第6話 秘境を目指して

 馬車から降り立った僕は、空を仰いだ。

「うわ、眩しいっ」

 僕は前脚を目にかざし、目を細める。

 まさしく20時間ぶりに見る太陽だった。

 太陽は真上に昇っている。正午だということだろう。

 ここは山々に囲まれたバスカ盆地。段々畑を下っていくと、バスカールという街がある。

「あー……、腰いたぃっ」

 僕より少し遅れて、腰を擦りながら馬車から降り立つリリアン。

 リリアンの顔は真っ青だ。長旅によってリリアンはすっかり腰をやられてしまっていた。

 あれからリートゥスを発った僕らは馬車で北へと向かったのだけど、ちょっとした問題が起きた。

 道中の山岳路で落石事故が起きたため、大きく迂回することになってしまったのだった。そのため、かかる時間も丸二倍の20時間に。

 おかげでこのザマだ。

 あれから僕は一食も食べていない。そろそろここらで餌を捕まえないと。

「ソラは平気なわけ? ずっとあたしの足元で居心地悪そうに丸まってたけど?」

 虚ろな目で問いかけてくる。

 落石事故で辺りに係留されていた馬たちが負傷してしまい、それらの乗客を受け入れた結果、荷台は人で溢れ、リリアンはもちろん僕も身動き一つ取ることができなかった。

「僕は全然気にならないよ」

「一回も腰痛になったことない?」

「うん」

 リリアンは顎に指を置き、

「不思議よねぇ。あたしが今まで言葉を交わした動物たち、みんなそう言うのよね。腰痛なんてかかったことないよって。どうして人間だけが腰痛になるのかしら?」

 そう言って、リリアンは考え込む。

 僕にとってはどうでもいいことだった。

 体中を舐め、汚れを落としながら、僕は思う。

 ――今、シャルロットはどうしているのかな?

 今の僕には、そっちの方がよっぽど気にかかることだった。

 共に夜の集会に顔を出し、夢を語り合った友なのだ。心配にならないはずがない。

 野獣に襲われていないかな? ちゃんとご飯は食べているかな? 考えればきりがない。

「もしかして!」

 突如閃いてリリアンは言った。

「もしかしたら、”四足歩行”に腰痛にならない秘訣があるのかもしれないわ!」

 リリアンは両手を地面につくと

「というわけで、あたしもこれから両手両脚を使って移動するわ!」

 道ゆく人達の好奇な目線がリリアンに集まる。

 みんな、くすくす笑っているようだ。

 なんだか僕まで恥ずかしくなってきた。

「まあ、リリアンがそうしたいっていうなら止めないけど……」


 そして――。


「ちょっと待って……歩くの早すぎ……」

 これで何度目だろう、下り坂の真ん中まで差し掛かった辺りで再び足を止める。

 リリアンは脱力して、倒れこんだと思うと、転がりながら僕のもとまで迫ってきた。まるで団子虫みたいだ。

「ねぇ、どうしてそんな早く歩けるの?」

 僕の足元で仰向けになってリリアンは僕に言う。

「きっとそれは、僕がいつも疑問に思っている、どうして人間って足しか使わないのに早く歩けるんだろうというのと同じことだと思うけど」

「それもそうね……。あたしは人間。ネコにはなれない。そりゃそうよね。それが世の摂理。人として生まれた以上、人として一生を謳歌するしかない」

 まるで人間に生まれたことを後悔するような物言いだ。

「ネコになりたかったの?」

「うん」

 即答。

「だって、ネコになってしまえば、ネコアレルギーなんてなかったはずだし……」

 仰向けのまま、遠い目で空の彼方を見つめるリリアン。

 僕は呆気に取れてしまって、何て言ったらいいのか分からなかった。

 確かに蛇が自分の毒で死ぬはずがないように、ネコアレルギーをなくすにはネコになってしまうのが一番いいんだろうけど。

 それにしても極端な話だと思った。

 ふと近くのベンチに目をやると、その周辺で小鳥たちがパン屑にありついていた。

 幸い、僕の存在には気がついていない。食べるのに夢中なようだ。

 よし、あいつらを捕まえよう。

 しかし今の僕は空腹ということもあって、瞬発力に欠けている。しかし今回は算段があった。

 僕は一目散に捕まえにかかるのではなく、傍の樹木へと手を伸ばした。

 なるべく素早く、しかし着実に、爪を立てて上っていく。

 そして、僕は一気に飛び降りると、それらの小鳥を下敷きにした。

 ――よし、うまくいった!

