第7話 心が向かう先に

     一


 闇夜の山道を行く。

 右手には切り立つ岩壁。左手には底の見えない谷。一歩でも足を踏み外せば奈落の底へまっさかさまだ。

 ちょうど今日で七日目だ。僕の目標はただ一つ。ラークオール最北端のフェルシア港に向かい、そこから出ているらしい”船”に乗って、王都へと帰還する。そしてアリーサさんの真意を直接確かめる!

 誰にもこの衝動を止めることはできない。だって僕自身にも止めることができないのだから――。

 そして今の僕は闘気に溢れている。もしも邪魔立てする奴がいるなら、容赦はしない。

 ……それがたとえリリアンであったとしても。

 もしリリアンが追いかけてきて僕を連れ戻そうとするものなら、僕は再度牙を剥いてしまうだろう。そんなの間違ってるって分かってる。だけど理性ではどうにもならないんだ。やっと分かったよ。闘争本能に目醒めるとは、そういうことだったんだ。

 どこからか不穏な唸り声が聞こえてくるが、僕は足を止めない。

 今の僕に怖いものなんてない。何が出てこようが蹴散らしてやる。

 それから数分――。

 闇を切り裂くように現れたのは、野犬の群れだった。

 おそらく十数匹はいる。

 息を合わせたように、こちらへと、にじり寄ってきた。

「このネコ、うまそうだな」

「おうよ。いい肉付きしてやがるぜ」

 どいつもこいつも牙を剥き出しにして、目をぎらつかせている。ずっと餌を求めて彷徨っていたのだろう。

「どけ!」

 僕は叫んだ。

「今、お前たちに構っている余裕はないんだ! 痛い目見たくないなら道を開けろ!」

 僕は怯むことなく突き進む。

「なんだぁ? こいつ、ネコの分際で、オレらに楯突こうってのか?」「分を弁えろよ。ネコ風情が……っ」

「シャアアアアアァァァァッッッッッ!!」

 僕は全身の毛を逆立てて、正面にいた野犬に飛びかかった。

「!!」

 すんでのところでかわされてしまったが、勢いのままに岸壁を蹴り上げて、頭上から襲いかかる。

 僕の牙は、野犬の喉仏を捉えた。

「離せっ! オラっ!」

 僕は食らいついたまま離さない。

 アリーサさんが言っていたことを思い出す。野生の世界ではネコは小柄だから狙われやすいけど、小柄なゆえに小回りが利く。だからもし将来ソラが旅に出たときに、野獣に襲われるようなことがあれば、その利点を活かして何とか切り抜けなさいって!

