第9話 壁を越えて
一
――僕の目の前に広がったのは、漆黒よりも濃い闇だった。
まるで少しでも心に隙を見せれば、体の芯から侵食されてしまいそうな闇だった。
本能が告げた。
この暗闇は、危険だと。
しかし僕は先に進まなければいけない。
この先に僕の求めていた答えがある。
絶対に辿り着かなければいけないんだ……!
しばらく足を進めたときだった。
「……リリアン! ……リリアン!」
声がする。アリーサさんの声だ。
僕は幻聴でも聞いているのだろうか。だけどそれは確かにアリーサさんの声だった。
やがて闇が薄まり、淡い光が広がっていく。
僕は足を止めた。
そこに現れたのは、やはり幼き日のリリアンとアリーサさんだった。
ここはどこだろう。二人の背後には垂直な崖が切り立っていた。
リリアンは全身生傷だらけで、意識を失っていた。しかし、出血は止まっている。
傷口を覆うように光の束が纏わりついていた。それはとても淡い輝きを放っていた。
アリーサさんは心底リリアンを心配するように必死にリリアンの名前を呼んでいた。
どれぐらい時間が経っただろう。うっすらとリリアンの目が開いた。
「お姉ちゃん……」
掠れた声でリリアンが言った。
「……リリアン……良かった」
アリーサさんはリリアンの体を抱きしめた。壊れてしまいそうなぐらい強く抱きしめた。
「……もう、どうしてこんな無茶をしたの?」
リリアンはおもむろに言葉を紡ぐ。
「……足を滑らせちゃったの」
アリーサさんは優しくリリアンの頭を撫でる。
「嘘だよね?」
「……嘘じゃないっ。あたしは本当に――」
アリーサさんは優しくリリアンの体を抱きしめた、
リリアンは言葉を失ってしまったようだった。
だけど、とても心地良さそうだった。まるで母猫に抱かれて目を細める子猫のように。
やがてリリアンは押し殺すような声で言葉を紡ぎ始めた。
「……あたし、おっちょこちょいなの。……いつもドジばっか。だから御子になるなんて言わないでよ! ずっとあたしの傍にいてよ……」
そしてリリアンは、アリーサさんの胸の中で嗚咽を始めた。
泣いているのだろう。
そして、淡い光は萎むように途絶えていって、再び濃い闇が広がった。
僕は幻でも見ていたのだろうか?
改めて僕は思う。この暗闇は、ただの暗闇ではないと。
しかし先に進む以外の道はない。
再び僕は歩み始める。
――どれぐらい時間が過ぎただろうか。
もはや闇の中を進んでいるという感覚すらなくなってきた。
まるで無限に広がる虚無の中を漂っているような感じで……。
僕一人だけ虚無の中に取り残されてしまった感じで……。
虚無……。取り残される……。
僕は、はっとした。
この感覚、かつて僕が体験したものと全く同じものだ。
僕が落ちた井戸の中。その中に広がっていた漆黒の闇。
あのとき、僕は自力で抜け出すことができなかった。
アリーサさんに引き上げてもらうまで、延々と助けを求めて鳴き続けていた。
干上がってしまっていた井戸。
水も食べ物もない、あるのは絶望だけ。
あのとき、アリーサさんが現れて、ランタンの灯りを僕に向けたとき、まるで天から差し込んだ光明のように思った。
あのときは、ただじっと待っているだけで、助けてもらうことができた。
でも今は違う。待っているだけじゃだめなんだ。自力で光を掴みに行かないと――!
