第二話 夜更けの逃走
夜更けの逃走-1
ノインは宿に泊まるとき、ほとんど荷解きをしない。安らぐのはベッドのある宿の部屋よりも、土草の匂いを感じながら眠る野営のときだ。
幼いころからずっとそうだった。
「部屋が空いていてよかったわ」
「ですがノイン、僕と同じ部屋というのは……」
部屋に入ってさっさと荷物を置き、外套を脱ぐノインに対し、ヴィンセントはドアのそばで立ち尽くしている。
「そうするのが一番よかったのよ」
ノインひとりなら野宿も平気だが、ヴィンセントを付き合わせるわけにはいかない。
具合が悪いのかと思っていたヴィンセントは、途中で休憩を挟んだあたりから調子を戻し、日暮れのころ小さな村に着いた。生計を立てる手段は農耕が主のようだったが、街道沿いの村らしく大きめの宿が一軒あって、今晩はそこで過ごすことにした。
困ったのはヴィンセントの立場である。
ノインは夫婦と偽った。慌てるヴィンセントを新婚で恥じらいのためと宿の主人にごまかして、用意されたふたり部屋に有無を言わさず押し込んだ。
「ヴィンセント、あなた、従者にも護衛にも見えないもの」
戸惑いの視線でノインの動向をうかがっているヴィンセントに、ノインはそう理由を明かした。
ヴィンセントの言葉遣いは、上流階級のものだ。だが、言葉遣いそのもの以上に、発音のほうが誤魔化しがきかない。言葉遣いは真似できても、彼の完璧な発音は、一朝一夕には身につかず、明らかに育ちの良さ、それも相当のものであることを示していた。
「従者でも護衛でもない、男女ふたり旅なんて、夫婦でもなければ怪しまれてしまうわ」
ノインは、細かな説明はせず、それだけ言った。
「頼りなく見えるのは、わかっているつもりですが……」
ヴィンセントが情けなさそうに肩を落とす。
そういうことではない、と言うのは内心だけに留めつつ、ノインはヴィンセントを観察した。
線の細い美しい顔立ちに、力仕事とは無縁そうな細身の体。ふとした仕草は優雅で品がある。
ともすれば弱々しく感じられそうな見た目だが、柔らかくも凛としたまなざしが、彼を気高く見せていた。
彼は、アッシュグレイの長い髪を後頭部でひとつに結っていて、この国の男性としては、少し珍しい長さだ。瞳は月のような金色。
男ながら、髪を長く伸ばしても邪魔にならない身分。その瞳の色も、もうあとほんの少しでも淡ければ、この国で理想とされる『星の瞳』そのものだったろう。
夫婦だと告げたとき、宿の主人がノインとヴィンセントを見比べた。ノインは気づかないふりをしてしれっと宿帳にこれまた偽名を書き込んだが、それくらい、ヴィンセントは何もかも隠せていない。
ノインのほうが従者だと告げたとしても、従者がいる身分のくせに護衛がいないことを不審に思われそうだった。
「あなたとわたし、助けてもらって何だけれど、行きずりの仲でしょう。この街で誤解されようと、大した問題ではないわよ」
「ひと晩でも、よく知らない男性と同じ部屋で過ごすことを、あなたは気にしないのですか」
「馬小屋の隅で過ごすか、あなたと同室かだったら、わたしは後者を選ぶわ」
「馬小屋?」
なぜ、と首を傾げたヴィンセントに、ノインは予想通りだと思いつつ、床とベッドを指さした。
「ちゃんとした部屋や、ベッドは貴重なの。従者にまで用意するものはないのよ。だから、もしわたしが従者を名乗ったら、主人であるあなたの部屋しか用意されず、わたしは馬小屋でほかの従者たちと雑魚寝ね」
「従者の分まで、宿代を払えば……」
「お優しいご主人さまだけど、そんな世間知らずなことしたら、宿代をふっかけられるわよ」
ノインはそういうものだと笑ったが、ヴィンセントは不満のようだった。彼が高貴な生まれであることは間違いない。一方で、日中歩き通してもそこまで疲れていない様子や、使い込まれた旅道具を見るに、物見遊山で無謀な家出をしたお坊ちゃんでもなさそうに見える。
「ノインを馬小屋に寝かせるくらいなら、ふっかけられても払いますよ」
「ありがたいけれど、今後、もしそういうことがあっても、止めておきなさい。そういうことをする人間として、何かとカモにされるわ」
宿屋の受付は、食事処と酒場も兼ねている。どんな人間がいて、誰の耳目を引くかわからない。
「そういえばあなたの、本当の行き先はどこなの?」
「王都でした。でも……」
目的地が王都だとしたら、方向が逆だ。ヴィンセントもそれはわかっているらしく、怪訝な顔をするノインを見返して、緩く首を振ってみせた。
「急ぎではありませんし、しばらく、お供してもかまいませんか?」
「わたしに? なぜ?」
「……見聞を広めたくて、旅をしているのです。ノインとともに過ごすのは、よい学びが得られそうな気がして」
答える前、ヴィンセントは一瞬目を反らした。ノインは、その仕草に何かの含みを感じたが、追及せず、気づかないふりをした。
「一緒に来るのはかまわないけれど、わたしはあなたに気を遣わないわよ」