「ぐっ……!」

 尻尾に激痛。

 別の野犬が僕の尻尾に噛み付いていた。

 思い切り後ろへと引っ張られ、無理やり引き剥がされる。

 僕は地面へと叩きつけられた。

「テメェ……よくもやってくれたな」

 喉から鮮血を流しながら、正面の敵が睨みを利かす。

 僕の尻尾からも血が溢れ、地面には血溜まりができている。

 絶体絶命のピンチとはこういう状況のことを言うのかもしれない。しかし僕の心を奮い立たせる闘気は鎮まる気配を見せない。むしろ先程より烈しさを増している。

「退けと言って退かないお前たちが悪いんだろ!」

 僕は立ち上がり、全身の毛を逆立てる。

「……何を苛立ってやがる? チビ猫ごときが……。やっちまえ! お前ら!」

 十数匹を相手に戦わなければいけないのか……。ああ、望むところさ。全員、崖下へと突き落としてやる。

 最初の一歩を踏み出そうとしたそのときだった――激しい突風が僕の横を駆けていった。

 突然のできごとに、思わず僕は目を見張る。

 その正体は、大きな一匹の狼だった。

 咆哮を上げながら、野犬の群れを蹴散らしていく。

 瞬きさえもできない、ほんの一瞬の出来事だった。

「ちくしょう! 覚えておけよ!」

 傷だらけになりながら棄て台詞を吐いて逃げていく野犬たち。

 どうにか難を逃れることはできたけど……。これってようするに、狼に目をつけられたってことだよね……。かえって状況は不利になってしまったというわけか……。

 狼の鋭い眼光が僕を捉える。僕も負けじと全身の毛を逆立てようとしたそのときだった。

 狼は丁重にお辞儀をした。

「先日はありがとうございます。うちの子たちを助けて頂いて」

「へ?」

 直後、背後の茂みから小さな狼たちが出てきて、こっちへ向かって手を振ってきた。

「ソラー!」

 そのうちの一匹が僕の名前を呼んだ。

 はっとした。

 あのときのチビ狼たちか。

「こちらこそ! 急いでいるんで僕は先を行きます!」

 僕は深々と頭を下げて、再び走り始める。


 ――そこから先は、獰猛な獣に襲われるということはなかった。

 ただ、背後から激しい雄たけびが聞こえてきて振り返ると、なぜかそこで黒犬が仰向けになって目を回しているということが一度だけあったんだけど、これはどういうことだろう……?