◇◇◇
同刻。
リリアンとシャルロットは互いに無言のまま、ソラの下りていった階段を見つめていた。
「戻ってくる気配はなさそうですね」
シャルロットが、ふと切り出した。
リリアンも同じ思いだった。
「よし。じゃ、あたしたちも行こっか。あいつらを蹴散らしにね」
扉を叩きつける轟音は激しくなる。きっとあと少しで破壊されてしまうだろう。
踵を返す。
しかしシャルロットがついてくる様子はない。
「……どうしたの?」
シャルロットは気味が悪そうに辺りを見渡している。
「なんか、この場所、変じゃないですか。なんていうか、気持ちがざわざわするんです……。うまく言葉にはできないのですが……とても奇妙です」
シャルロットの言おうとしていることはよく分かる。
自分も初めてアリーサにここに連れられてきたときに、まったく同じ感覚を覚えた。
「ここは、そういう場所なのよ。……彼女たちは決して死んでなんかいないわ」
シャルロットは押し黙ってしまった。
「あたしはよくアリーサから言い聞かされていたわ。もしこれから先、迷うことがあったらここに来なさいって。そうしたら、自ずと道は拓けるってね」
「ようするに、それは彼女たちが導いてくれるということでしょうか?」
「違うわ。今、自分に欠けているものは何なのかを教えてくれるのよ」
リリアンは遠い眼差しをしていた。まるで過ぎ去ってしまった過去に想いを馳せるように。
そしてそっと告げる
「補うことは自分にしかできないわ」
「リリアンは、補うことができたのですか?」
「ふふ……」
リリアンは下を向いて、微笑した。そして、おもむろに顔を上げると、精悍な眼差しでシャルロットを見つめた。
「あたしの目を見れば分かるでしょ?」
そして扉の方へと向き直る。
「シャルロット、あんたはここで待ってなさい」
「……いいのですか? あたくしのせいで……。あたくしがおとなしく投降すれば――」
「そこっ! 自分を責めないっ!」
リリアンはシャルロットを指さした。
「あたしたちは家族よ。家族なんだから迷惑かけあって当然でしょ?」
「……あたくしは家族なんかじゃありません。だって、あたくしは……二人の優しさに恐れを成して、逃げてしまいましたし……」
「戻ってきた”家出娘”を保護するのは親の役目でしょ?」
「…………」
シャルロットは何も言い返せない。
「じゃあ、ちょっくらあいつら蹴散らしてくるから。それまでここでおとなしくしてなさい」
リリアンは短刀を手に、歩いていく。
その一歩、一歩に、ただならぬ決意を踏みしめながら。
「待ってください!」
リリアンは足を止める。
「あたくしも行きます!!」
「相手は武器を持った人間よ?」
振り返らず、リリアンは言う。
「それでもあたくしは戦わなければいけないのです! ……これは、あたくしの過去と決別するための戦い。"紅の牙"の胆力、存分に発揮させていただく所存です!」
二
暗闇の通路を走り抜けているうちに、だんだんと暗闇に目が慣れてきた。
やがてここから先、道が途切れていることに気づいた。
気の遠くなるような垂直な壁が立ちはだかっていたのだった。
遥か頭上には一条の光が見える。
――つまり、これを超えていくしかない。
僕は何度も爪を立てて、壁をよじ登ろうと試みる。
「うぅ……っ!」
まったくといっていいほど歯が立たない。
爪の付け根からは血が滲み出て、僕の頬へと滴り落ちてくる。
「あぁ……!」
――転落。
背中から地面に叩きつけられる。
何度やっても結果は同じだった。
やはり僕にこの壁を越えることはできないのか――。
◇◇◇
「どうりゃーーーー!!」
リリアンは正面から出て行かず、螺旋階段を登り、3階相当の高さの小窓から飛び出していった。
5名の騎士を巻き込みながら着地する。
残るは15名。
「馬鹿な!? 10メートルはあるぞ!?」
