05――身繕いと次の日の朝
病院の帰りに美容院で髪を整えてもらって、下着から普段着まで結構な量の衣服を買って帰宅した。母や真奈に付き合ってもらっておいてこんなことを言うのはなんだけど、男の僕にはめちゃくちゃしんどい時間だったよ。
まず美容院ではどのくらい切るかとか、どんな髪型にするかと美容師さんに色々と質問された。僕としてはバッサリ短くして欲しかったのでそう言おうとした途端、真奈に会話をインターセプトされてあれこれと細かい指示を出された。いや、確かに僕みたいな何もわからない人間が聞きながら決めるよりはわかりやすくていいんだろうけど。なんだかないがしろにされてるみたいで悲しい。
『そういう感じでいいですか?』と最後に僕に美容師さんが確認してくれたんだけど、ほとんど理解できなかった僕としては『お、お願いします』と答えるしかなかった。一晩で一気に伸びたからか、母が整えてくれた後も長さがところどころ違っていたのでガタガタっぽかった髪も、美容師さんが整えてくれたので見苦しさはなくなった。腰よりも長かった髪が肩甲骨にかかる程度に短くなって、ちょっとだけ頭が軽くなった気がする。個人的にはもっと切ってもらってもよかったのになぁと思いつつ、楽しそうにこっちを見ている真奈の視線に負けて何も言えなかった。
実は途中から寝てしまって『できましたよ』と起こされて正面の鏡を見たら、ちゃんと女の子っぽい髪型になった僕がそこに映っていてなんか変な感じだった。目に掛かっていた前髪は眉に掛かるぐらいの長さで切りそろえられていて、見えにくかった視界が明るくなったのはよかった。頬の横から顎の近くに髪が掛かっていて、輪郭がちょっとわかりにくい。後から真奈に聞くと、この髪型は姫カットと言われるらしい。なんだろう、今の僕には最高に皮肉の効いた髪型の名前だと思った。
母からも『いいじゃない』とお褒めの言葉をもらって、次は髪がちょっと傷んでいるそうでトリートメントをしてもらった。全部の作業が終わって母が料金を支払ってくれていたけど、チラッと見えたレジの数字が1万円を超えていて思わず声を上げそうになった。髪を切ってシャンプーとトリートメントをしてもらったでそんなにかかるのか、男だったら2000円で散髪して頭も洗ってもらった挙げ句に顔のヒゲまで剃ってもらえたのに。
続いて安いけどオシャレな服が売っているお店に行って、真奈と母の着せ替え人形になった。できるだけスカートじゃなくてズボン、あとはフリルとかそういうヒラヒラなのは嫌だと希望を言ったんだけど、おしゃれ着として何着もラインナップに入ってしまった。ジーンズも買ってもらったから、こればっかり履こうかな。いや個人的にジーンズはマメに洗う派なので履けないタイミングはどうしても出てくるし、今のうちにスカートに慣れておく方がいいのかもしれない。
遅い夕食を3人で食べて、お互いの家への分かれ道でもう一回しっかりお礼を言ってから、真奈とは別れて帰宅した。なんというか疲れ果ててグッタリ状態だったんだけど、風呂に入るのも女子には細かい作法があるらしい。子供の頃以来、本当に久々に母と一緒に風呂に入って髪や体の洗い方を教えてもらった。風呂なんて長くても20分ぐらいで上がれるもののはずだったのに、1時間半も風呂場でアレやコレやさせられて眠気がとんでもない勢いで押し寄せてくる。
母が髪をドライヤーで乾かしてくれる気持ちよさも手伝って、いつの間にか寝てしまったようだ。次の日に起きたら自分の部屋のベッドに寝かされていたから、多分両親が運んでくれたんだと思う。
自分の部屋を出てキッチンに行くと、いつも通りの朝食が用意されて皿にラップが掛かっていた。その隣には冊子がいくつか積んであって、その上に母の字でメモ書きが書いてあった。