 あの狼たちはもういないみたいだし、彼らが助けてくれたとは考えにくいのだけど。

 時折、誰かに見られているような視線を感じることもたびたびあった。

 振り返っても誰もいない。

 僕にはさっぱり分からない。


 ――そんなこんなで夜が明ける頃、ようやく僕は山を越えた。

 ただっぴろい草原が広がっている。

 これまではどこからか聞こえてくる波の音を頼りに足を進めてきたけど、もうそれは聞こえない。

 どちらの方角が北なのか、見当がつかない。

 辺りを見渡していると、切り株の上にチビの野良猫が五匹ばかり寝転がっているのに気づいた。

 もしかしたら地元のネコなら知っているかもしれない。

 ……いや、でも縄張りがあるから、警戒されるかも。

 うーん、だけど、まだ僕の体格の半分くらいしかないチビネコだし。そういう意識はあまり芽生えていないかもしれない。こうなったら一か八かだ。

「ねえねえ、君たち。ちょっといいかい?」

 僕が呼びかけると、いっせいに顔を上げた。

「ここからフェルシア港に行くには、どっちの方角に行けばいいのか分かる?」

「さぁ? 地名なんか気にしたことないから分からないよ」

 一匹が答えた。

 他の子たちは眠そうにしている。

「じゃあ、船がある場所といえば分かるかな?」

「船?」

 どうやら船という名称についても知らないようだ。

 アリーサさんが読み聞かせてくれた絵本に描かれていたイラストを思い出しながら、伝える。

「海に浮かんでいるやつさ。とってもでっかい。風を受けながら進むんだ」

「うーん。分からないなぁ。でも海って言うと、水だよね?」

「うん」

 僕は頷いた。

 すると、ほかの子たちが顔を上げて、体を小刻みに震わせ始めた。

「やだ、こわい!」

「あたし、一度おぼれかけたことあるの!」

「ボクもある! 水が動いているんだよね!」

「うん! ザァザァと音を立てながら行ったり来たりしてた! もう絶対近寄らない!」

 このとき、ふと閃いた。

「じゃあ絶対に近寄らないその場所ってどこかな?」

「「「あっち!」」」

 みんな一斉に同じ方角を指差す

「ありがとう!」

 僕は声高にお礼を言って、その方向へと駆け出す。

「あ、ちょっと待って!」

 メス猫に呼び止められ、振り返る。

「"紅の牙"に気をつけてね」

「紅の牙?」

 初めて聞く名前だ。

「全身、真っ赤なネコ! ここらでは縄張り荒らしとして有名なネコだよ。何匹も大人のネコが殺されてるの。狐とか狼も殺して捕食してるって噂もあるよ!」

 ……とんでもない奴がいたもんだ。

「忠告ありがとう!」

 どうか遭遇しないことを願って。


     二


 ちょうどその頃、リリアンも街道を早足で進んでいた。

 あれからリリアンは、気づかれようにひっそりとソラの後を追いかけてきたのだった。

 さすがにソラが13匹もの野犬の群れと喧嘩を始めたときは度肝を抜かれたが、自分が出て行く前に心優しい狼が事態を収めてくれた。

 その後も何度か夜行性の野犬が忍び寄ってきたことがあったけど、そのたびに説得を試みた。

「あれは食いものじゃないわ。ゲテモノよ。悪いことは言わないから身を引きなさい」と。

 それでも従わない相手は本意ではないけど大量の唐辛子を口の中に放り込んで気絶させる必要があった。

 一度だけソラがこちらを振り返って、目を回している野犬を怪訝そうに見つめていることがあったんだけど、多分気づかれていないはず。

 ちなみにその野犬は意識を取り戻したあと、キャンキャン鳴きながらソラとは反対の方角へ逃げていった。

 正直なところ、ここまでしてあげるのは過保護すぎると思わないわけでもない。ソラは家出をしたのだ。もはや誰の庇護下にもない、ただの野良猫だ。あえてここは見て見ぬ振りをして、痛い目を見せるべきなのかもしれない。


「……とは言っても、慈愛に溢れたあたしがそんなことできるはずないよねぇ」

 こういうところは姉妹揃ってそっくりだ。


 視線の先を行くソラの足取りは、次第にぎこちなくなっていく。

「はぁ、おなか空いたぁ……」

 ソラはぼやいていた。

 本当ならいつものように獲物を自分で見つけてもらうのが一番いいんだけど、その気力もないようだ。ここまで全力で突っ走ってきたのだ。無理もない。

 しょうがない。

 リリアンは街道を外れ、身を屈めながら草原を駆けていく。

 ソラの行く手を先回りすると、七輪を設置。素早い仕草で火打ち石で火をつけ、網の上に鮭を置いた。

 黒い煙が上がる。

 いかにもその辺に野宿をしている人が、火を消し忘れてちょっと用を足しにいったかのように装えるだろう。

「……ん!」

 すぐにソラも気づいたようだ。鼻をくんくんさせて駆け寄ってくる。

「鮭!」

 口から涎を流し、目を輝かせている。

 しかしなかなか口をつけようとしない。

 まさか生きるか死ぬかというこの状況で、迷っているというでもいうのか。なんだろう、無性に苛立ちが込み上げてきた。

「さっさと食べちゃいなさいよ、このバカ……っ!」


     ◇◇◇


 食べていいか、食べちゃだめか。

 アリーサさんが言っていた。人のものを勝手に持ってきたらいけないよって。

 それはまだ人間社会の掟について全く知らなかった僕が、こっそり診療所を抜け出して通りがかった商店から魚を咥えて持ってきてしまったときのことなんだけど。

 ……でも、思い返せば、また別のときにこんなことも言っていた気がする。

 わたしの言ったことを鵜呑みにしするもだめだよ、って。

 もし誰かを困らせることになってしまったとしても、ソラはソラの生きたいように生きればいいのって。

 あのときはアリーサさんの言っていたことの意味がよく分からなかった。

 でも今なら、少しは分かる気がするんだ。


 ――もう迷わない。

 僕は鮭を咥えると、一目散に走り去る。

 今、僕は初めて盗みを働いた。

 罪悪感が胸を締め付けるが、すぐにそれは霧散した。

 こんなの、どうってことはないさ。これまでに僕がしてきたことに比べれば。

 数えきれないくらいの命を奪ってきたし、リリアンだって傷つけた。

 僕の手は血に染まっている。

 今更、善人ぶるなんて、おこがましいにも程がある。

 そう、今の僕は、野生の世界で生きている。

 

     ◇◇◇


 ――ソラの後ろ姿を見送りながら、リリアンは軽く溜め息をついた。

「……まったく。ソラったら、十秒も迷うなんて」

 こんなのさっさと、かっぱらってしまえばいいのに。

「変なところに律儀で、肝心なところでズボラなんだから。ホント、手が焼くわぁ……」

 リリアンは少しばかりアリーサに同情した。

 ソラが言うには、診療所で過ごしていた頃は外の世界に憧れていて、アリーサの目を盗んではよくあちこちを行ったり来たりしていたらしいし。そのたびに探しに駆り出されるアリーサのことを思うと、ちょっぴり気の毒に思う。

