第1話 上高地の神秘

 季節が移ろうごとに、上高地はいにしえの時代から神々が棲む聖地とされ、その自然が織りなす静寂と美しさは都会の喧騒を忘れさせる。澄んだ空気の中、訪れる人々は心の奥底から癒されるのを感じる。


 色とりどりのテントが集う涸沢カール*¹から望む穂高連峰、その先にそびえる勇壮な槍ヶ岳へと続く北アルプスの玄関口。この聖地は、古き良き自然の姿を今に伝えている。穢れを知らない星の煌めきは、訪れる者の魂に深い感動を刻み込む。


 さらに、上高地は曇りひとつない鏡のように澄んだ『明鏡止水』をたたえる池に囲まれた聖地でもあり、いくつもの神秘的な謎に包まれている。今日では、岩壁への登山者だけでなく、世界中から集う夢追い人たちが、一生に一度はこの地を訪れることを目指しているという。


 朝焼けがピンク色からオレンジ色、そして黄色へと、美しい詩のように空を染めるその瞬間、上高地の世界は一変する。金色の光が北アルプスの山々を包み込み、霧が幻想的なベールを纏う。新たな一日の始まりを告げるその光景は、まるで神々が祝福を与えているかのようだ。


 初夏の朝焼けの空の下、霧が幻想的な輝きを放つ河童橋を渡り終えると、神々しい池が点在する風景が広がる。遥か昔に河童が戯れたとされるこの吊り橋は、伝説を今に語り継いでいるかのようだ。時代を超えた伝説が息づく上高地は、訪れる人々にとって、異世界への扉を開ける秘境の里となる。


 しかし、この異世界に潜む神々が一度怒りを露わにすれば、自然の力は容赦なく、人々に想像を絶する災いをもたらすことがある。


 私にとって上高地は、ふたつとない神聖な秘境でありながら、どこまでも深い悲しみを秘めた場所でもあるのだ。



 ♪


 昨日、黎明の朝日が昇る前、ほのかな光を友として河童橋を渡り、異世界への扉を開いた。この地には初夏の風物詩として、霧が神聖なる地を覆い尽くす瞬間がある。私はまさに今、その刹那を涙とともに深く心に刻んでいる。


 朝日が霧を金色に染め上げ、涼やかな風が頬を優しく撫で、木漏れ日が足元を温かく照らし出す。どこからともなく聞こえる蝉時雨が心地よい旋律を奏で、朝露に濡れたカラマツの葉が生命の息吹を伝えてくる。


 その一方で、足元に散る木の葉を踏む乾いた音が、心の奥底に潜む孤独の感覚を刺激する。奥穂高岳へと向かう私は、慌てることなく、時の流れに身を任せ、山道をゆっくりと歩み続けた。


 ふと足元を見ると、教会の釣り鐘を模したようなホタルブクロの花が一輪だけ咲いており、その濃紫色の愛らしさと寂しげな美しさに心を打たれた。


 夕暮れ時を迎えると、歴史を刻む丸太小屋の山荘に佇みながら、光り輝く星に手が届きそうな空の下で一夜を過ごす。この旅はただの物見遊山ではない。冷たい風が初夏の空を切り裂き、失われたこよなく愛する友、祐介の笑顔と声を探し続ける。


 今、丸太小屋の赤い屋根が私の歩みとともに小さくなり、昨夜の安らぎは遠い記憶となる。空に向かって叫ぶ声は、風に運ばれて消えていく。


「祐介、聞いているかい? 今年もこうしてやって来たよ。ひとりで逝かせてしまって、本当にごめんなさい」


 私の心は、彼が最後に見たであろう雲海の美しさや北アルプスの荘厳さにも慰めを見いだせず、祐介が愛したこの大自然は、彼を奪い去った犯人のように思えてならない。それでも、私はここに来るたびに、彼との思い出をたどり、彼の存在を知り得る唯一の聖地だと感じる。 



 脚注(山岳用語)

 ――――――――――

 1. 涸沢カールは、氷河の侵食作用によって山肌がスプーンで抉り取られたようなお椀型の地形をした渓谷です。標高は2300メートルに広がり、最高点は標高3190メートルの奥穂高岳です。


 この地域は穂高岳への登山の中心地で、夏には色とりどりのテントが並びます。紅葉の名所としても有名で、秋には赤やオレンジ、黄色に染まる絶景が広がります。星空を眺めながらカールで過ごす一夜は、登山者にとって憧れのひとときです。

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