 一気にまとめて五匹も捕らえることができた。20時間ぶりの食事としては十分な量だろう。後は貪り食うだけさ。

「頭使うようになったわねぇ、ソラ」

 リリアンが感心した様子で僕を見ている。

「だてに試行錯誤を重ねていないからね」

 僕は咀嚼しながら呟いた。

 今となっては生き物を殺すことに罪悪感はほとんどない。

 いや、全くないというわけではないけど、そのたびに罪悪感を感じていたら野生の世界では生きていけない。

 なので、意識的に罪悪感を感じないように努めているのかと言われれば、そうでもない。むしろ、みなぎる狩猟本能が罪悪感を掻き消しているというか……。

 うーん、自分でもよく分からないというのが正直なところかな。

 一つ言えるとしたら、僕も野生に染まってきたということだろう。

「あ!」

 突如、リリアンの目が見開いた。ある一点を見つめているようだ。

 その方向に目を向けると、そこには一軒の定食屋。入り口には看板が立てかけられている。

「新メニュー! 激辛ハバネロ・アイス・トリプル! これは食べないわけにはいかないわ!」

 リリアンは坂を駆け下り、勢いよく扉を開けて店へと入っていった。

「なんていうか……リリアンらしいというか……」

 僕は呆れながらもリリアンの後を追うことにした。


     ◇◇◇


「もう一個追加ーー!」

「「「おーーー!!」」」

 湧き上がる観客の喚声。

 この世のものとは思えない、まるで生き血で染め上げた団子のようなアイスクリームを次々と口に放り込んでいく。

 店の外まで野次馬が集まってきて、リリアンコールが上がる。

「リリアン!」「リリアン!」

「一個上げるわ」

 リリアンが食べかけのアイスクリームを皿に落とした。

「いらないよ」

 こんなゲテモノ、食べる気にもなれない。

「一口だけでも食べてごらんなさい」

「だから、やだってば」

 渋っていると、どこかから声が上がった。

「ネコも挑戦するってよ!」「よし、食ってみろ、ネコ!」「ネコ! ネコ!」

 リリアンコールならぬネココール。

「お願い。あたしの面子を潰さないためにも」

 リリアンが手の平を重ね合わせ、ウィンクをしてくる。

「お願いっ♪」

 なんだろう、リリアンらしからぬ妙に可愛らしい仕草だった。ふと、そこにアリーサさんの面影を見たような気になった。

「…………」

 一口とは言わず、一舐めぐらいだったら……。

 おそるおそる舌を伸ばす。

「…………!!」

 ――気がついたとき、僕は天井まで飛び上がっていた。

 天井に頭を打ち、垂直落下。

 やや遅れて、口の中が炎が広がっていくような感覚で満たされていく。

「辛い! 辛い! 辛い! ひゃああああああああああ!!」

 涙を零しながら、リリアンの足元をぐるぐると駆けずり回る。

「あはは、ソラったら最高っ!」

 リリアンは腹を抱えて笑うと、他の観客たちもつられて爆笑する。

 何なんだよ、僕は見世物じゃないぞ……!


 そして。

 店を出た僕は、まさに命からがらといった感じで、生きた心地がしなかった。

「ぜぇぜぇ……」

 顔がまだ火照ってる、舌はさっきから伸びっぱなしだ

「ソラは辛いものはだめなんだね」

「どうやらそうみたい……。僕は甘いものの方が好きだよ」

 激しく息を吸ったり吐いたりして呼吸を整える僕。

 今後何があろうが決して辛いものは口にしないと心に誓った瞬間だった。

「そう言えば、あの女も甘党だったわ」

「姉妹なのに、味の好みは全く違うんだね」

 リリアンは立ち止まり、空を仰いだ。

「実を言うとね、あたしも昔は甘党だったの」

 僕は首を傾げる。

「じゃあ今はどうして?」

「あるとき、ふと気づいたのよ。ネコアレルギーが発症したとき、辛いものを食べると症状が和らぐってね」

「…………」

 言葉を失ってしまった。

 ただ単に辛いもの好きだと思っていたけど、そういう事情があったんだ……。

「もちろん完全にアレルギー反応が治るわけじゃないんだけど。言ってみれば誤魔化すことができるの。辛さって痛みと同じらしいから。あたしの場合はアレルギー反応よりも痛覚の方が優っていたってわけね」

 リリアンは、やや間を置いて続ける。

「自分のアレルギー体質を恨んだこともあったけど、もしそれがなかったら激辛の真髄を知ることもなかっただろうし、ちょっぴり神様に感謝していたりもするんだ」

 そう言って僕を見つめる眼差しは、清々しいものだった。

「さて、張り切って行くわよ!」

「どこに?」

「労働よ。あの落石事故が原因でしばらく北への馬車は出せないらしいから。今のうちに小銭を稼いでおかなくちゃね♪ よーし、元気出していくわよー!」

 リリアンは張り切って拳を掲げた。

 しかし、

「ぅぅ……」

 うずくまる。

「背筋伸ばしたから、腰痛めちゃった……」

「…………」

 本当に大丈夫かな?


     二


 ギルドと呼ばれる職業斡旋所で見つけてきた仕事は、街の外に広がる段々畑の監視だった。

 今日入る予定だったはずの人が急遽キャンセルしたので、リリアンが真っ先にその案件に飛びついたのだった。

 たまに山の方から狐がやってきて畑を荒らすので、見つけたら追い払ってほしいとのこと。

 僕とリリアンは隣り合うようにして最上部の段差に腰かけている。

 たいそう張り切っていたリリアンは血眼になって監視している――なんてことはなくて、

「リリアン」

 僕はリリアンの耳元で呼びかける。

「むにゃぁ……」

 リリアンは座ったまま眠っていた。

「ほら、ちゃんと目を覚まして」

 リリアンは目をうっすらと開けると、大あくびをする。

「ふわぁ……。なんかさ、何もないと退屈でさ。なんか遊べるものとかないかなぁ」

 そう言って、僕をじろじろと見つめてくるリリアン。

 獲物の品定めでもするような目つきに、思わず身震いする。

「もしあたしがネコアレルギーじゃなかったら、思いっきり撫で撫でしてあげるのに……」

 名残惜しそうに言う。

「もふもふしたいなぁ……」

 リリアンは僕を抱えようと両手を伸ばしてくる。

「だめだよ」

 僕は立ち上がり、後ろ足を一歩後ろに下げる。ここでリリアンに抱っこされるわけにはいかない。もしリリアンに抱っこされてしまったら、リリアンは――。

「いいわっ。ちょっとぐらいアレルギー出ても! えいっ」

 今だ! 後ろ脚に力を入れ、飛び退く。

 リリアンの両手は宙を掠り、そのまま泥濘へと倒れこんだ。

「あ……」

 顔がべったりと泥の中に埋まったリリアンにを見て、ちょっとばかり申し訳ないという気持ちになった。地面に手をついて、リリアンは顔を上げる。見事に真っ黒だった。

 怒られる……のかな?

「ずいぶん素早くなったわね」

 意外な反応だった。

 感心したようにリリアンはそう言った。

「あぁ、また腰が痛くなってきた」

 よろけそうになりがら立ち上がると、服についた汚れを払うリリアン。

「座り続けるのはやっぱ腰に来るわぁ……。あたしの可愛い顔も汚れちゃったし……。その辺ぶらついて腰を治すついでに、ちょっと顔も洗ってくるわ」

 リリアンはそう言って、僕に背を向けて去っていこうとする。

「あ、待ってよ。もしリリアンがいない間に狐が来たら――」

「そのときは、思いっきり毛を逆立ててシャーっと唸りなさい」

「…………」

 ふと思い出す。そういえばこの前の夜の集会でボスネコと睨み合いになったとき、彼もそういう動作で僕らを威嚇していた。

 その後、彼と喧嘩になって、僕が敗けそうになったときに加勢してくれたシャルロットも同じ動作で相手を威嚇した。

 もしかしてそれって、生来的にネコに備わった本能なのかな?