 でもそれはある意味で愛情の裏返しでもあって。

「……アリーサは本当にソラのことが大好きだったんだね」

 どこか悟ったようにリリアンは呟いた。

 そう、だからこそアリーサはこの”決断”をした。ソラのこれからを思って。

「……きっとあたしにしたのも……」

 認めたくはないが、同じ気持ちなんだろう。

 どうしてこんなに素直になれないのか、自分でも分からない。

 理屈ではアリーサの立場も考えてあげてもいいと思うんだけど、感情がそれを許さなかった。

 リリアンは思う。理屈よりも感情が先行してしまうなんて、どうもあたしらしくない、と。

 あたしはこう見えて幾多の逆境を”機知”に富んだ対応で切り抜けてきたんだ。

 ”機知”なんてものは、普段から理屈に次ぐ理屈で武装していないと、いざという時に活きてこないもの。

「……さて」

 ソラの姿はもう肉眼では捉えることができない。それでも方角は分かっている。

 ここから先はフェルシア港まで一直線だ。迷うこともないだろう。

「それじゃっと、ゆーーーっくりとソラの後を追うことにしますか~」

 リリアンが背中を仰け反らせて大きく伸びをしたときだった。


 ――後頭部に衝撃。


 ……気づかなかった、あたしのバカ……。

 傷口から血が溢れ出てきて、リリアンの目に流れ込む。

 視界が塞がる直前に目にしたものは、甲冑を身につけ長槍を構えた騎士の姿だった。


 リリアンは、はっとした。


 ……まさか、あのときの。


     三


 1時間ほど歩き続けて、ザァザァ……と音が聞こえてくる。

 そろそろフェルシア港が近い。

「やっとだ……疲れた……」

 まだ目的地には着いていないのに安堵してしまう。

 そのときだった。突如として飛び込んできた光景に、僕の体は硬直した。

 そこには、七匹のネコの亡骸。もはや原型を留めていない。捕食できる箇所は全て食い尽くされている。

「紅の牙の仕業だ!」

 茂みの中で、野良猫が叫んだ。

「ひいいいいいっっっ!!」

 茂みに隠れていた野良猫の群れが山の方へと逃げ出して行く。

「……紅の牙」

 成猫を同時に七匹も相手にして亡き者にするとは、どれだけヤバイ奴なんだ……。

 

 歩みを進めること、さらに五分。

 街道は一直線に延びている。人通りも多い。

 と、そのときだった。

「おっと」

 僕はとっさに草むらに隠れる。ダリアさんが多くの人たちを先導して歩いていた。隣にはクララもいる。テッドとリッドの兄妹も物言わぬ母親の手を引きながら歩いている。

 ダリアさんが声高く告げる。

「みなさん、気を確かに持ってください! ……もう少しで、もう少しで、あなた方の悲しみは浄化されます!」

 ……悲しみが浄化される?

 一体、何が行われようとしているのだろう?

 ダリアさんは続ける。

「そう、かのアリーサ様の詔によって!」

「……!?」

 アリーサさん!?