短いから要約するまでもないけど、母曰くこの冊子は通信制の高校についてのパンフレットらしい。ここには3校分あるけど、きっと他にも学校自体はあるんだろうね。昨日今通っている学校には通いたくないって言ったから、ひとまず良さげな学校を両親がピックアップしてくれたんだと思う。適当に一冊手に取ってパラパラとめくってみると、この学校は専門学校みたいな色々な科があるみたいだった。プログラムとか映像とか……あっ、歌手養成コースみたいなのもあるんだ。あとはダンスとか、スポーツとか本当に色々なことが学べる学校なんだと思う。
高校卒業資格も取得できて、歌も上手になれるなら最高だよな。もし両親が許可を出してくれるなら、ここを転校先の第一希望にしたいかもしれない。後は性的少数者への配慮が徹底されている学校と、イジメや様々な理由で学校に通えなくなった学生たちを受け入れている学校らしい。前者の学校での配慮条件に今の僕はピッタリ条件に合うんだろうけど、なんだか息苦しい生活になりそうな予感がする。
後者の学校も条件だけ見れば今の僕にはいいのかもしれないけど、僕が通っていた学校から違う学校に転校したい理由は、性別が変わる前の僕のことを知らない人たちのところに行きたいからなんだよね。別にイジメられていたわけじゃないし、不登校でもないんだからここに通う必要性はあんまり感じられなかった。
性的少数者への配慮っていうのも、どうなんだろうね。別に女の子になりたかった訳じゃないし、実際になったからって困っていることと言えば女子特有の色々が面倒くさいってだけで。今後現在の自分とこれまでの自分とのギャップに戸惑ったりするのかもしれないけど、サポートについてはその時に考えればいいんじゃないかな。
そう言えば一昨日に達也からのメッセージが届いていたんだけど、どうやら僕の喋り方が女の子っぽくなってるらしくて指摘されてびっくりした。僕としては全然そんなことは意識してないし、もちろんそんな風に話そうと思ったこともない。
それなのに達也から見るとカラオケで会った時は普段の僕っぽかったのに、途中からはまるで生まれつきの女の子と話しているのかと錯覚するぐらいだったそうだ。一人称は相変わらずの『僕』だから、冷静に対応できたと言われてちょっと微妙な気持ちになる。
別に達也に女子として見られることに違和感はあれど、嫌悪感はないと思う。でも恋愛対象だとは全然思えないのでその一線をお互いに踏み越えないために、一人称が勝手に変わらないようにこれからも『僕』でいこうと強く念じることにした。そうすればきっと達也も記憶の中にいる男の僕の姿が思い浮かんで、女子になった僕と恋愛しようなんて思わないはずだ。
なんてことを考えながら、最初の学校の学校案内の表紙にゼムクリップで『ここが第一希望』と書いたメモを挟んで、テーブルの上にわかるように置いておいた。これで両親もわかってくれるだろう。まぁ夕食の時に顔を合わせるんだから、その時に話せばいいんだけどね。
今日は外に出る予定もないし、服はこのままでいいんじゃないかな。昨日母に買ってもらった、上下揃いの薄いパジャマ。ブラジャーを付けて寝ると息苦しいので、今は付けていない。ブラジャーって長く付けてると息苦しくなるんだよね、だから今日は付けないままでいいや。男の時よりは膨らんでるけど、女子としては控えめな大きさだと思うし。実際これくらいの大きさなら、ブラジャーなんていらないのではないだろうか。
朝食を終えて洗顔と歯磨きを終えると、家にいるのは僕だけなのだから誰にも遠慮せずに歌を歌える状況だ。少し大きめの保冷タンブラーに氷とお茶を入れて、部屋へと戻る。インターネット上には誰かが作ったカラオケ動画が、本当にたくさん存在している。好きな曲のカラオケ動画をお気に入りリストへ次々に登録して、準備完了。
「よーし、それじゃあ思う存分歌いますか」
いきなり歌って喉を痛めたら大変なので、慎重に発声練習をしておく。いい感じに喉が温まったのを感じつつ、『ここからはノンストップだ!』と大量の動画を登録したリストの再生ボタンを押すのだった。
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