 狩猟本能には目覚めた僕だけど、闘争の本能にはまだ目覚めていないからなぁ……。

「ま、自分でどうにかできそうになかったら、そのときは大声であたしを呼びなさい。威嚇も忘れないで」

「うん、何とかうまくやってみるよ」


 ――それから、どれぐらい時間が過ぎただろう。

 相変わらずリリアンが戻ってくる気配はない。

 空は茜色に染まり、今にも日は落ちようとしている。

 穏やかな風が頬を撫でていくだけで、何一つ変わったことはなかった。

 それにしても頭がぽーっとする。

 そういえば、今日は昼寝をしていなかった。どうりで眠いはずさ。

 ふわぁと、大きく欠伸をしたときだった。

 遠くから殺気が漂ってきた。

「……!」

 目を凝らすと、視線の先には二匹の狐がいた。山の方からこちらへ向かって一気に迫ってきていた。

「ちょっと待った、君たち! ここにあるものに手をつけるのはやめてほしい!」

 僕は声を張り上げる。

 だが、狐たちは全くそれに動じるどころか、せせら笑っている。

「おう、ネコがいるぞ」「こいつも一緒に食っちまうか」

 そんな……。僕まで食べるって……。全身に悪寒が走った。

 やがて二匹は僕の目の前で制止した。

「…………」

 冷たい汗が肉球に滲む。

 僕は一体どうすれば……。

 ……そうだ。今こそ闘争の本能を目覚めさせるときじゃないか。

 僕は全身の毛を逆立てると、

「シャーーーー!!」

 思いっきり吼えてみせた。

「なんだよ、やるのか?」

 狐たちはにやにやしている。

「シャーーーー!!」

 負けじともう一度叫ぶ。

「ひゃひゃひゃ! お前みたいな丸いやつが何やっても迫力がねえな!」

 だめだった!

 闘争本能を目覚めさせるどころじゃない。込み上げる恐怖でいてもたってもいられなくなって、後ずさりをする。そのとき、背中に何かがぶつかった。

「なかなかやるじゃない」

 そこにいたのは――。

「リリアン!」

 リリアンが骨付き肉を片手に立っていた。

「あんたたち、悪いけど、ここは引き下がってくれないかしら?」

「ああ? 何言ってんだ、こら?」「そう言われて、素直に引き下がる奴がいるかよ」

「だってそもそもあんたらって肉食でしょ? これに免じて、引いてくれないかしら」

 手にしていた骨付き肉を放り投げる。

 食いかけのその肉に狐たちの注目が集まった。

「こんなので引き下がれっかよ!」「そうだそうだ、全部食い荒らしてやらぁ!」

 強がって言ってのけているが、口からはヨダレが垂れている。もはや引くに引けなくなっているのだろう。

「あんたら肉食なのに、野菜なんて食べて何か意味あるわけ?」

「うるせえな。たまには食物繊維を取らないと健康に良くねえんだよ」

「食物繊維をとりたいなら、その辺の雑草でも食べていれば?」

「「食い飽きたんだよ!」」

 声が重なる。

「埒が明きそうにないわね」

 リリアンは「はぁ」と溜め息を吐くと、ポケットから羊皮紙に包まれた何かを取り出した。

 リリアンはそれを破って広げると、出てきたのは――やはり、唐辛子だった。

「最終通告。痛い目見たくなかったら、おとなしく去りなさい」

「「へっ! やなこった!」」

 狐は牙を剥き出しにして、リリアン目がけて迫ってきた。

「交渉決裂――」

 リリアンは残念そうにそう言うと、唐辛子を一掴みにして、狐の顔にそれぞれ投げつけた。

 狐たちは怪訝そうに足を止める。

「な、なんだよ?」

 狐たちはわけがわからないといった様子できょとんとしていたが、すぐにその反応は現れた。

「「むげえええええ!」」

 狐の悲鳴が轟く。

 二匹とも顔を真っ赤にして、じりじりと後退を続ける。充血した瞳から涙をぽろぽろと零し、もはや戦意は喪失している様子だった。

「「ちっくしょう! 覚えてろよ!」」

 そう言って捨て台詞を吐くと、尻尾を巻いて山へと逃げていった。

 しばらくして一匹が戻ってきたかと思うと、骨付き肉を口に咥えて、再び去っていく。

 辺りは何事もなかったように、しんと静まり返った。

「良かったね、リリアン。帰ってくれたよ」

「ふふふ。これが、あたしの戦い方よ」

 リリアンは手の平に残った唐辛子を、自分の口へと放り込んだ。

「あー、おいしっ♪」

 リリアンはご満悦のようだが、僕としては腑に落ちないものがあった。

 僕はまだ闘争本能に目覚めていない。相手を退けるどころか、恐怖を与えることさえできなかった。

 リリアンがいなければ、今頃僕は彼らの胃の中だろう。

 ……野生の世界で生きるには、まだまだ未熟だ。


     三


 突き抜けるような青空の下――。

「悪はこうなるのよ! 覚えときな!」

 大男の背中をぐりぐりと踏みつけながら、リリアンは叫んだ――。


 そもそも、どうしてこんなことになっているんだって?

 それには一言では語れない、深い深い事情があるんだ。


 事の始まりは、ほんの数分前。

 バスカールを訪れて三日目。北へ向かう道の復旧はまだ終わっていなかった。

 本日リリアンが請負った仕事は穀物倉の整理だ。加えて、倉の中にネズミが巣食ってたら追い出してくれとのことだった。

 中に入るやいなや、さっそく五匹ばかりお出ましになったので、僕の朝食にさせてもらった。腹を満たしたら眠くなったので、僕はその場で丸まって眠りについた。

 正午を迎えた頃、僕はリリアンに声をかけられ眠りから目覚めた。まだ仕事は半分ほど残っているが、行きたい場所があるという。

 リリアンは陽気に鼻唄を口ずさみながら、僕を連れて街外れの広場へと向かう。

 何でもこれから行きずりの大道芸人が子供たちを集めて手品を披露するらしい。僕らはそれを鑑賞することにしたのだけど……。

 その大道芸人は、まだそれほど歳は行ってなさそうなのに白髪頭を胸の辺りまで伸ばしていた。しかもやたらとニヤニヤ笑っていて、はっきり言って、奇妙なことこの上なかった。

