邂逅の夜-2
その日、ヴィンセントは、初めて王都を離れた。
神殿から出ることさえ久しぶりだった。数名の神官と、ヴィンセントの側仕えのほかは、軍の兵士たちで構成された一行であった。
まだ十三の子どもだったヴィンセントは、なぜ自分が連れ出されたかを深く考えず、馬車の窓の外を流れる目新しい景色に、気分を高揚させていた。
「楽園」と呼ばれるにふさわしい、美しい国だと思った。
空は青く、どこまでも広く、実り豊かな畑、牧草地や、森の緑がよく映えた。
国民は温厚で、誰もがヴィンセントたちを歓迎してくれた。
たった数日間の旅だが、ヴィンセントは今でも、そのときの感情を思い出せる。
その旅の前半では、滅びの予兆を何としてでも消し、この美しい国を守らなければならないとの思いは、強く胸に刻まれた。
神殿にいて報告を聞くだけでは抱けない鮮烈な感情は、そのときのヴィンセントにとって、ひどく重要なものに思えたのだった。
数日かけて、ヴィンセントの乗る馬車は、国の南の山岳地帯にたどり着いた。山の麓には小さな村があって、わずかな人々が、細々と暮らしをいとなんでいた。
『殿下、お気をつけなさいませ』
神殿から付いてきたヴィンセントの側仕えは、馬車を降りるヴィンセントにささやいた。そのときのヴィンセントは、彼が何を示しているのかわからなかった。
夜半、軍が張った天幕で眠りについていたヴィンセントは、神殿の者ではない、ひとりの将校に起こされて、寝ぼけ眼で外へ出た。
思えば、もっと危機感を抱くべきだったのだ。
『何があるのです?』
眠気を引きずりながら尋ねたヴィンセントに、その将校が何を言ったか憶えていない。
だが彼がヴィンセントを振り返った直後、ヴィンセントの頭の横を、空気を裂いて矢が通り抜けた。ヴィンセントは何が起こったのかわかっていなかったが、将校はニヤリと笑って、夜の村中に響くほどの大声を上げた。
『殿下のお命を狙う者がいるぞ!』
各々の天幕から飛び出してきた兵士たちが松明に火を灯し、辺りはぱっと明るくなった。
そうして驚いて表に出てきた村人を、兵たちは躊躇無く斬った。血飛沫が炎を受けて、ぬらぬらと輝いて見えた。
ヴィンセントは驚き、同時に、自分か利用されたことを悟った。自分のそばにいた将校も、護衛のはずの兵士たちも恐ろしくなり、思わずその場を駆けだした。
がむしゃらに走って、気づけば誰もいない森に迷い込んでいた。村からの怒号や、炎の明かりは見聞きできていたが、そこへ戻りたくはなかった。
けれど、ヴィンセントがひとりで、どこに行くこともできはしない。
途方に暮れて立ち尽くしていたところ、目の前に突然、ひとりの少女が飛び込んできた。
『……っ』
森に駆け込んできたらしいヴィンセントと同じ年頃の少女は、こちらに気づいて息を呑んだが、ヴィンセントがぼうっと突っ立っているだけなのを見て取ると、心配そうにささやいた。
『あなた、ここに居たらいけないひとでしょう』
『僕は……、いや、あなたは……』
森の木々からこぼれる月明かりを受けた色の薄い金髪が淡く輝き、少女は頭から肩にかけて神秘的な光をまとっていた。
『わたしは行かないと。でも、あなたは戻らなければ』
『…………』
このときのヴィンセントは、衝撃で頭がぼんやりしていた。
殺されかけたのだというのはわかった。矢を射かけたのは村人ではなく、軍の者だろう。ヴィンセントを口実に村を襲うつもりで、自分を連れてきたのだ。
矢を逸らしたことを考えれば、殺すつもりではなかったかもしれないが、たぶん、死んでもいいとは思われていた。
ヴィンセントは村のあるほうへ顔を向け、震える息を吐き出した。
『戻ったら、僕は殺されてしまうかもしれません』
怖かった。妾腹に生まれたヴィンセントは、王妃に疎まれ、彼女の息子である第二王子の王位継承の妨げならないため、神殿へ追いやられた。それでも、命を狙われはしなかったのだ。