一連の光景を目の当たりにしていた騎士の一人が、ぞっとして呟いた。
「ふんっ! あたしが何年盗賊やってきたと思ってんのよ。まだ17の小娘だからって馬鹿にすんな!」
リリアンは短刀を振り回す。
当然15名の騎士たちも黙っちゃいない。
構えた長槍でリリアンを串刺しにするべく上から下から、右から左から、目にも止まらぬ神速で無数の突きが繰り出されていく。
リリアンはそれらの攻撃を軽い身のこなしでかわしていく。
こんなのは序の口だ。
今まで数え切れないくらいの山賊を潰してきたし、三隻の海賊船と同時にやり合ったことだってある。
まあ、でもそれらのときは事前にしかけておいた爆発物で木っ端微塵に蹴散らしたわけだけど。
今回はちょっと分が悪そうだ。
今から爆発物を取り出している余裕はないし、仮にそうしたところで、多くの一般人を巻き添えにしてしまうだろう。
そう、辺りは野次馬だらけだ。
これまでのように唐辛子爆撃を用いることもできない。相手は兜を被っているから無意味だ。
王城に常駐している王国兵も騎士団も手出しする隙がなく、傍観せざるをえない激しい戦い――。
リリアンにはこれらの連撃を避けるのが精一杯で、わずかな隙を見計らっては反撃に転ずる。
ちょうど今、一人の鼻っ柱を峰打ちし気絶させたところだ。
リリアンの上着は破れ、無数の傷が刻まれていた。
……ちょっとペースが遅いかな。多少傷が増えてもペースを上げていかないと……。
そろそろ頃合いだろう。
リリアンは振り返って、二階の窓を一瞥する。
と同時に、シャルロットがそこから飛び降りてきた。
全身の毛を逆立て、目をかっ開き、牙を剥き出しにして。
「……ど、どうしてお嬢様が……ぐぁっ!!」
シャルロットは騎士の首に噛み付いた。
そう、ここまでが作戦だった。
まずはリリアンが出て行って敵の頭数を減らす。そしてサプライズとしてシャルロットが加勢に入り、一気にカタをつける算段だった。
敵にしてみれば奪還対象であるシャルロットには迂闊に手を出せない。その隙をついて、リリアンは騎士を次から次へと仕留めていく。
……積み上がった大量の気絶した騎士の山。
――19人。
その頂にリリアンは立っていた。
全身血塗れだ。身体中を駆けめぐる激痛も、もはや感覚がなくなって、むしろ心地良ささえ感じる。
「残るはアンタ、一人だけね」
リリアンが指さしたのは、この一団を率いていた大男。
確か名前はヴァルガスと呼ばれていたっけ。
こいつの小判鮫のシュレイとかいうノッポは今、リリアンの足の真下だ。
「ぐっ……!」
ヴァルガスは奥歯を噛みしめる。
まさかこんな小娘ごときにここまで肉薄されるとは思ってもいなかったのだろう。
「こらあああ! こんな日に、こんなところでドンパチはやめろーー!」
王城を護る衛兵たちがこちらに向かって叫んだ。いや、さきほどから何度も叫んでいたのだろうが、聞こえていなかったのだろう。
「ゴメンゴメン。あと3分で片づけるからさ」
リリアンはあっけらかんと答える。
「さて、始めよっか! もうあたしも時間ないし! 儀式始まっちゃうし! さ、早く早く、カモンっ!」
リリアンは山から飛び降りると、挑発するように、くいくいと手招きする。
「……クソが。馬鹿にしやがって……。……うおらあああああああ!!」
絶え間なく繰り出される突きの連続。
リリアンはそれをかわしながら、反撃の隙を窺う。
「(……まずい、こいつ、あたしと同じくらい強い)」
二人の戦いをシャルロットは、やや離れたところから見守っていた。
「この周囲から匂いを感じます……。これはかつての主、ドメニコス……」
「テメエのようなメスガキが、オレを越えられるはずがねえだろ?」
「さぁ、それはどうかしら?」
ふと、ソラのことを思う。
そろそろ”壁”は越えられただろうか?