 僕もリリアンも興味津々に繰り広げられるショーを見入っていた。

 何もないはずの帽子の中からネコが出てきたり、布の下にあった銅貨が金貨に入れ替わっていたり……。

 確かに一連のショーは魅力的だった。そこまでは良かったんだ。

 しかしその後になんと見物料として一人あたり金貨を2枚よこせと要求してきたんだ。

 そんなこと聞いてないという話になったんだけど、事前に「2枚」と言っている、それを承知の上で見物したのだからしっかり金は払えと。

 人間世界の貨幣価値は僕にはよく分からないけど、かなり無理のある金額なのだろう。

 銅貨のことだと思った、という声が上がった。

 男は不気味な笑みを浮かべ、男は自らの目を覆っていた前髪をかきあげた。

「はっきりと額に、見物料、金貨2枚と書いてありますよね?」と男は言った。

 僕は言葉は喋れても文字は読めないから何て書いてあるか分からない。だけど周囲の反応を察するに本当にそう書かれているみたいだ。

 リリアンは呆れたように言った。

「こんなところに示されても見れるはずがないじゃん。屁理屈もここまで手が込んでると、感心するわぁ」

 泣き叫ぶ子供たち。

 リリアンは眉をひそめ、「いい加減にしなさいよ」と苦言を呈した。

 男はリリアンを無視して、目の前にいた三つ編みの女の子の胸倉を掴み、「お金を払いなさい!」と声を荒げた。

「もし払えないというなら、君をビンタしよう! 私はね、君みたいな小さくて、か弱い女の子が泣き叫ぶ様を見るのが大好きなんだよ!」

 女の子は涙目で何度もごめんなさい、ごめんなさいと叫んだ。

「いいねぇ、その顔! ほら、もっとボクに見せてごらん! ぐへへへへへ!」

 男は容赦なく右腕を振り上げる。


 そのときだった――。


「あたしはあんたが泣くツラが見たいわ!」

 

 掛け声と共に、リリアンの飛び蹴りが男の左頬に炸裂したのは――。


 男は白目を剥いて気絶している。

「ったく! このあたしの前でぼったくり仕掛けるなんていい根性しているわっ。二度とこの界隈に顔を見せないことね!」

 足元には、男の被っていたカツラが落ちていた。やっぱり変装だったようだ。

 リリアンは訝しむ目で男を見る。

「……ん? この顔、どこかで見たような……」

 ややあって、リリアンは目を見開いた。

「あんた、指名手配犯じゃん! 少女ばかり狙ってビンタして泣かせてる変質者! 似顔絵そっくり!」

 辺りがざわめき始める。子供たちだけではなく、大人も集まってきていた。リリアンが呼びかける。

「ねえ、ちょっと手を貸してくれない? これからこの男を詰め所に……」

 そのときだった。自警団の人たちがやってきて、男は気絶したままどこかへと連行されていった。

「……あたしが私人逮捕するまでもなかったか。悪は滅び、一件落着ねっ」

 リリアンは、にこりと笑う。

 立ち去ろうとすると、さきほど男に脅迫されていた女の子がリリアンのところまで駆け寄ってきた。

「おねーちゃん、すごいね」

 リリアンは笑顔で応える。

「なんのそのっ。これしきヨユーよ♪」

「あのね……これあげるっ」

 紙切れのようなものを差し出してきた。

「これは……」

 覗き込んでみたけど、僕は文字が読めないので、この紙切れがどんな意味を持つのか分からない。

「ありがとう。ありがたく貰っておくわ」

 リリアンはにこりと微笑んで、女の子の頭をやさしく撫でた。


     ◇◇◇


 リリアンとソラがこの場を去ると、その場に集っていた人たちは感心したように話し始めた。

「さすが豪快だなぁ、リリアンは」

「悪党が成敗されて、ざまあみやがれってんだ」

「それにしても、リリアンと一緒にいたネコ、あれに似てねえか?」

 民家の壁に貼られている手配書を指差す。

 そこにはソラの似顔絵と共に、こんな文言が添えられていた。


『この者は、シャルロット姫御前の心を射止めた雄ネコである。近々婚姻の儀を執り行う折により、発見した者は直ちに連絡を賜わりたい』


 この手配書は、昨夜、リリアンが仕事にでかけている間にドメニコスの私兵がやってきて、家主の許可も得ずに貼って行ったものだった。

「まさかなぁ」

 どっと笑い出す一同。

「ま、でも一応連絡しといてやるか」

「ドメニコスは嫌なやつだけど、シャルロットはいい子だって言うしな」

「いやー、めでたいめでたい。幸せになれるといいな、あの”二匹”」


     四


 その翌日――。

 僕は山道を駆けていた。


 北への馬車道の復旧が完了したとの知らせを受け、バスカールを発った僕らは、馬車に揺られながら遥々ここまでやってきたのだった。

 女の子がくれた紙切れは、ラークオール島北東にあるドゥモスという温泉郷の招待状だった。

 何でも受け取り主である母親に急用が入って行けなくなってしまったらしく、その旨の手紙を添えて招待状を送り返すべく、女の子に頼んで飛脚に届けさせようとしていたところだったのだという。

 その後、あの騒動がきっかけとなって、リリアンの手に渡ることになったというわけだ。

 僕はネコだから基本的に水は苦手だけど、リリアンがどうしても行きたいというから仕方なくついてきたのだった。

 まあ、僕らが目指している最北端のフェルシア港より、少し東に逸れてしまうけど、方角的には間違っていないし、旅にはちょっとした休息も必要かなって。

 ここは多くの山々が連なる山岳地帯。もはや馬車も通っておらず、僕らは徒歩で山を越えるしかなかった。

 迂回するというルートもあったんだけど、リリアンが面倒くさいというので、このまま突き進むことになった。

 いくつかの山を山頂伝いに縦走したあと、ようやく最後の山の頂へと至った。後は下るだけだ。

 腰を下ろしてリリアンが休憩している間、木の実を探しにその辺をうろついていたとき、その光景は目に入ってきた。

 僕は思わず息を呑んだ。

 大変だ。何とかしなきゃ!

 僕は慌ててリリアンを呼びに戻った。

「リリアン、こっち来て!」

「何よ、突然?」

「いいから早く!」

「分かった、分かったから!」

 リリアンが後を追いかけてくる。

 日は暮れかかろうとしていた。

「これは……」

 リリアンは興味深そうに見つめる。

 それは岩と岩の隙間に自然にできたであろう穴倉だった。

 三匹の小さな狼が身を寄せ合って、くんくんと鳴いていた。

「この子たち、おなかをすかせているんだ。リリアン、その袋に入っているモグラの燻製を分けてあげてよ」

「でも、これはあんたの夕食でしょ?」

 僕が今朝、バスカールを発つ前に捕まえた獲物だ。日持ちするようにリリアンに燻製にしてもらっておいたんだ。

「僕はいいんだ。お腹が空いたらまた捕まえるだけさ」

 だいぶ狩りにも慣れた。

 といっても成功率はまだまだだけど、確実に進歩してきている。

 僕にも余裕が生まれつつあった。

「ありがとう、ソラ」「おなかいっぱい~」「なんか眠くなってきちゃった……」

 狼たちは僕にお礼を言った。

「あんたも本当にお人好しなんだから。これじゃあ野生でやっていけないわよ?」

 リリアンは呆れたように言う。しかし、リリアンが僕を見る眼差しは穏やかなものだった。

「いいんだ。この子たちは僕の敵ではないよ」

 だから闘争本能をみなぎらせる必要もない。

 餌にするにしても大きすぎるし、いいんだ、これで。


 それにしても、いつ僕は闘争本能に目覚めることになるのだろう?