 動揺しかけたそのときだった。

「あぁ!」

 首根っこを何者かに掴まれた。そのまま持ち上げられる。

 抵抗する余裕もなく人目のつかない岩陰の背後へと連れ込まれた。

 気がつけば首もとに槍の先端を突きつけられていた。

 そこにいたのは、口髭を蓄えた大男。甲冑と兜を身につけたその格好から、騎士だ。

「おい、お前、シャルロット嬢と一緒にいた畜生だな?」

 ……シャルロット。ああ、そういうことか。

 そっか、あれからずっとドメニコスはシャルロットを血眼になって探していたんだ。そしてシャルロットはその魔の手から逃げ回っていたと。

「姫御前をどこにやった! 言え!」

「言えなんて言われても、君、獣通力ないでしょ」

 僕は気の抜けた声で言う。

「おぉ? それならあるぜ? 我らがドメニコス伯は有事に備えて獣通力者を多く取り込んでるんだよ。俺もその一人だ」

「…………」

 というかそもそも、僕はシャルロットの行方を知らない。

「まさか食っちまったんじゃねーだろーなー!??」

「そんな野蛮じゃないよ!」

「なら、どこに隠したぁ!? あぁぁん??」

 僕は質問には答えず、体をもぞもぞと動かす。

「言っておくが、逃げられると思うなよ?? しょせんネコごときが、人間様を退けることができると思うか?」

 ネコごとき……。

 そうか、僕はネコだ。

 ネコにはネコの”武器”があるんだ。

「にゃお~~~~ん!」

 僕は大声で鳴く。

「にゃお~~~~ん! にゃお~~~~ん!」

 訴えかけるように何度も何度も。

「……おい、何をしてやがる?」

「「にゃあ~~~~ん……っ! にゃあ~~~~んっっ!」

 やがて僕の存在に気づいた通行人たちがぞろぞろと集まってくる。


「あの人、ドメニコス伯の私兵だよね?」「……何してんだよ、かよわいネコを虐めて」「かわいそ」「騎士道精神が廃るぜ」「騎士としてクズね」「いや、人間のクズだ」


「な……」

 うろたえる騎士。

 僕はその一瞬を見逃さなかった。

 僕の首ねっこを掴む手がわずかに緩んだその隙に地面に飛び降りて、近くにいた優しそうな女の人の胸に飛び込んでいった。

 大げさなばかりに体を震わせて、にゃんにゃん鳴く。

「大丈夫だよ、おねーさんがついてる、もう怖くないからね」

 頭を撫で撫で。とても心地よい。

「ちくしょう!」

 騎士は地団駄を踏み、悔しそうに岩石に蹴りをかまして去っていく。

 僕の勝ちだ。

 そう、ネコにはネコの武器がある。


 一方、その頃――。


「はぁ~、手間かけさせやがって」

 リリアンの足下には、40は下らないタンコブ、溢れ出る鼻血で顔を真っ赤に染め、白目を剥いた男が横たわっていた。

 兜ははぎ取られ、リリアンの戦利品として布袋の中に納められている。

 リリアンはそんな哀れな男の背中をぐりぐりと踏みつけながら、

「おい、こら! この程度で済んで御の字と思いなさいよ! あたし、めちゃくちゃ痛かったんだからね! 乙女の頭を殴るなんて、あんた、オカシーんじゃないの! このままケモノにでも食われちゃえ!」

 そう言って唾を吐きかける。

「……でも」

 本当にケモノに食べられてしまったら後味が悪いので、しゃがみこんで男の足を掴むと、藪の中に隠した。兜は奪ったけど槍は奪っていない。獣に迫られても抗うか退散することはできる。

「おら、起きろ」

 何度か頬っぺたを叩いてやって意識を取り戻させてから、リリアンは一目散にこの場を後にする。

「……こんなんだから、あたし、いつまでたっても”悪”になりきれないのよねぇ……」

 風に吹かれながらリリアンは呟いた。

「…………」

 リリアンは思う。――それにしても、あの男、あたしにぶん殴られる前に「シャルロット……」と口にしていたけど、もしかしてドメニコスの差し金だろうか。予想はしていたけど、あれから血眼になってシャルロットの行方を探っていたんだろう。

 あたしは目出し帽を被っていたから誰にも正体はばれていないはずだけど、ソラは無防備だったからそこから足がついたんだろう。だって、あたしはいつもソラと一緒にいるから。