かつて通り抜けた者として、あの壁はなかなか手強い。
もしかして今もまだ手こずっているかもしれない。
……でも、きっとソラなら越えていけると思う。
もうソラは今までのソラとは違う。あたしと一緒に激動の七日間を過ごして、獲物の取り方を覚えて、たまには同じご飯も食べて、時には喧嘩もして、ついには家出までして、ここまで辿り着いたのだから。
ソラには、あの壁を越えていける底力が備わっている。
「あのなぁ、世の中には越えられねえものもあるんだよ。たとえば、オレのようにな」
「ぷっ……!」
リリアンは吹き出す。
「あたしがあんたにとっての”壁”ということでいいのかな?」
絶句するヴァルガス。
「んだとぉ? ぅおらああああああ!」
ヴァルガスはその巨体をわなわなと揺るがし、頭上で長槍を振り回しながら、地面を力強く踏みつけた。
「冗談よ、冗談っ!」
リリアンは、けらけらと笑う。
「……でも越えなければいけないのは、生憎なことにあたしじゃない」
リリアンは一歩踏み出すと男の兜をもぎ取り、宙に放り投げた。そしてシャルロットに目配せを送る。
「この子なのよね!」
シャルロットはヴァルガスめがけて飛びかかると、その鉤爪をむき出しにして、ヴァルガスの顔をひっかいた。
「ぐああああぁぁぁ!!」
ヴァルガスは背中を仰け反らせ、仰臥する。
即座にリリアンはヴァルガスの鳩尾に、拳を叩き込んだ。
ヴァルガスは口から泡を吹きながら、白目を剥いた。
「よし、殲滅完了!」
リリアンはガッポーズを決める。野次馬たちから拍手が湧き起こった。
しかしシャルロットは相好を崩そうとしない。その目つきは依然として険しい。
「……いえ、まだ終わっていません。本当の壁は……」
「……え?」
一人の男が近づいてきた。
その顔を見て、思わずリリアンは刮目した。
こいつは……ドメニコスだ。
肩の上でくるりとカールした白髪頭。やや小太りではあるが気品漂う風貌。
「こんなところにいたのかぁ、シャルロット。さあ、私と共に帰るのだ」
諭すようにドメニコスは言う。
「……嫌です」
「何が不満なんだ? 言ってみい? 欲しいものがあれば何だって買い与えてよう」
「あたくしには、会わなければいけない人がいます。あたくしを生み育ててくれた母君です」
「そうか……そういうことか……。おい、貴様ら!」
ドメニコスが声を張り上げると、目を回していた騎士たちがよれよれと立ち上がろうとする。
「その母君とやらを見つけ出せ! そして、殺すのだ!」
「今、何と……っ!」
「分かってくれよ、シャルロット……君にとっての親は、この私だけなのだよ……」
そのときだった。シャルロットの目が、かっと見開いた。全身の毛を逆立て、ドメニコスを睨みつける。そしてーー。
「ぐはあぁぁぁぁぁっっっ!!」
シャルロットは飛びかかっていって、ドメニコスの喉を裂いた。
ドメニコスはその場でもがき苦しみ、のたうちまわる。血飛沫が噴水のように辺りに撒き散らされ、やがて白目を剥いて、絶命した。
辺りは、しんと静まり返る。
「こいつ、主人を殺しやがった……」
騎士の一人が呟いた。
「なんだよ、このネコ!」「人食いネコだ!」「ひっ捕らえろ!」
「そうはいかないわ」
リリアンの放った回し蹴りが騎士を薙ぎ倒す。
そして、シャルロットを見て、一言。
「主殺し。人間世界なら、極刑ものね」
リリアンは、ふっと笑う。
「超えちゃいました。あたくしの"壁"」
シャルロットは、しみじみとして、そう言った。
そして、血に染まったその鉤爪を見つめながら、
「あたくしは、ついに来るところまで来てしまいました。こうなったら、とことん突き進むのみです。"紅の牙"として」
シャルロットは凛とした眼差しで、その決意を告げた。
リリアンは頷く。
「さて、行くよ。ソラとアリーサの結末を、見届けるために」
「……はいっ!」
三
何度も何度も爪を立て、壁をよじ登ろうと試みる。
でも、できない。
吸い込まれるようにして、下へと落ちてしまう。
爪は割れ、体のあちこちが紫色に変色していた。
結局、僕には超えることはできないのか。
あのとき、井戸に落ちた僕が為すすべもなく、一人泣いていたように。
――そう、しょせん僕なんか、ここまでの器。
たかがネコ一匹が、世界の命運に干渉しようなんて、おこがましかったんだ――。
諦めかけたときだった。
淡い光が目の前に広がっていった。
僕は満身創痍の体でどうにか正気を保ちながら、目を凝らす。
「……お願いします! どうかこの子を、うちで飼うことを許してください!」
ここはきっと王城の内部だろう。
アリーサさんの前には、年配の貫禄のある女性が立っていた。
いや、違う。今この場にいるのはこの二人だけじゃない。
アリーサさんはその手の平に、小さな子猫を乗せていた。
……僕だ。
「いけません! 貴女は近い将来、病で苦しむ方々のために身を捧げるお方。そのとき、残されるこの子はどうするのですか? 飼い主に先立たれる側の気持ちも考えなさい! 何事もなかったように野生に返してあげるのが優しさというものです!」
「野生に返すには、あまりにも小さすぎます! 独りで餌を取ることもできません! もしカラスに目をつけられたら逃げることもできません!」
アリーサさんは必死に訴えた。
「……どうかわたしがいなくなってしまった後は、城で飼っていただくわけにはいけませんか?」
「なりません。フェーデル殿下が大の動物嫌いであることは知っているでしょう? 動物を飼ってはいけないと各家庭にも徹底されているほどです。貴女だけ例外を認めるわけにはいきません!」
「でしたら、わたしがいなくても、外の世界で生きていけるような強いネコに育てますから……!