「もちろん。そのほうが、僕も気楽です」
「明日の朝には発つから、荷物はそのままがいいと思うわ」
それから、と、ノインは一台しかないベッドを示して言う。
「ベッドは、わたしとあなたが共用で使うの。わたしに付いてくるというなら、慣れてね」
「え……」
ぽかんとするヴィンセントを部屋に残し、ノインは階下の食堂へ、ふたりぶんのパンとスープをもらいに行った。日が暮れて、階下には酒場としての賑わいが訪れている。騒がしい注文をさばきながら、女将が大きなパンとバター、それから大皿になみなみとしたスープをトレイに載せて渡してくれた。
「お嬢ちゃんたち、新婚旅行って言うにはまた鄙びたとこへ来たもんだね」
「辺境伯領に、有名な遺跡があるでしょう。そこで愛を誓えば、一生幸せに暮らせるっていう……」
「そうなのかい? お熱いこって」
「女将さん、ベーコンや干したプラムはあるかしら」
それはこの先の旅路に必要な食糧だった。女将もこの手の注文に慣れているらしく、さっと奥に引っ込んだかと思うと、ひと塊の薫製肉とドライフルーツの袋を持って戻ってくる。
「はいよ」
ノインは宿代とは別に代金を払い、女将から受け取った食糧を麻袋に入れた。それを肩にかけ、両手でトレイを持ち上げる。
忙しそうな女将は、きっぷのよい笑顔を見せ、ノインに「ゆっくり休むんだよ」と言って別の注文を受けに行った。ノインは大皿のスープをこぼさないよう、慎重に階段を上がり、ドアの外から声をかけて、ヴィンセントに開けてもらう。
「夕飯をもらってきたわ」
「申し訳ありません、僕が行くべきでした」
「いいのよ」
ヴィンセントがトレイを受け取ろうとするのを軽くかわして、備え付けの小さなテーブルに載せる。湯気を立てるスープには、野菜がごろごろと入っていて、お腹いっぱいになりそうだ。
ノインはナイフを出し、大きなパンを何切れかにスライスした。女将が添えてくれたスープ皿にスープを取り分け、おかわりは各自で取ることにする。
「ヴィンセント、食事の量でわたしに遠慮しないでね。足りなくて、空腹で倒れられたら困るもの」
「ノインは、どのくらい召し上がりますか?」
「気にしないで。もし足りなくなったら、下にもらいに行くわ」
同世代の女性と過ごすことなどあまりないので、ノインは、自分の食事量が一般にどの程度と評されるか知らない。今テーブルにある大皿のスープをひとりで飲み干すことはないとは言える。
結局、ノインとヴィンセントはややぎこちなく、互いの距離感を計るような食事をした。ヴィンセントの「もう十分」という申告が本当なら、彼は食が細くはなく、大食漢でもないのがわかった。
「ノイン、寝床の話ですが……」
「床に寝ると言わないで。体をきちんと休めなくては、日中、動けないわ」
ヴィンセントは困り顔でベッドを見やり、またノインに戻した視線は気まずそうだった。
「宿で雑魚寝は、したことあるでしょう?」
よほどの高級宿でない限り、少なくともふたりでベッドを共用するのはよくあることだ。
ヴィンセントはためらいながらうなずいたものの、すぐその首を横に振った。
「女性とは、さすがにありませんでしたよ」
彼はベッドを気にしながらノインをちらと見、おずおずと口を開く。
「ノインは、男性と同衾したことがあるのですか?」
ノインは使う枕を軽く叩き、寝る準備を進めながら答える。
「同衾は語弊があるわね。とはいえ、わたしも男性とは無いわ」
貞操観念以前に、問題に巻き込まれたくはない。男と同室になるくらいなら、野宿を選んだほうが、魔法が使えるノインには安全だった。
けれど、魔法が使えることをうかつに明かせないから、先の村のような引き留めに遭うと、どうにも振り払いづらい。
「僕とベッドをともにするのに、ためらいはないのですか」
ノインを気遣って困り顔をするヴィンセントは、善良な青年だ。善良すぎる、とノインは思う。
「全くないと言えば嘘になるけど、背に腹は代えられないもの」
女性同士や、ひとりのときは肌着のみでベッドを使うが、ヴィンセントの手前、服を身につけたまま寝ころんだ。男性は全裸になると聞くものの、もし彼が服を脱ぎ始めたらさすがに止める。
ノインがベッドに仰向けになってヴィンセントの動向をうかがっていると、彼は、諦めたように息をついて、そろりとノインと反対側のベッドの端に腰掛けた。
「早く寝てしまいましょうよ。休息は大事よ」
「そうですね……」
腰掛けた状態から、ヴィンセントはさらに粗末なベッドさえ軋ませないほどそろそろと横たわった。
彼が掛け布を被ったのを見届けて、ノインは顔を天井に向け、目を閉じる。
そう、休息は大事なのだ。休めるときに休まなければ、今のこの世は、平穏とは言い難い。
ノインは、夜が無事に過ぎてゆくのを願った。
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