「ソラ、大丈夫かな……?」

 そして、シャルロットも。

 しかし当のシャルロットが見つかっていないということは、きっとどこかで生き延びているんだろう、きっと。そうであってほしい、とリリアンは願った。

「……のたれ死んでなんていないよね」

 うん、大丈夫だ。絶対に。

「だって、あの子、あたしと同じだから……」

 これまで何度も何度も空腹で死にかけたけど、そのたびに”機知”を働かせてどうにか乗り切ってきた。シャルロットもきっとそうに違いない。

「だって、あたしも、シャルロットも、同じ”女”なんだから」

 ――こんなところで死ぬタマじゃないよね。

 リリアンは足を止め、雲一つない青空を仰ぐと、どこか澄んだ表情を見せた。


     五


 どうにかこうにか、ようやくフェルシア港へと到着することができた。

 港には、でっかい旅客船が留まっていた。絵本で見た光景、そのままだ。

 よかった、間に合った。

 ほっと胸を撫で下ろす。

 さて、ここまで来れば何とかなるだろう。

 陸と船とを繋ぐブリッジの手前には行列ができている。

 僕はさっそく、優しそうな若い女性の背後にぴったりとくっつき、飼い猫のふりをして船に乗り込むことを試みた。

 しかし。

「だめだだめだ! ペットは進入禁止!」

 追い払われてしまった。僕は素直にこの場を後にする。当の女性はと言うと、まさかネコがくっついていたなんてといった驚きの表情をしていた。

「参ったなぁ……」

 僕は溜め息を吐いた。

 ブリッジは一つしかないし、ここを通らないとあの船に乗ることはできなさそうだ。

 僕は頭を悩ませながら、当てもなくその辺を彷徨う。

 一か八かで強行突破するか……。しかし見つかったら海に放り投げられる可能性も無きにしも非ず。ネコは水が大の苦手だ。泳いで陸までは引き返せない。

 気がつくと、一気に人通りが少なくなった。顔を上げ、周囲を見渡す。どうやらここは倉庫街のようだ。

 ふと、ある一点に目が止まった。

 それは食料品店の裏手に設けられた搬入口だった。

 開け放しの倉庫には、所狭しと木箱が詰まれている。

 誰かがそのうちの一つを手に抱えてブリッジの方へと運んでいく。

 閉め忘れたのか蓋が開いたままの木箱が一つある。

「あれに体を潜ませれば、船内にしのび込むことができるかも……」

 さっそく試みようとしたところで、凄まじい殺気を感じ、足を止めた。

 路地から濁声が聞こえてくる。

「オイ、テメェ、何勝手にオレらの縄張りに入ってきてんだよ?」

 路地から出てきたのは、やたらと太った黒ネコだった。

「すぐに去るよ。用があるのは、あの箱……」

「このやろうっっ!!」

 言い終えるのを待たずにそいつは飛びかかってきた。

 僕は咄嗟に身構える。

 やはり戦いは避けて通れないか……。

 僕らは揉み合いながら地面を転がる。

「くっ……!」

 敵が巨漢なこともあって、体重が重くのしかかる。

 ネコ同士の喧嘩は一瞬で決着がつくというけど、想定外の長丁場だ。

 塞がりかけていた尻尾の傷が開き、血がどくどくと溢れている。僕は奥歯を噛み締め、鈍痛に耐える。

 噛みつき、噛みつかれ。

 いつまでもこんなことを続けていてはキリがない。

 思い切って、僕は一気に距離を取った。

 ここは頭を使おう。敵が巨漢ということは、その分エネルギーを要するはず。隙をつくには小回りが利く僕の方が有利だ。

「「シャアアアアアアアアアァァァッッ!!」」

 お互い毛を逆立てて威嚇しあったあと、正面からぶつかっていく。

 僕は首に噛みつくと思わせて、その寸前で頭を屈めた。僕の狙いは敵の豊満な腹だ。全力で脳天を敵の腹にめり込ませる。

「うおおおおおぉぉぉっっ!!」

 勢いのままに敵は壁に激突した。

 今だ!

 僕は飛び上がると、渾身の力をもって首根っこに噛み付いた。

「フギャオオオン!!」

 一陣の風が吹いた。

 ……勝敗は決した。

 敵は尻尾を巻いて逃げ出していく。

「勝った……」

 ……初めて一人で喧嘩に勝った!

 込み上げる笑いを抑えきれない。やればできるじゃないか、僕!

 おっと、こんなところで油を売っている暇はない。先を急ごう。そのときだった。

「…………」

 上の方から殺気が漂ってくる。

 屋根から一匹のネコが降りてきた。

 全体的に細身で、大きめな耳。短めのグレーの体毛。

 絵本で見たことがある。この猫種はサイアミーズか……。

「我はここ一帯を取り仕切っているボスだ。我が舎弟に牙を剥いたのは貴様か?」

 端正な顔立ちに、クールな声色。

「ただで済むと思うなよ? 貴様は今ここで朽ち果てることになる」

 言い終えると同時だった。

 それは一気に僕の眼前まで迫ってきた。

「……どうして!」

 動きさえも追えないなんて。

 敵の爪は僕の眉間を捉えようとしている。研ぎ澄ませたナイフのような鉤爪だ。こんなのくらったらひとたまりもない。

 僕は咄嗟に体を背後に引いた。

 敵の攻撃は虚空をかする。

「……っ!!」

 しかしすぐに距離を詰められる。

 こいつは、ただものではない。本能が告げた。

 しかし引き下がるわけにはいかない。ここを突破しない限りは、アリーサさんのもとに辿り着くことができない!