だから、どうか、お願いです! この子と――ソラと一緒にいさせてください!」
僕の胸がざわざわと震えた。
僕は何を知ろうとしているのだろう。
目も耳も塞げば、僕は何も知らずにいることができる。
でも、目を背けるわけにはいかなかった。
そう、僕は知らなければいけないのだ。
「……分かりました。そこまで言うのでしたら認めましょう。ですが貴女がしようとしていることは、もしかしたらとても残酷なことなのかもしれませんよ」
「……そうなのかもしれません。リリアンのように、いつかこの子もわたしを恨むかもしれません。でも私は信じてみたいと思います」
アリーサさんは僕の背中を優しく撫でた。
「――この子の内なる強さを」
そして、僕を包み込んでいた淡い光は弾けるようにして消えた。
気がつけば僕の瞳から涙が溢れていて、頬をつたって足元に落ちた。
そう、僕は知ってしまったのだ。
決して知りたくなかった、一つの”真実”を。
庇護されていた時代は、もう終わりなんだということを。
ここから先は自分の足で歩いていかなければいけないということを――。
「確かに、あまりにも残酷すぎるよ、アリーサさん……」
あの頃は、いつまでもこの時間が続くと思っていた。
外の世界に憧れる一方で、アリーサさんとの幸せな時間がいつか終わりを迎えてしまうなんて、夢にも思わなかった。
「……うぅ……あぁ……うあああああああああああああぁぁぁ!!!!!」
僕は吼えた。
喉が引き裂かれそうなほどの大声で吼えた。
僕は目の前にそびえる壁を見上げる。
「……アリーサさん。待っててね。絶対に……絶対に、辿り着いてみせるから……!」
僕は地面を踏みしめると、壁に爪を立てた。
この壁は僕が越えなければいけない壁だ。
いや、僕にしか越えることのできない壁なんだ。
右脚の爪は剥がれ落ち、やがて痛いという感覚さえもなくなってきた。
好都合だ。
これ精一杯、もがくことができる。
何度も何度も爪あとを刻みつけ――。
やがて、爆発するように光が広がっていった。
「ここは……」
僕は辺りを見渡す。
紛れもない現実の世界だった。
空は黄金色の雲が蠢いている。
リリアンの言う通り、僕の目の前には御座へと至る階段が伸びていた。
この先に、アリーサさんはいるのだろう。
ここを上れば、僕は辿り着いてしまう。
アリーサさんとの幸せな時間は終わりを迎えてしまう。
それでも僕は行かなければいけないんだ。
最後に一言、告げたいことがあるから。
――そのために僕は進む!
