16――西川さんからのアドバイス


 達也のヘッドホンはやはり今の僕にはあまりに大きくて、みんなからもヘッドホンの存在感が強すぎるとの意見が大半だった。せっかく持ってきてもらったけど、今回はスタジオに備え付けてある有名メーカーのヘッドホンを使わせてもらうことにした。フードを被っているから、ヘッドホンと耳の間に生地が挟まる感じになっているけど普通に音は聞こえる。

 猫耳部分がヘッドホンのバンド部分に隠れてしまっていたのを伊織さんが気付いて、耳が出るように直してくれた。そこは伊織さんにとって、結構なこだわり部分だったみたいだ。


 本番前にリハーサルとして1回通して歌ってみたけど、動画撮影用のスマホの置き場所とかを修正できたからやっぱりテストって大事だね。あとコントロール・ルームの中からの視線と僕と同じくスタジオ内で動画を撮っている真奈のスマホが気になって、僕がキョロキョロと視線をあっちこっちに彷徨わせていたのもしっかり録画されていたので気をつけないと。


「優希ちゃん、視線は基本的に譜面台に固定でいいよ。リズムに乗ってきたら視線は上に、俯いていたら元気がないように見えるからね」


 西川さんが歌詞が書かれた紙が載せられた譜面台の高さを、僕の顔の高さより少し下に調整してくれた。マイクの向こうにはみんながいるコントロール・ルームが見えるので、時々そちらに視線を向ける感じでいいのかな?


「それにしても、優希ちゃんの歌声は不思議な声色だね。1/fえふぶんのいちゆらぎ的な、耳触りの良さがあるよね」


「えふ?」


 聞いたことのない言葉に、思わず僕は小首を傾げてしまう。1/fえふぶんのいちゆらぎとは簡単に言うと川のせせらぎみたいな、リラックス効果で心地よく快適に感じる音らしい。人間でも自然とそういう歌声の人が少ない割合でいるらしいけど、まさか僕がそんなすごい声の持ち主なわけがない。僕はこの声で歌を歌うのが単に好きなだけだからね。でもそういう声と同じように感じられるっていう感想はすごく嬉しい。


 カメラは真奈のスマホと、スタジオの備品であるビデオカメラで撮影することになった。ビデオカメラは達也曰く数年前のものらしいが、4Kというキレイな動画が撮れるそうで動画サイトで使う用途なら必要十分なんだとか。SDカードを入れ替えるだけで撮った動画はそのまま持ち帰ることができるんだって。


 背の高い三脚に固定されたビデオカメラで、僕を俯瞰した感じに撮影する。そして伊織さんが持っていた三脚にも変形する自撮り棒を装着した真奈のスマホで、上半身を中心に撮るらしい。大体みぞおちぐらいまでがスマホの画面に映っているので、歌っている時の表情がもしかしたらフードからチラリ映るかもね。自分の顔が映るのはちょっと恥ずかしいけど。


 せっかくスタジオを使わせてもらえるのだから、今日は作ったリストから3曲歌うことになった。当然のことながら僕が歌える曲の中から選ばれている。知っているのと歌えるには大きな溝があると思っていて、僕としては歌える曲というのはちゃんと練習して他の人に聞かせられる程度の出来に仕上がっているレパートリーだったりする。


 だからあと2曲、用意してある音源のどの曲が選ばれても大丈夫。『頑張るぞ!』と気合を入れて両手をぎゅっと胸の前で握っていると、西川さんが『あとひとつ』と追加で僕に話しかけてきた。


「優希ちゃん、胸で息をしてるでしょ」


 突然の指摘が理解できずに、思わず固まってしまう。肺って胸にあるんだから、胸で息をするのは当たり前なのでは? 疑問が表情に出ていたのか、西川さんが苦笑しながら一歩僕の方に近づいた。


「ごめんね、服の上からでいいからちょっとお腹を触らせてもらってもいい?」


「……はい、大丈夫です」


 僕が許可すると西川さんは『最近はすぐにセクハラ認定されちゃうからね』と言いながら、パーカーの上からそっと手のひらを僕のお腹に当てる。そして『ここを膨らませるつもりで息を吸ってみて』と言われたので、なんとなくイメージを浮かべて言われた通りにやってみることにした。何度か吸って吐いてを繰り返すと、どうしても肩が上下してしまう。西川さんが言うには、これが胸で呼吸をしている証拠なんだって。