 そもそも僕はイエネコだったわけで……。闘争とは無縁の日々を送っていたんだ。だから、どうにも闘争という概念がしっくりこない。

 しかし確実にその本能は僕にも備わっているはずなんだ。

 なぜなら僕の先祖は野生の世界で生きていて、その血を僕は受け継いでいるのだから。


     ◇◇◇


 勢いよく山を下っていく。

 辺りは薄暗くなり始めている。できれば今日のうちに目的の場所まで辿り着いてしまいたかった。

「それにしてもさ、」

 隣を歩くリリアンが僕に目を向ける。

「ソラって、本当、丸いわね」

「またそれ?」

「うん。いつ見ても丸い。どこから見ても丸い。奇跡のような丸ね」

「ネコはみんなそうだよ」

「違うわ。ソラは全てのパーツが丸いのよ。目も鼻も口も輪郭も尻尾も肉球も、どこを見ても真ん丸!」

 びしっと僕を指差す。

「じゃあ僕が三角だったら良かったのかな?」

「それはそれで面白いかもね♪」

 ふふっと笑うリリアン。

「あ、でも、耳だけはイカの耳みたいね」

「イカの耳……」

 あまり嬉しくない例えだ。

「齧ってみていい?」

「やだよ!」

 僕は歩調を速めると、リリアンも負けじと追いかけてくる。

「こら、待て! 非常食!」

「僕は食べものじゃないよ!!」


 そんなこんなで一時間ほどかけて山を下り終えると、そこには小さな泉が広がっていた。

 手に取って舐めてみると、ちょっとしょっぱい。

 そういえば風が湿っぽい気がする。

 僕が最初、ラークオール島最南端のサウザニカ畔に漂着していたときに嗅いだものと同じ類の匂いだ。

 ちょうどそのときだった。お腹の虫が鳴った。情けないくらいに大きな音で。

 辺りを見渡す。

 獲物になりそうなものは――いない。

「ほら」

 リリアンは袋から燻製のハム肉を取り出して、地面に置いた。

 今すぐありつきたい衝動に駆られたが、僕はぐっと堪えた。

 これはリリアンの夕食だ。

「どうしたの?」

「い、いや……」

「ほら」

 リリアンが急かす。

「でもこれは……」

「別にいいの。あたし、ダイエット中だから。ソラがあたしを気遣う必要なんてこれっぽっちもないんだから」

 そう言って、リリアンはわざとらしく大きく伸びをした。

「あ、ありがとう」


 食事にありつきながら思う。

 リリアンとの距離はだいぶ縮まったのかな、と

 リリアンは自らを盗賊といいながらも、善良な人を相手に盗みを働くことはしなかった。

 今度はどこかの悪徳貴族の家に押し入るか、海賊を狙うとも言っているけど。もちろん成果の一部は貧しい人たちに分け与えるらしい。

 大したものだと思う。弱い人たちを思いやる気持ちは人一倍強いというか。こういうところはアリーサさんとよく似ている。

 リリアンの方を見る。

 僕のせいで食事抜きになってしまって申し訳がない……と思いきや、

「うまっ!」

 手によそった水に唐辛子を溶かして飲んでいた。

「…………」

 絶句した僕だった。


 そんなこんなで食事を終え、自分の手足についた汚れを綺麗に舐め取っていたときだった。

 体が宙に上がった。

「あ、」

 気がつけばリリアンの胸に抱えられていた

「ほうら、よしよし」

 背中をやさしく撫でられる。

 もふもふしていて気持ちいい……。

「大丈夫なの、リリアン?」

「これぐらい大丈夫だって♪」

「ほら、もふもふ、もふもふ……」

 リリアンの指が尻尾の付け根に触れた。

「ぅにゃおおおーん」

 つい甲高い声をあげてしまう

「ここがいいの?」

「ぅぅ……」

「ソラったら、目がとろけてる♪」

 そのときだった。早くもリリアンの腕に赤いぶつぶつが生じ始めていた。

「……!」

 リリアンは僕を地面に降ろした。

「リリアン!」

 リリアンは腕をかきむしり、涙目になっている

「やっぱ、だめだったみたい……」

 リリアンの瞳から涙がぽろぽろと滴り落ちる。

「どうしてなのかなぁ……どうして……どうして……」

「リリアン……」

 僕は何て声をかけたらいいのか分からなかった

「な、泣いているわけじゃないからね。アレルギー反応だからっ!」

 リリアンは泉の水を手にすくうと、軽く顔を洗った。

 思いっきり首を左右に振って、水気を払う。

 その飛沫が僕の方にも飛んできて、水が苦手な僕は慌てて後ろへと飛び退いた。

 リリアンは何事もなかったように布袋を抱えると、僕に向かって一言。

「さ、行くわよ。日が暮れないうちに」

 その表情はどこか寂しげだった。

 リリアンが前に僕に言った、ネコになりたいという気持ちが少し分かったような気がした。


     五


 泉を離れてしばらくたつと、薄い霧が立ち込めてきた。

 僕は足を止め様子を窺うが、リリアンは動揺する気配を見せない。

「海霧ね。海岸地帯ではよく起きるの。これぐらい大したことないわ。どうせすぐ晴れるわよ」

 だがリリアンのその予測とは裏腹に、霧はどんどん濃さを増していった。

 さすがにリリアンの顔色も曇ってくる。

「妙ね……」

 やがて数メートル先も見通せないほどにまでなってしまった。

 濃霧の中に、あるシルエットが浮かんでいる。

 歩みを進めるにつれ、それは輪郭を帯びてきた。

「これは……」

 僕は思わず目を見開いた。

 目の前に広がっていたのは、霧に包まれた王都イザベルの街並みだった。

「どうしてこんなことが……」

 僕は足を止める。

「うろたえることはないわ。先を急ぐわよ」

 リリアンは誰もいない王都の中をあてもなく歩き続ける。

 奇妙なことにそれらの景色には一貫性がなくて、リリアンが方向を変えるたびに景色も移り変わっていった。

 あるときは、王都の正門前。

 あるときは、アリーサさんの診療所の裏手。

 あるときは、王城の庭の中。

 おかしい。明らかにおかしい。

 あり得ない光景が目の前に広がっているというのに、どうしてリリアンはこんなに平然としていられるのだろう。

「ねえねえ、リリアン。これは何なの? どうしてこんなことになってるの!?」

「……あたしには何も見えないわ」

「え??」

 ということは――僕は幻を見ているのか?

