第2話 雪解けの追憶

 三年前の師走、上高地は例年にないほど厳しい冬嵐に襲われた。それと同時に、私の心もまた、その冬嵐のように冷厳な訃報に打ちのめされた。年の瀬が迫る中、私は心の灯を失い、最愛の祐介をこの世から手放した。


 彼の突然の死から時は流れ、季節は何度も変わるが、その悲しみは色あせることなく、今も私の心に深く刻まれている。


 初夏が訪れ、北アルプスの雪が溶け始めると、祐介の月命日が毎年爽やかな風音とともに巡ってくる。ひとりでは冬山は恐ろしくて訪れることはできないが、この季節ならば彼の魂が永遠に眠る穂高連峰の頂上までたどり着けるのだ。


 祐介と過ごした数々の思い出が息づくこの地を、彼との喜びを噛みしめながらゆっくりと歩む。


 道すがら、雪解け水が清流を描き、水芭蕉が純白の花を咲かせる風景の中で、彼の優しい笑顔が目に浮かぶ。かつて祐介が水芭蕉の花びらを守る『仏炎苞(ぶつえんほう)』に気づいた時、彼からプロポーズされたことを思い出す。


「これって……花嫁の顔を覆う白無垢の綿帽子に似ているね。一刻も早く真理の花嫁姿を見たいな」と。


 祐介は、自然の中で息づくすべての美しさに心を寄せる、こよなく優しい男性でした。彼は、北アルプスの雄大な山脈が創り出す壮観な景色を愛し、その頂までの登山道や静かな池のほとりに咲く草花にまで精通していました。私は、そんな彼の優しさと自然への深い愛情に強く惹かれていました。



 ♪


 今回の登山は、時が経っても癒えない喪失感と、彼と過ごした日々への切ない思いを胸に秘めた、静かな懺悔の旅となる。私は西穂高岳へと続く稜線に立ち、魔物が棲むと伝わる龍神岩のジャンダルム*¹を前にしている。


 涙を浮かべながら、眼下にゆっくりと流れる雲海を眺めては、祐介に「なぜ死んでしまったの……」と問いかける。


 凍えるような木枯らしが吹きすさぶ日、彼はこの近くの稜線で、突然の落石により命を落としたという。一方で彼と同行していた山仲間の蒼真は怪我ひとつせず生還した。その冷酷な知らせが私に届いた時の衝撃は、「山好きな者に悪人はいない」と信じていた祐介の死に疑念を抱かせた。


 昨年の師走、祐介の冥福を祈る法要を終えた私は、今回で三度目となる懺悔のための登山に挑んでいる。


 魔物が棲むと伝わる龍神岩のジャンダルムを前にし、ゆっくりと流れる雲海を眺めていると、冷たい風が頬を撫で、忘却の彼方に捨て去った蒼真の記憶が蘇る。


 祐介が亡くなった瞬間を見届けた、あの蒼真が不敵な笑みを浮かべながら声をかけてきた時のことを思い出した。人の心の中までは覗けないが、彼の笑みは、まるで私の心の深い傷跡をえぐるかのように感じられた。


「真理、祐介のことはもう忘れてしまったらどうだろう。彼はもうこの世にはいないんだから。今度、ふたりで西穂高に登ってみないか?」と彼は言った。その言葉は私には愛の告白のように響いた。


 蒼真から告白を受けたが、私の心はまだ彼の誘いから遠く離れており、即座に断った。亡くなった祐介のことが気になり、新しい恋に心を開く準備ができていなかったのだ。いや、正直な思いはそうではなかったかもしれない。


 恋とか愛とかの甘いことではなく、祐介を死に追いやった犯人に対する復讐心と怒りが渦巻いていた。祐介の死を冬山での落石が原因だと証言した蒼真に対して、私は殺人鬼としての疑いすら抱いていた。もちろん、確たる証拠などはなかったが……。


 蒼真の証言の通り、彼らが縦走していた厳冬期の穂高は吹雪が荒れ狂い、祐介が落石を避けようとして稜線から滑落したのかもしれない。真相は冬山の混沌とする闇に覆われており、まだ謎を解く光は見えていなかった。


 最近はそんな謎めいたことばかり考えてしまい、酒に溺れる日々を送っている。自分でも理解できないほど、祐介のことが忘れられないのだ。混沌とした思いの中でも祐介への愛は続いており、私の命を賭してさえ彼の無念を晴らしてやりたいのだ。


 ♪


 私の名前は鈴木真理。東京の神田にある小さな出版社で働く、ごく普通の女性である。祐介とは大学時代に出会い、三年間の交際を経て、卒業と同時に新しい人生を歩むはずだった。彼の死の直前には、私と祐介、そして蒼真の三人は卒業記念の奥穂高への山旅を計画していた。


 しかし、運命は私と祐介を引き裂いた。母が突然の病に襲われ、私は初めて経験する冬山への冒険の旅を断念せざるを得なかった。愛する祐介と親友の蒼真だけが、約束の地へと旅立った。


 祐介との結婚を夢見ていた私にとって、彼がこの穂高で亡くなった事実は、今でも受け入れがたいトラウマとなっている。


 祐介と蒼真は、表面上は仲の良い友人のように見えたが、時には激しい言い争いをする姿が目に留まった。その理由は私には明かされなかったが、何か深い謎があるように感じていた。


 蒼真との関係については、今も不明な点が多い。彼らの間に何があったのか、真実は謎の闇に埋もれたままだ。しかし、私は知る必要がある。知る権利があるのだ。なぜなら、私は祐介のフィアンセなのだから……。祐介の死には、きっと何かがある。その謎を解き明かす手がかりが、どこかにあるはずだ。そう思うと、このままじっとはしていられず、胸が締め付けられた。


 私は再び歩き始める。祐介が最後に歩いたであろうこの山道を、彼の足跡をたどりながら、死の真相を探る旅は続く。そして、いつの日か、真実にたどり着けることを信じている。その日まで、止まることなく、何度でも上高地の神々しい自然の中を歩き続けると、心に深く刻んでいる。



 脚注(山岳用語)

 ――――――――――

 1. ジャンダルムは、奥穂高岳のそばに位置するドーム型の岩稜です。その名称はスイス・アルプス山脈のアイガーにある垂直の絶壁に由来します。奥穂高岳の前衛峰として名付けられたこの岩稜は、登山者にとって非常に挑戦的なルートです。


 また、岩稜の北側には「ロバの耳」や「馬ノ背」と呼ばれる急峻な痩せ尾根の難所が続きます。これらの地形は、勇気ある登山者にとって大きな挑戦の場であるとともに、魅力的なものとなっています。


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