一段一段を踏みしめるように上っていく。
頂には、アリーサさんがいた。
ずっと、ずっと追い求めてきた人。
アリーサさんは見たことのない白銀の衣装を身に纏い、神に祈りを捧げていた。
足元には一本のロッドが置かれている。
「アリーサさん!」
僕は声を振り絞って呼びかける。
アリーサさんは、おもむろに顔をこちらに向けた。
「……来てしまったんだね、ソラ」
いつもの優しい眼差しだった。
「……これが、アリーサさんの意志なの?」
アリーサさんは表情を変える。
「ごめんね。――でも、決して譲ることのできないわたしの誇りよ」
アリーサさんの瞳の奥には、一抹の決意が宿っていた。
「最後まで心配かけちゃってだめな主だね……もしかしたらソラはわたし以外の人に拾われていた方が幸せだったのかもしれないね……」
「違うよ! 僕はアリーサさんに育てられて良かった! 最高に幸せだったよ!」
「……ありがとう。そう言ってくれて、本当に嬉しいわ」
アリーサさんは目を瞑り、足元に置かれたロッドを手に取ると、再び祈りを始めた。
きっとこのロッドこそが神と通じるために必要な神具なのだろう。
もし今、僕がそれを奪い取ればアリーサさんを救うことができる。
ずっと、ずっと、アリーサさんと一緒にいることができる。
空がごろごろと音を鳴らして、蠢き始める。
雲をかきわけ、光柱がアリーサさんに向かって下りてくる。
いよいよ運命の時だ。
行動を起こすとしたら今しかない。今このときを逃してしまえば、二度と、そう、二度と、アリーサさんを取り戻すことはできない。
アリーサさんが思い出になってしまう。
今見ている、感じている、アリーサさんの顔、声、匂い……全てが思い出として刻まれることになってしまう……!
嫌だ……そんなの嫌だ……!
でも、僕は、こみ上げる感情の全てを押し殺した。
この世の摂理に抗うならいくらだってやってやるけど、アリーサさんの想いには抗えない――それが僕の出した結論だった。
そう、アリーサさんが僕に込めた想いを、僕は知ってしまったのだから――。
「……ソラ」
アリーサさんは目を開けた。
これが最期のひとときだというのに、穏やかな眼差しだった。
光の柱は、アリーサさんの真上まで迫っている。
「最期に一つだけ、わたしのお願い、聞いてほしいの」
そう言って、いつも僕にしてくれていたように微笑んだ。
「どうかこれからは、勇敢なネコでありなさい」
僕は魂の限りに叫んだ。
「うん……なるよ! ……なってみせるよ! 世界一勇敢なネコに!」
◇◇◇
光が広がっていく。
祭壇の前に集まった人たちを包み込み、そして拡散していく。
山を越え、海を越え、陸を越え――。
それは再生の光だ。
悲しみに暮れ、心を閉ざしてしまった人たちに、再起の機会を与える祈りの波動。
どこまでも、どこまでも、勢力を拡大していく。
やがてそれは、天に吸い込まれるように弾けて消えた。
光の残滓が、まるで天が流す涙のように王国中に降り注いだ――。
四
降り注ぐ光の雨に打たれながら、僕たちは立っていた。
「……アリーサさん」
アリーサさんは全てをやりきったような表情で、その場に佇んでいる。
何度話しかけても返事が返ってくることはない。
「ぅぅ……あぁ……」
涙が止まらない。
そのとき、そっと背中を持ち上げられ、柔らかい感触が体全体に広がった。
「……リリアン」
激闘だったのだろう、傷だらけのリリアンは思いっきり僕を胸に抱きしめた。
ネコアレルギーであることも省みず、とても力強く。
足元にはシャルロットもいた。とても悲しそうな眼差しで、かつてアリーサさんだった存在を見つめていた。
「……ごめん……リリアン……僕、止めること……できなかったよ……」
「……あたしも止められなかった……止められるはずがないじゃん……だって、だって、お姉ちゃんは……あたしのことも……世界のことも、本当に……。……大っ嫌い。お姉ちゃんなんか大っ嫌い……!!」
頬に滴り落ちる温かい雨。
それは、リリアンの瞳から溢れた涙だった。
「……わあああぁぁぁぁーーーーーーーーーーん!」
リリアンは泣いた。
穢れを知らない無邪気な少女のように、ただひたすら泣き続けた。
気がつけば僕の瞳からも涙が溢れていた。
僕も泣いた。
喉がはちきれそうなくらい、大声で泣き叫んだ。
――今は泣きたいだけ泣けばいいさ。
僕の中で芽生えようとしている”強さ”が僕に告げた。
きっと僕らには、その悲しみを乗り越えていけるだけの強さがあるはずだから――。
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