 やがて僕の目の前に現れたのは、王城の庭の一角に佇む、干上がった井戸だった。

 そう、僕が落ちた井戸だ。

 思わず僕の体がびくんと震えた。

 リリアンは井戸の方向へと一直線に足を進めていく。

「リリアン! だめだ!」

 僕は叫んだ。しかしリリアンが足を止める様子はない。

「だからリリアン、だめだってば! この井戸は危険なんだ!」

 リリアンはようやく制止した。

「あのねぇ、だからあたしには何も見えていないんだってば」

 呆れたようにリリアンが言ったとき、立ち込めていた霧が急激に薄まってきた。

 完全に霧が晴れるまで、あっという間だった。

 そこは鬱蒼とした森の中だった。

 夕日に照らされながら、目の前に一体の石像が横たわっていた。

「どうしてこんなところに石像が……?」

 それは、髪の長い女性だった。目は閉じているけど、その女性の美しさがありありと伝わってくる。

「石像なんかじゃないわ。元は人間だったんだから」

「え??」

 元は人間だったって……。

「可哀想に。ここで朽ち果てたのね」

 リリアンは腰を屈めて、その石像の頭を優しくなでた。

「きっとソラが見ていたという幻も、この子が見せていたのね」

「……どういうこと?」

「この子は自身のマナを使い果たした白導士(マーギアー)の成れの果てよ。つまり――」

「ちょっと待ってよ。成れの果てってどういうこと……?」

「白き光明(リヒト・メーゲン)は副作用として自身のマナを奪っていく……。あの女から聞かされていてなかった?」

 胸がざわざわと鳴った。

「もちろんそれは知ってるけど……マナはしばらくすれば回復するって……」

「嘘に決まってるじゃん、そんなの。一度消費したマナはそのまんまよ。使っただけ減っていくの。元に戻るなんてあり得ない」

 そのことから辿り着く事実――。それは……。

「……じゃあ、いつかアリーサさんもこうなっちゃうの?」

「マナを使い果たしてしまえばね」

 アリーサさんはそれを承知の上で、力を使い続けていたということ?

 どうして、自分の身を犠牲にしてまで……。

 僕は知らず知らずのうちにアリーサさんの自己犠牲に手を貸していた……。

 もし僕がアリーサさんだったとして、そんなことは――到底できそうにない。

 僕はアリーサさんのことをよく知っているようで、実は全然分かっていなかったのかもしれない。

 アリーサさんは僕なんかにはもったいないくらい、偉大で崇高な人だったんだ――。

 

 森を抜けた先には、見渡す限りの海が広がっていた。

 海は琥珀色に染まっている。

 海岸沿いの道を歩きながら、ふとリリアンが口走った。

「白導士がマナを使い果たしたとき、最後に残るものって何だと思う?」

「…………」

 答えは見つからなかった。

「想いよ」

「想い……?」

「うん。人々を救いたいという純粋な想い。そうした想いが、迷える人たちの想いと共鳴することで、心の奥底に眠る記憶を呼び起こすことがあるの」

「じゃあ僕が見ていた景色は、僕の中にある記憶がそのまま再現されていたということ?」

「そうよ。でも少し違う。今、その光景が現れたということは、それをソラが必要としているということなの。ソラがソラとして在るためにね」

 その景色が、僕にとって必要なもの?

 確かにアリーサさんと過ごした王都。恋しく思うけど、そのことが僕らしく生きることに繋がるのかと言うと、少しばかり大げさな気もする。

 僕が本当に必要としているのはアリーサさんそのものなわけで。

 それにあの井戸なんか、僕にとってトラウマに過ぎないわけで、これっぽっちも必要としていない。

「ま、全部あたしの作り話なんだけどね♪」

 僕は肩を落とした。

「なんだよ……不安になっちゃったじゃないか」

「ごめんごめん。でも、石像の近くにいると、不思議な現象が起きるっていうのは本当よ」

 ……確かにそれは事実だ。現に僕はそれを目の当たりにした。

「あたしは思うの。マナを使い果たした白導士は石になって死んでしまうってみんな言うけど、そうじゃないって。石になってしまったあとも、残した想いが消えることはない、迷える人たちの心を導き続けているんじゃないかなってね」

 僕は何も言わずに頷いた。

 リリアンの言っていることはただの願望に過ぎないのだろうけど、そうであったらいいなと僕も思ったのだった。


     六


「確か、この先だよね?」

「うん。立て看板にはそう書いてあったけど……」

 妙だった。目的地が近いというのに人が住んでいる気配が全く感じられなかった。

 小さな田舎町とは聞いているけど、雑踏やら生活音やら聞こえてきてもいいはずなのだけど……。

 唯一耳に届くのは僕らの足音と、引いては寄せ、寄せては引く波の音だけだ。

 奇妙に思いながらも足を進めていくと、倒壊した家屋の残骸のようなものが波打ち際に打ち棄てられているのが目に入った。

 それを見たリリアンは悟ったように呟いた。

「津波が来たのね」

「津波?」

 具体的なイメージが沸かない。

「この様子からすると、きっと波にさらわれてしまったのね……」

 おそるおそる足を進める。

「これは……」

 僕らは里の門の前に立っていた。

 ドゥモスは森を切り崩して造成された里だった。木造のコテージが円を描くように点在していて、その中心には大樹が聳えていた。

 辺りには虚ろな目の人が闊歩している。

「ひどい有様ね。みんな病に冒されている」

 ほとんどのコテージは倒壊してしまっていたが、まだ原型を留めているものもあった。

 リリアンは急ぎ足でそれらの家屋を見て回った。

「……だめ。全滅。全員自我を失ってしまっていたわ」

 しばらく考え込んでから、リリアンは言った。

「……おそらくあまり日にちは経ってない。飲まず食わずでも立っていられるということは、そういうことよ。……もしあたしが数日早く来ていたら、助けることもできたかもしれない……」