「胸で息をすると肺が膨らむでしょ、その影響で肩が上がるんだよ」


 やってはみたもののいきなりはうまくできなくて、不器用な自分にちょっと落ち込んでしまう。お腹で息をするやり方は腹式呼吸というそうで、なんとなくその言葉は聞いたことがある。歌う時の利点としては胸で息をするよりも空気を体内に多く取り込めるので、途中で息を吸う回数を減らせるというのが一番大きい。ロングトーンがある楽曲でも、こっそり息を吸って歌声を途切れさせてしまうことがなくなるもんね。


 他にも腹筋が鍛えられたり、深呼吸と同じでリラックスできる効果もあるらしい。これは練習して、ちゃんとできるようになりたいな。僕がそう思っていると、現役ダンス部の奏さんが腹式呼吸の練習方法を教えてくれた。ダンスでも呼吸は大事らしくて、どうしてもダンスをしていると呼吸を止めて体を動かしがちになるので、それを防止するために腹式呼吸が効果的なのだという。


 最初はベッドに寝転んでお腹を意識しながら呼吸をすれば腹式呼吸になるので、その感覚を覚えることから始めるのがいいそうだ。今日家に帰ったら、さっそく寝る前にやってみよう。


「達也くん、そう言えばこの3曲って使用許諾は出てるのかい?」


「はい、確認済みです。せっかくこうやってプロの機材を使って録音してるのに、アカウントがBANされたらもったいないですからね」


 西川さんが達也に軽い感じで聞くと、達也が淀みなく答えた。僕には何を言ってるのかよくわからなかったけど、西川さんが納得したように頷いたので多分問題はないんだろうね。後で説明してもらったところによると、最初に真奈と一緒に相談しに行った時に達也が懸念していた曲の著作権の話なんだって。


 『使っていいよ』と著作権を持っている人から許可をもらっている曲を使用許諾楽曲と呼ぶらしく、西川さんが言っていたのはこのことらしい。つまり『ちゃんと許可の出ている曲から選んでいるのか?』という質問に、達也は『ちゃんとその中から選んでますよ、違反してアカウントを削除されたらもったいないですからね』と答えたそうだ。日本語に話しているのに理解ができないのは悔しいので、僕も専門用語を覚えるようにしようっと。


 でも確かにこうやって遠出して、みんなに付き合ってもらったのに無駄になっちゃったらもったいないよね。僕にできるのはただ一生懸命に歌うことだけなので、自分の役割をしっかりこなしてみんなにお返ししたいと思う。


 1曲目は日曜日朝の魔法少女アニメのオープニング曲、2曲目はロボットアニメのソウルフルな女性ボーカルのオープニング曲。そして3曲目は僕たちが生まれる前のゲームの曲と、リクエストが多かった曲が選ばれていた。3曲目のゲーム曲は偶然なのかはわからないけど、小学生の時に達也が僕に教えてくれた曲だった。ちなみにそのゲームをやっていたのは以前の魔法少女アニメを教えてくれた達也のお父さんで、達也にとっては車の中でいつも流れていたすごく印象深い曲なんだそうだ。


「じゃあ、本番行こうか。カメラを操作する子以外は、みんなルームに入って」


 カメラを操作すると言っても録画開始ボタンを押すだけなんだけど、その役目をしてくれる真奈以外のみんなはコントロール・ルームへと入る前に『頑張ってね』とか『リラックスしよう』とか一声掛けてくれてから移動していく。重たそうなドアがバタンと閉まった後、ガチャリとロックが掛かる音が聞こえて緊張感が高まっていく。


 録音が始まる前に真奈がスマホとビデオカメラの録画ボタンをもう押したみたいで、彼女が待機しておく場所として置いておいた椅子にそっと腰掛けるのが視界の端に見える。ルームの中で西川さんが指を順番に倒して、カウントダウンを始める。最後の指を1本折りたたんだ後でその手が振り下ろされた瞬間、僕が付けているヘッドホンからイントロが流れ出した。


 どうしても僕はクセで気分とリズムが乗ってくると、ピョンピョンと跳ねたりするらしいから気をつけないと。マイクがやたら高性能だから、それが元で起こった雑音を拾ってしまう可能性もあるみたい。歌い出しが近づいてきて、僕は耳から流れ込んでくる音に集中しながら、さっき言われたようにお腹に空気が入るように意識しながら息を吸い込んだのだった。

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