔法……」
しばらくして、小さくつぶやいたノインは、ふと鉄格子の隙間からヴィンセントの肌に手を伸ばした。その指が紋様に触れ、ヴィンセントにぱちりと衝撃が走る。
「え?」
「うん……きっと、いけそう」
いったん腕を引いて、ノインがヴィンセントの顔を見上げた。
「わたしなら解けるわ」
ヴィンセントと目を合わせ、ノインの薄灰色の瞳は、意思を問うようにヴィンセントを見据える。
「『記録』の中に、古代魔法の文献もあるの。あなたの封印の記述は、文献の文法から外れていない。理論通りにやれば解ける」
「解けたとして、僕は魔法の訓練を受けていません。使える魔法は限られます」
「あなたの魔力って、どのくらい強いの?」
ヴィンセントは自分の紋様に指を添えつつ、首をかしげた。
「わかりません。僕が生まれたとき、ずいぶん驚かれたらしいとは聞いていますが」
「魔力だけでそのあたりを吹き飛ばせる程度、あればいいのだけど」
ノインの口調は気楽なものだった。期待を感じて、ヴィンセントは不安になる。
「ノイン、僕の魔力が大したことなかったら……」
「封じられるほどだもの。それなりにはあるでしょう。わたしには魔力不足で使えないけれど、強い魔法を、わたしはいくつも知っているわ。魔法式だって書ける。あなたの魔力なら、使えるかもしれない」
わかりやすい希望を口にしながら、ノインはまだ、ヴィンセントの封印を解こうとはしなかった。彼女は一歩下がり、少しだけ距離を開けて、鉄格子を挟んでヴィンセントとまっすぐに向き合う。
光の玉が、ノインの淡い金の髪をほのかに輝かせている。
おとぎ話の妖精のような光をまとって、彼女は訊いた。
「どうする、ヴィンセント」
ヴィンセントはしっかりと彼女の目を見つめ返し、うなずいた。
「お願いします。僕はもう、無力ではいたくない」
力を取り戻そうともしなかった昔とは、もう違う。
ノインとの未来を望んだときに、ヴィンセントは、力を求める気持ちを知った。そのときは願っても手に入れるすべがなかったが、今はノインとともに、すぐそこにある。
未知の力だが、ノインがいるなら、恐れはなかった。
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