 リリアンが唇を噛み締めたときだった

 森の奥から足音が聞こえてきた。

「誰か来る!」

 僕とリリアンは一斉に駆け出し、茂みに身を隠す。

 騎士を従え、一人の女性が歩いてきた。

 金色の髪、下がり眉、つぶらな瞳――。

 ……間違いない。

「アリーサさ――」

 言いかけたとき、僕の口をリリアンが塞いだ。

 アリーサさんは極めて冷静な表情で告げた。

「報告通りの惨状ね。住民全員を教会に集めて」

 騎士たちがアリーサさんの指示に従い、動き出す。自我を失った人たちを、一人また一人と里の西の教会へと連れて行く。

 よく見るとそれらの騎士たちが携えている武具は長剣だった。

 ドメニコスの城に常駐していた騎士たちは長槍だったから、すなわちここにいる人たちは王が所有する騎士団。

 つまりアリーサさんは王の命によりここまでやってきたということか……。


 礼拝堂に集められたのは、わずか二十人にも満たない人たちだった。

 アリーサさんが一人一人丁寧に治療を施していく様子を、壁の窓から僕らは眺めていた。

 全てが終わり、アリーサさんは告げた

「皆様、聞いてください。今、わたしは皆様に人生をやり直すチャンスを与えました。どうか、今一度、己の心と向き合ってください。そして内なる悲しみを乗り越えていけるだけの強さを身につけてください」

 自我を取り戻したことで泣き出す人もいれば、悲しみを分かち合うように抱擁しあう人の姿も見られた。

 アリーサさんは騎士を連れて教会を後にする。

 僕は込み上げる衝動を抑え切れなかった。

「アリーサさん!」

「……ソラ!」

 僕はリリアンの制止を振り切って飛び出していった。

 騎士の一人が振り返った。

「あ、こら!」

 騎士の一人が身を屈めて僕を捕まえようとしたが、僕はその間隙をすり抜けて一直線にアリーサさんのもとまで迫った。

「アリーサさん!」

 アリーサさんは足を止めた。

「ソラ……」

 アリーサさんは虚ろな目で僕を見ている。

 おかしい。アリーサさんがこんな目で僕を見たことは今まで一度もなかった。

「僕だよ、ソラだよ? ずっとお風呂に入ってなかったから汚れちゃってるけど……」

 アリーサさんは気まずそうに目線を逸らした

「……わたし、知らない」

「え――」

 何を言っているのだろう。

「アリーサさん……?」

 僕はすがるような気持ちで、背筋を伸ばして服の裾をくいくいと引いた。

 アリーサさんは眉毛を下げ、目線を逸らしたままだ。

 そして、おもむろに背中を向けると、そのまま真っ直ぐに歩いていった。

「アリーサさん! 行かないで!」

 アリーサさんの後に続こうとしたときだった。

「おい! 悪戯が過ぎるぞ! 野良猫はあっちに行ってろ!」

 首根っこを捕まれ、草むらへと放り投げられる。

「あぁ!」

 僕は着地のタイミングを見誤って、背中から叩きつけられた。

「うぅ……」

 僕はよろめきながら立ち上がる。

 アリーサさんの後姿は遥か遠くにあった。

「どうして……アリーサさん……」

 呆然と立ち尽くしていると、リリアンが僕のもとへ近づいてきた。

 じっと僕を見下ろすリリアン。

 その瞳には、決意めいたものが宿っていた。

「今だからこそ全てを話すべきなのかもね」

「……どういうこと?」


「あたしがソラと一緒にいるのは、あの女の意志に基づいてよ」


「……!」

 意味が分からない。

「あの女がソラをあたしに託すことを望んだの」

「……やっぱり僕を捨てたの?」

 アリーサさんは首を縦にも横にも振らなかった。

「確かにそう解釈することもできるかもしれない。でも、切実な理由がある。あの女は、病に冒されているの。……自分でも治療できないほど深刻なレベルのね。いずれはソラのことも忘れ、自我を失ってしまう。そうなる前に、あたしに託したの」

 全身が、かっと熱くなった。

「違う……違う違う違う!」

 僕はたまらず叫んだ。

「忘れてなんかいない! だってあのとき……」

 あのとき、アリーサさんは確かに僕の呼びかけに応じて振り返った。

 そして「ソラ」と一言囁いた。

 僕には分かる。僕を知らないふりをしたことが演技だったということくらい。

「とにかくあたしが話したことが真実よ。……今更、あたしが言うのも変かもしれないけどさ、どうかあの女の気持ちも汲み取ってやってよ」

「……リリアンも嘘をついているよ」

 リリアンの目尻がぴくりと動いた。

「僕はずっとアリーサさんと暮らしていたから分かるんだ。アリーサさんが悲しみに呑み込まれるわけがないって! アリーサさんは強くてたくましいんだ!」

 リリアンは気まずそうに目線を逸らす。

「アリーサさんは病なんかじゃない! 本当のことを教えてよ、リリアン!」

「……何も知らないわ」

「だったらいいよ! 直接、確かめに行く!」

「ソラ!」

 僕はアリーサさんが去っていった方向へ、一直線に駆けていく。

 どうか間に合ってくれ!

 僕は知らなければいけないんだ。アリーサさんが隠している真実を!