ヴィンセントが王妃にとって完全に無価値ではなかったからだが、己の立場を、これほどまで頼りなく感じたことはなかった。
『ここにいるほうが殺されるわ。だって、誰もあなたを見ていないもの』
ヴィンセントははっとして背後を振り返った。誰の姿も見えないものの、暗がりへと続く森の闇は不気味で、ぞっとさせられる。少女の言うとおり、ここには、ヴィンセントの味方をしてくれる側仕えもいないのだ。
そのとき、村の方角がいっそう明るくなった。焦げ臭いにおいも漂い始める。軍は村を焼いたのか、炎がこの森の木々に燃え移ったようだった。
『なぜ、軍は村を襲ったのでしょう』
『国に対する反逆者とみなしたのよ』
少女の声が震えているように聞こえ、ヴィンセントは彼女へと視線を向けた。少女は村のほうへ顔を向け、胸元を握りしめていた。
『わたしたちは国に刃向かったりしないわ。ただ、真実を記録するだけなのに』
少女の瞳から、ひとすじの涙がこぼれる。
それを見て、ヴィンセントはようやく、この少女が村の子どもで、ここに逃げてきたのだと気がついた。
同時に、彼女にとって、自分が憎むべき相手であることも、やっとわかった。
けれど少女は、ヴィンセントを憎しみの目で見ていない。それどころか、ヴィンセントの命の心配をしている。
『あなたにとって、僕は敵ではないのですか。なぜ、僕の身を案じてくださったのです?』
少女はヴィンセントを見つめた。涙に濡れた瞳に、頼りなさは欠片もなかった。
『あなたが何も知らないこと、すぐにわかったわ。もし、憎むべき相手がいたとしても、それはあなたじゃない。憎しみは、新たな憎しみを生むの。だから、わたしはむやみに人を憎まない』
少女のまなざしの強さに、ヴィンセントは圧倒された。
パチパチと、木が燃える音が迫ってきた。このままここにいては、火事に巻き込まれてしまう。
『……逃げないと……。あなたにとって安全な場所はありますか?』
視線を動かしても、暗い森ではろくに何も見えない。土地勘もないヴィンセントでは、彼女を導いてやることも難しい。
『殿下! どちらにいらっしゃいますか!?』
ヴィンセントを呼ぶ側仕えの声が聞こえた。少女がヴィンセントと、声の聞こえた方角を見比べ、視線でヴィンセントへ行くよう促す。
その直後、すぐそばで枝を踏む音が聞こえた。
少女がそちらへ顔を向け、さっと身を翻す。
ヴィンセントは少女に遅れて音のしたほうを見、眩しい炎に目を細めた。
『あれは……おい、こっちにひとり逃げたぞ!』
将校はヴィンセントを一瞥したものの、すぐに少女の姿を捉え、声を上げた。その隙に、ヴィンセントは従者の声がしたほうへと駆け出した。
『殿下!』
側仕えの者は、思ったよりすぐ近くにいた。彼に連れられ、あっという間に広がる炎を避けて森を出たヴィンセントは、炎が村を燃やし尽くしているのを目にした。
あの少女は無事だろうか。
最後に見た彼女は、将校の持っていた松明の炎に照らされ、淡い金の髪も、薄灰の瞳も、濃くまばゆい色に染まっていた。それは苛烈な美しさで、ヴィンセントと対峙したときの、彼女のしなやかな優しさには、似合わないと思った。
どうか逃げ延びてほしい。
ヴィンセントの祈りが通じたのかどうか、ほどなくして将校が不機嫌そうに戻ってきた。
そしてヴィンセントは、将校が挙げた『魔女』の特徴を、わずかも否定しなかった。
そのことが、多くの無辜の民を、犠牲にしている。
けれどあの少女を生贄に差し出すのも、悪魔の所行に思えた。彼女ひとりに、いったい何の罪があるというのだろう。
罪を捏造して躊躇いなく村を焼き、ひとりの少女から家族を奪ったあの将校こそ、『魔女』にふさわしい者ではないか。
国のための仕事だったのだ、といくら考えても、疑念は消えはしなかった。
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