小鳥の片翼-3

「逃げて? そうするくらいなら、ここに来ていないわ」


 ノインの爪がヴィンセントの手首に食い込む。痛みが、ヴィンセントにノインの存在を刻むかのようだ。


「わたしが逃げるなら、あなたも一緒に行くのよ」


 ノインの瞳が、蝋燭の灯りを受けて強くきらめく。苛烈な金に染まった目は、ヴィンセントを見据えて瞬きさえしない。

 そのまなざしをどうしようもなく愛しく思いながら、ヴィンセントは微笑み、けれど首を横に振った。


「だめです。今逃げては、王妃の追っ手がかかります。それに、国の人々を見捨てるような真似は、僕にはできません」

「このままここにいたって、あなたに何ができるの」


 図星を突かれ、ヴィンセントは目を伏せた。


「何もできなくても……、多くの国民が犠牲になるのに、僕が逃げ延びるなど……」


 ヴィンセントの手首を掴むノインの手に、いっそう力が入った。彼女の細い体のどこに、と思うほど、ヴィンセントの骨を軋ませるような強さだった。


「誰かが死ぬからといって、あなたも死ぬ道理なんてないわ」


 その手は燃えるように熱く、声音は冷たく言い放つ。


「あなたが死んだって、何にもならない。誰かが救われるわけじゃない。ただ命を無駄しようとしているのよ、あなた」


 ノインの声が震えていることに気づいて、ヴィンセントははっとした。


「あなたは生きられるのに……。死にたいの、ヴィンセント」

「いいえ……。ただ、僕は……」


 ヴィンセントが言いよどむと、ノインの、ヴィンセントの手首を掴んでいるのと反対の、ヴィンセントと緩く絡めていたほうの手にも、ぐっと力がこもる。このままでは彼女が指を傷めてしまいそうで心配なのに、振り解こうという気になれなかった。情けない顔をしていると自覚しながらノインを見返す。


「自分の生きている意味が、わからないのです。第一王子として生まれ、しかし王族の責務を果たすでもなく……。今も、国の危機がわかっているのに、何もできない」


 意味を見つけられなければ生きる意思を持てない、弱いヴィンセントに、ノインは失望しただろうか。


 けれど、ノインの手を傷めそうなほどの力は、わずかも緩むことはなかった。

 力を入れすぎて白くなった彼女の指先が心配になって見つめているうちに、ヴィンセントの口元には笑みが浮かんだ。


「……ねえ、ノイン」


 今まで生きてきて、こんなにも甘えた気持ちになるのは初めてだった。生まれてすぐ王妃に睨まれ、物心つかないうちに神殿に入れられて、ヴィンセントが甘えられる相手はいなかった。


 そして同じくらい、ノインに優しくしたい。彼女が願うならすべてを叶えて、望むとおりにして、満たしてあげたい。


「あなたは、僕に生きていてほしいと、思ってくれますか」


 ひたむきにヴィンセントを見上げていたノインの目が、ふっと半眼になった。ヴィンセントの手を締め上げていた力が少し緩む。


「いきなり、ものすごく重いものをふっかけてくるじゃない」


 気安い呆れた口調の中に、許容がうかがえた。ノインは下からじとりとヴィンセントを睨み上げ、子どものように唇を尖らせる。


「誰かに、生きる理由になってほしいときが、あるんですよ」

「ふうん。誰かってことは、誰でもいいの」

「ノイン」


 こんなときなのに、どうにもくだらないことで拗ねてしまったノインを可愛く思う一方、肝が据わっているものだと感心もする。そっぽを向いた彼女は、ヴィンセントが名を呼ぶと、素直に視線を戻した。


「子どものころ、怪我をした小鳥や、ほかの生き物を見ても、手を出すことは禁じられていたの」

「え?」

「わたしたちは旅暮らしで、命に責任を持てないから」

「……ノイン、僕は小鳥ではありません……」


 唐突な話題に、彼女が何を言いたいのか気づいたところで、ヴィンセントは情けなく眉を下げた。情けないのははじめからわかっていたが、そこまでとは思っていなかった。

 ノインが頬を緩め、ほころぶように笑う。


「あなたに、もう一度会うと決めたときから、わたし、とうに覚悟はしているのよ」


 身軽で、自由だったノイン。その彼女が、ヴィンセントの命を引き受けようとしてくれている。


 喜び。それに、彼女を自分に繋いでおく理由ができた安心感。手に入れたい欲望。


 今はまだ求められないから、激しく渦巻くような気持ちを、頃合いではないと宥める。

 生きる意味がわからないなどと言って、確かにそう思っていたのに、もう未来のことを考えている。ノインの存在ひとつでそうなる自分を笑う。


 だが、嫌な感覚ではなかった。


「ありがとう、ノイン」


 鉄格子なんて無いかのように、顔を寄せ合って微笑む。強すぎず弱くもない、心地よい力加減で手を握り、ヴィンセントは、こんな場所だというのに、どこよりも安らいだ気持ちになった。