 頭を使うんだ、僕……。搦め手はないか……。思考を巡らせる。

 そのときだった。

 僕の眼前に、颯爽とそれは降り立った。

 真っ赤な体毛。背を向けているため、その顔は窺えない。だが、背格好は僕より小さめだ。

 はっとする。

 まさかこれが……"紅の牙"?

「シャアアアアア!!」

 それは声高に吠えると、目にも止まらぬ動作でサイアミーズへと迫り、その喉元を切り裂いた。

 鮮血を噴射しながら仰臥する。

 白目を剥き、絶命したようだ。

 三秒にも満たない間での出来事だった。

 噂には聞いていたが、想定を遥かに上回る圧倒的戦闘力……。この世のものとは思えない。

 ややあって、紅の牙は、おもむろに僕の方を振り返る。

 ……次は、僕の番ってわけか。

「え……?」

 その顔を見て、僕は目をギョッとさせた。

「君は……?」

 それはあまりにも見覚えのある顔だった。

「シャルロットです。いつぞのときはお世話になりました」

「やっぱり!」

 僕は叫んだ。

「どうしたんだよ、その格好? 真っ赤に染まっちゃって!」

「うふふ。これは返り血です。何と言っても、これまで数多の修羅場を超えてきましたから」

 微笑みながら、シャルロットは言う。

「まさか、"紅の牙"がシャルロットだったなんて……」

 狐に摘まれたような気分だ。

「その異名、ソラにまで伝わっていましたか……。少しばかり複雑な心境ですね」

 ふと気になって辺りを見渡してみるが、今のところ、もう不穏な気配はなさそうだ。

「そんなことより、どうして姿を消したりしたんだよ!? ずっと心配していたんだよ?」

「きっと同じことをリリアンさんも思っていると思いますよ?」

「あ……」

 そうだ。結局のところ僕も同じことをしているのだ。

「ふふ、そういうことです」

 一呼吸置いて、シャルロットは言った。

「行きずりの吟遊詩人から小耳に挟んだのです。君と同じような毛並みで、同じような瞳のネコを王都の近郊で見かけたと」

「ということは、君も王都に渡るんだね」

「はい。あたくしのようなオッドアイなんて滅多にいませんからね。可能性は高いと思います。……しかし困りました。ネコは船に入れないようです」

「それなら僕に考えがある」

 僕は実行に移そうとしている策をシャルロットに話した。

「でも蓋を閉められてしまったら、内から開けることはできませんよ? 当面の問題は乗り切ったとして、どうやって外に出ます?」

「王都に着いたら、にゃあにゃあ鳴いて降ろしてもらうとか?」

「そこまで耐えられればの話ですけどね」

「耐えられる?」

 どういうことだろう?

 そのときだった、足音が聞こえてきた。さっきの人が戻ってきたのだろう。

 ……いや、それとも僕を捕らえたあの騎士か?