 道なき道を走り、森を抜けたところで、ようやくその姿が見えてきた。

「来るなって言っただろう、野良ネコめが!」

 長剣を僕に突きつけてくる。

 僕は軌道を変えて大回りすることで、それをかわす。

 しかしまた別の騎士が剣を振りかぶっていた。

 刀身は僕のすぐ頭の先まで迫っていた。

 そのとき、誰かに抱えられる感触――。

 リリアンだ。

 剣の切っ先がリリアンの二の腕をかすった。

 鮮血が飛び散り、僕の頬にかかる。

 リリアンは一気に距離を取った。騎士は追いかけてはこなかった。

 僕はリリアンに抱えられながらも、叫び続けていた。

「アリーサさん、待って! アリーサさん!!」

 アリーサさんは振り返ることなく、岸辺に接岸されていた小型船へと乗り込んでいった。


     七


 リリアンは砂の上に腰を下ろし、傷の手当てをしていた。

 薬草を手の平ですりつぶし、それをぐりぐりと塗りつけている。

「ごめん、リリアン。僕のせいで……」

「別に平気よ、これくらい」

 ここに来る前は三分の一ほど顔を出していた夕日も今は完全に沈み、辺りは夕闇に覆われ始めていた。

 呆然と辺りを見渡していると、波打ち際に何かが打ち上げられていることに気づいた。

 僕は近寄って、それを見てみる。

 それは前に絵本で見た、鯨のようなシャチのような不思議な生物だった。

 まだ生きているみたいで、巨大な口をひくひくと動かせている。

「リリアン、これ……」

「なるほどね。こういうことか」

 リリアンはいつの間にか僕の横に立っていた。

 リリアンは懐からナイフを取り出すと、謎の生物の喉元に突き立てた。

「……!!」

 その瞬間、凄まじい絶叫を上げながら、跡形もなく消滅してしまった。

「これは一体……」

「魔物よ」

「え!?」

 魔物って、確か魔王ヴァルヴァロッサが自身の魔力によって生み出していた存在のはず。

 魔王が斃されたあとに全滅させられたと聞いていたのに。

「ほとんどの魔物は死んだ。でもこうやって稀に残党が見つかることがあるの。きっとこいつが津波を引き起こしていたのね」

「…………」

 僕は初めて魔物の恐ろしさを痛感した。

 そして同時に、魔王が残した爪あとがいかに大きいものであるのかを。

 ……外の世界は危険だ。危険すぎる。もううんざりだ。早く帰りたいよ。平穏で幸せだったあの診療所に戻りたい……。もう外の世界に出たいなんて馬鹿なことは言わないから……!

「あいにくだけど、ソラ。やっぱりアリーサにあんたを会わせるわけにはいかないわ。アリーサのことは忘れなさい。あたしが代わりに飼ってあげるから。ソラはあたしのことだけ考えてくれていれば、それでいい」

「そんな……! どうしてそんな意地悪を!」

「意地悪じゃない! 今、アリーサに会えば、あたしと同じ悲しみを味わうことになる。本気でアリーサを憎むことになるわ。……あたしと同じ轍を踏んで欲しくない、ただそれだけよ」

「それでもいい! 僕はアリーサさんに会いたいんだ! だから、リリアンっ!」

「……うるさい」

 リリアンはぽつりと呟いた。

「うるさいうるさいうるさいうるさい! あんたに何が分かるって言うのよ! しょせんネコには理解できっこないわよ! あたしの辛さを! 悲しみを!」

 リリアンはそう叫びながら立ち上がり、僕を指差した。

 初めて目にするリリアンの怒りだった。

 僕は一瞬硬直しかけたが、一歩も引かない。

「いいから、アリーサさんと会わせてくれ! そうじゃなきゃ、僕は……僕は!!」

 

 そのときだった。僕の中で、熱い奔流が込み上げてきた。

「フシャーーーーッッ!!」

 気がつけば僕は叫び、毛を逆立てていた。

 そして僕はリリアンに飛びかかる。

 僕はリリアンの二の腕を引っ掻いた。

 地面に降り立った僕は、毛を逆立て、威嚇を続ける。


「……ソラ」


 リリアンが僕を見る目は、悲しげだ。

 それでも僕は威嚇をやめない。やめられない。

 ……どうしてこんなときに目醒めるかな。僕の"闘争本能"。

 最低だ……よりにもよって、ずっと僕を見守ってきてくれたリリアンを相手に……。

 リリアンの二の腕から一筋の鮮血が流れ落ちる。

 リリアンは、布切れで傷口を抑えながら、静かに告げた。

「……とにかく、もうあの女には顔を合わさない方がいいと思う。この世には知らなくていいことだってたくさんあるんだから」

 そして血を拭った布切れをその辺に捨てると、高台へと上っていき、テントを張る準備を始めた。


     八


 なかなか寝付けない夜だった。

 波の寄せる音と草葉のざわめき、そしてどこかで遠吠えを上げる獣の声が、やけに存在感を帯びて僕の耳に響いていた。

 夢と現実の間を行き来しながら、僕はあの頃のことを思い出していた。

 それは、一日の診察が終わった夕方のことだった。

 そのとき、アリーサさんはまるで魂を奪われるように、いきなり正面から倒れかかった。

「アリーサさん、大丈夫!?」

 僕は咄嗟にアリーサさんの足を掴んで支えようとした。

 しかし、僕の力では支えきれず、アリーサさんは床に倒れこんでしまった。

「……ごめん、ちょっとばかりマナを使いすぎちゃった」

 アリーサさんはよろめきながら立ち上がる。

「でもこんなことで、へばってたらだめだよね。わたしは神の力を浮け継ぐ御子にならなくちゃいけないんだから」

 アリーサさんはずっとこの日を気にかけていた。

 復活の祭典、イースター。

 その日、アリーサさんが神の御霊をその身に降ろし、力を振るうことで、自我を失ってしまった人々は救われる。もう一度だけ人生をやり直すことができるんだ。

「その頃にはソラも一歳だね」

 だけど、まだ三ヶ月もある。まだまだ先の話だ。

「……勇敢なネコにならなきゃね」

 それは意外な一言だった。

「どうしたの、突然?」

 僕は首を傾げる。

「もし、わたしがある日突然いなくなってしまっても、一人で生きていけるくらい勇敢なネコにね」


 一人で生きていけるくらい勇敢なネコ――。

 いつまでもその言葉が脳裏に響き続けていた。


 僕は、なれるのだろうか。


 僕は目を開けた。

 隣ではリリアンが寝息を立てて眠っていた。

 僕が引っ掻いた傷痕が生々しい。

 僕はリリアンに牙を剥いてしまった。頭ではダメだと分かっていたのに、僕の中の"闘争本能"を抑えることができなかった。

 僕はもう、ここにいる資格はないのかもしれない。

 それに僕は真実を知らなければいけない。

 たとえそれがどんなに残酷なものであったとしても――。

 決意は固まっていた。


「……ごめん、リリアン。僕は行くよ」


     ◇◇◇


 ふと物音が聞こえてリリアンは目を覚ます。

 ソラが眠っていたはずの場所には誰もいなかった。

 特に驚きもしなかった。

「やっぱり行っちゃったか……」

 分かっていた。こうなるであろうということは。

 来るもの拒まず、去るもの追わず。

 ソラが決断したことだ。かつて自分がそうだったように、ソラを止める権利など自分にはない。

 大丈夫。だいぶ狩りもうまくなった。思いがけない形ではあったが、なかなか開花しなかった闘争本能を呼び起こすこともできた。

 これで一安心だ。ソラ一人だけでも生きていけるだろう。

 でも、胸の奥で何かが仕えていた。

「…………」

 リリアンは、はぁと溜め息を吐いた。

「あの女との約束だからね。……もう少しだけ面倒見てあげるか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る