 ジッと壁の蝋燭が音を立てる。それに我に返って、そっとノインの肩を押した。


「ノイン、隣国が攻めてきたとのことですが、やはりブレン子爵が……?」

「子爵だけじゃなかったみたい。あなたを探して城内をうろついているとき、いくつか噂や、ときには怪しいやり取りを見たわ。さすがに、お城の中では決定的な場面はなかったけれど」

「証拠は上げられますか」

「今すぐには難しいと思う。わたしが証言したって何の力もないし、お屋敷を探れば、もしかしたら」


 先ほどの王妃の発言を聞いていたノインが、不安そうに首を横に振る。ヴィンセントは鉄格子越しに彼女の髪を撫でた。


「隣国は、どれくらい?」

「大臣たちが大慌てだったから、きっと、良くないんだと思うわ。辺境伯領の防壁をなぜか簡単に突破されてしまったって、向こうには魔法使いがいるけれど、こちらにはいないって、言ってた」

「防壁は内通者なのでしょうね。魔法使いは……、力の強い者ほど逃げてゆきましたから、残っているのは神官くらいでしょうが、戦う力はほとんどありません」


 自業自得、と頭に浮かび、ヴィンセントはため息をついた。

 国防の一端を担う魔法使いの亡命に、さすがに不味いとの声もあったはずだ。しかし『魔女』への恐れのほうが上回ったのか、魔女狩りは収まらなかった。ブレン子爵やその仲間が、『魔女』への恐怖を煽ったかもしれない。


「隣国を止めることさえできれば、ブレン子爵らの内通を暴くこともできるでしょう」

「問題はどう止めるかよ。今のままじゃ、交渉の余地さえないわ。魔法使い以外の兵力は?」

「そこまで損なわれていないとは思いますが、しかし、裏切り者が潜んでいる可能性があります。ブレン子爵の息子、彼が率いる隊や、ほかに仲間がいるならそちらも……」

「……もう、国を明け渡して隣国に統治してもらったほうが、マシなんじゃない」


 ノインが呆れ果てたように肩を竦める。

 ブレン子爵や複数の貴族が国を裏切り、政治も、軍事も崩壊寸前。国が今日まで成り立ってきたのは、ひとえに今までの長い平和があって、それが惰性で続いてきたからにほかならない。


 ヴィンセントは力無くうつむきかけ、こらえて顔を上げる。


「それでも、守れるなら守りたいのです。侵略された国が良い目を見ないのは、過去の例からもわかっています」

「いったん隣国を止めても、そのあとの交渉や、このガタガタになった国を立て直す必要があるのよ。誰がそれをするの?」

「……僕が」


 竦んで強ばる喉を無理矢理開いて、ヴィンセントは声を絞り出した。


「これでも王族です。僕にはそうする責任がある。ノイン、あなたは僕と……」

「わかったわ」


 ヴィンセントが言いかけたことを、ノインは強引な割り込みで遮った。

 この先が大事なことなのに、と思って、ヴィンセントが彼女をじっと見つめて言わせてくれないかとうかがうと、ノインはふいと目を逸らして言った。


「そういうことは、もっと別のところで聞きたいの」


 思いがけない彼女の少女らしさに、ヴィンセントは胸の奥をつつかれたような甘さと、反省を同時に感じる。

 確かに今のは、動機も場所もふさわしくなかった。

 そっぽを向いてしまった彼女の耳の下に手を当ててもう一度振り向いてもらい、目を合わせる。


「今のは、聞かなかったことにしてください」

「ええ」


 ノインの望む場所を用意してあげたい。


 明日のことさえ覚束ない自分たちに、とんでもない高望みだ。だが、願いは、じんわりと胸を熱くした。


「まずは、隣国を止めないと。きっと、向こうはこちらを甘く見てる。何か、簡単には陥落しないと示せるものがあれば、転機になるかもしれないけれど……」


 立ち直りの早いノインが、ヴィンセントへと尋ねる目を向ける。ヴィンセントは眉を寄せた。


「こちらの抵抗……力を見せつければいいということですよね。しかし、軍を動かすにも、誰なら信用できるものか」


 ノインは手を胸元に置いた。目を伏せ、じっと意識を集中させているようだ。

 彼女を見下ろしながら、ヴィンセントは自分にも何か手がないかを考えていた。

 貴族にあてはない。頼れるとすれば神官長で、つねに国を思い、職務に忠実、知識も豊富な彼なら、何か策を思いつくかもしれない。だがヴィンセントがこの牢を抜け出して神官長を頼ったとして、王妃に気づかれるまでの短い間に、打開策までたどり着くのか。


 神官長にここに来てもらうことができれば。


 そんなことを思っていたとき、ノインがはっと牢の入り口のほうを振り返った。そして、その目をヴィンセントに向け、心配そうにしながら、地下牢の薄闇へ溶けるように姿を消す。

 ヴィンセントは鉄格子から少し離れ、やがて聞こえてきた足音の持ち主がやって来るのを待った。


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