「人が来る! とにかく中へ!」

 僕はシャルロットの手を引く。

「あ、ちょっと!」


     ◇◇◇


 そんなこんなでソラとシャルロットは舟に乗り込むことに成功した。

 ただ、彼らにとって一つだけ重大な問題があった。

「うぅ、息苦しい……」

 蒸し暑くて、窮屈で、もはやまともに呼吸もできない。

「ソラが無茶するから……」

 やっとソラはシャルロットが言おうとしていたことの真意を察した。

 耐えられないのは、こういうことだったのだ。

「うぅ……アリーサ……さん」


 ちょうどその頃、箱の外にはリリアンが立っていた。

 そう、あの足音はリリアンのものだったのだ。

 一悶着あってソラの行方を見失ってしまっていたリリアンだったが、必死に探し回って、ようやく見つけ出すことができた。

 そのときソラは、純血のサイアミーズに食い殺されようとしていたが、自分が出る幕もなく、シャルロットが返り討ちにしてしまった。

 おそらくあれは、"闘猫"として調教されていたネコだろう。脱走して野生化したのだ。ゆえに戦闘力も並ならぬものがあるが、しょせんシャルロットの敵ではなかった。

 さすが、"紅の牙"なる異名を取っているだけのことはある。

 生まれ持った素質と、野生の世界で揉まれることで身につけた後天的能力だろう。大したものだと思う。


「さて、そろそろ開けても大丈夫ね」


     ◇◇◇


 もがいていると箱が一人手に開いた。

「あれ……?」

 僕は状況をよく把握できないまま、とりあえずシャルロットの手を引き、外へと出た。

 どうやら倉庫のようだ。かび臭い。

 僕らの周りには誰もいない。

 しばらくの間、僕らは互いに言葉を交わすことなく呆然としていた。

 なんだろう、このざわざわとする感覚。

 部屋をぐるりと回って入念に死角になっている場所を調べて見たけど、やはり誰もいない。

 まるで誰かに見られているみたいだ。

 静寂を破るように、僕の腹の虫が鳴った。

「お腹空いた……」

 そういえば、もうずっと食べていない。

 朝日が昇ってからだいぶたつ。そろそろみんな朝食にありつく時間だろう。

「では、食堂に移って、何か盗ってきましょうか」

「……だめだよ、盗みは」

 今更何を言っているのだろうか、僕は。

「生きていくためには時には手を汚すことも必要ですよ」

 この6日間自力で生き抜いてきたシャルロットのその言葉は、やけに重みをもって聞こえた。

「そうだね。もう引き返すことはできない。目的達成のためには何だってやってやろうじゃないか」

 僕の中で、野生の血が騒いでいた。


     六


 同刻。去りゆく旅客船を見送りながら二人の男が埠頭に立っていた。

「ちっ、間に合わなかったか!」

 そう吐き捨てた男は、ソラを羽交い締めにしていた人物だ。

 背が高く、二メートルは軽く越えているだろう。ガタイも良い。

「申し訳ねえです、ヴァルガス長官。我輩があの小娘に出し抜かれてしまったばかりに!」

 頭を深々と下げるこの男は、さきほどリリアンに返り討ちにされた人物で、背丈は普通だが、がりがりにやせ細っている。まだ傷は癒えておらず、鼻には丸めた羊皮紙を突っ込み、頬はパンパンに膨れ上がり、目元は怪物のように腫れている。

「その通りだ、このバカヤロー!」

 ヴァルガスは男の頬を、拳で殴る。

「ぎひぃぃ!」

 男が地面に倒れこむと同時に、汽笛が遠くで鳴った。

「……まずいことになったな」

 ヴァルガスは確かに目にしたのだった。あのネコとシャルロットが並んで歩いているところを。動物の乗り入れは禁じられているから、きっと貨物に紛れて乗り込んだのだろう。

 行き先は、復活祭(イースター)まっただ中の王都イザベル。

 海を越えられてしまえば自分たちの管轄外だ。不可侵条項があるから無闇に行動はできない。

 しかしここまで来て、おいそれと手を引くわけにもいかないだろう。

「おい、シュレイ。とにかくあいつらを追うぞ」

 シュレイはおもむろに立ち上がる。

「先回りして奴らが到着したのを見計らって奪い返すんだ。ここ周辺に散らばっている私兵共に話をつけて、イザベルに集結させんぞ」

「っつーことは、あのクソネコとメスガキを殺して、姫御前を奪い返すんですね! 我輩、燃えてきたっす!!」

 シュレイは大げさなばかりにガッツポーズをしてみせた。

「よし、では我輩、飛脚組合に行ってきます!」

 飛脚を雇い、この辺りを捜索している騎士連中に今すぐイザベルに集結するように記した書簡を届けさせるのだ。

 シュレイが駆け出していくと、ヴァルガスは慌ただしく動き始める。

 港に停泊している船舶の中から手頃なものを拝借するつもりだ。なるべく目立たない小さなやつを。

「悪りぃな。しばらく借りるぜ」

 ヴァルガスはしゃがみ込むと懐から取り出したナイフで、舫い綱を切断した。

 もはやここから5キロも先の岸辺に接岸してある船舶を取りに行っている余裕はないので苦肉の策だ。

「伝えてきましたぜ!」

 シュレイが戻ってくる。

「よし! 行くぞ!」

 二人息を合わせて奪った小型船舶に乗り込む。

 ――目的は、シャルロット奪還。

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