第4話 闇夜に佇む城と気高きネコ

     一


 すっかり辺りは夜闇に覆われてしまった。

 漆黒に染まった空にはくっきりとした三日月が輝き、夜風が草葉をざわざわと揺らしていた。

 今、僕らは街の裏手にそびえる小さな丘の頂に立っている。

 目の前には、リリアンの二倍はあると思われる高さの壁がそびえていて、その向こう側を見通すことは出来ない。

 唯一目にすることができるのは、尖ったミナレットの先端の部分だけだ。それは空を貫くように伸びていた。

 こここそが領主ドメニコスの居城なのだという。

 どこからかフクロウの鳴き声が聞こえてくる

「むっかつくわねぇ。善良な住民から巻き上げた金でこんな立派な城建てやがって」

 リリアンはそう吐き捨てると、苛立ち紛れに樹木を蹴飛ばした。

 ここは城の裏側だ。

 表の正門には長槍を構えた衛兵が三人も立っていて、とても強行突破できそうになかったからこちらへ回り込んだのだ。

 とはいえここにも見回りの衛兵がやってくることは考えられるので、僕らは樹木の陰に隠れて息を殺していた。

 どうやら今のところその気配はない。

「今よ!」

 僕は一目散に走り出す

 僕の口には縄がくわえられている

 僕は近くの樹木を足がかりにして、城壁の上に飛び乗ると、それを城壁の出っ張った部分にくくりつけた。

 よし、これで準備万端だ。

 リリアンがグーサインを送る。

 僕は塀から飛び降り、リリアンのところまで駆け戻った。

「ナイスだわ、ソラ」

 撫でてくれる代わりに、僕に微笑みを送るリリアン。

 正直なところ、いくら相手が相手とはいえ夜盗行為に加担してしまってもいいのか迷ったけど、あの人たちの切実な訴えを鑑みると、必ずしもリリアンのしようとしていることは悪だとは言い切れなかった。

 それでもなかなか踏ん切りがつかなかった僕の背中を押したのは、「これまで不当に奪われていったものを奪い返すだけ」というリリアンの一言だった。

「あの女に会いたいんでしょ? 目の前の苦しんでいる人から目を背けて、はたしてソラは胸を張ってアリーサの胸に飛び込んでいくことができるのかな?」

 半ば脅迫めいた発言だったけど、あながち間違っていないというか、むしろ的を射ていると思った。

 苦しんでいる人がいたら助けてあげなさい、とアリーサさんも常日頃から言っていたことだ。

 ……覚悟を決めよう。

「はい、これ」

 リリアンは僕の足元に布切れを置いた。

「闇のルートで手に入れたものよ。以前ここに夜盗に入った盗賊が宝物庫から盗み出してきた物品らしいわ。その当人は城を出たときに衛兵に串刺しにされて生き絶えちゃったみたいだけど、彼が飼っていた犬が咄嗟にこれを口にくわえて運んできたみたいね」

「なるほど……」

「この匂いを辿れば、宝物庫まで辿り着けるはずよ」

 僕は鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。

「…………」

 きっと入手してからかなりの時間が経ってしまっているのだろう。ほとんど匂いは残っていなかった。

 それに、妙だなぁ……。これ、"ネコ"の匂いが微妙に混じってる。

「ま、とにかく頼むわ。あまり長居はしたくないし。あんたの優れた嗅覚を駆使して、そこを探り当ててみなさい」

「できるかなぁ……」

「大丈夫よ、ソラなら。だってあんたのおかげでテッドとリッドを見つけ出すことができたんだし。もっと自分に自信を持ちなさい」

 そう言われると、やる気がみなぎってくる。

「うん、分かったっ! 頑張ってみる!」

「元気があって宜しい」

 リリアンは微笑むと、袋の中から目出し帽を取り出すと、それを頭に被った。

 よし、作戦開始だ。


 ロープをつたい、中へ。

 庭園をうろつく衛兵に見つからないように適宜身を隠しつつ窓を目指すことにする。

「しかしここの主のドメニコスって人も、ここまで念入りに警戒する必要があるのかな?」

「かつて部下が某反を起こして殺されかけてるのよ。民衆によるクーデターも過去に3回ほど起きてるし」

 なるほど、それで疑心暗鬼になっていたのか。

「それと、何やら”命よりも大切なもの”があるらしいのよねぇ。何のことだかさっぱりだけど」

 庭を抜けると、側壁に沿って移動する。

「どの窓も閉まってるよ? どうするのさ?」

 押しても引いてもびくともしない。

「へっへっへ♪ あたしに任せなさい♪ こーいうのはあたしの十八番よ」

 リリアンは鋭い針のようなものを取り出す。

 それを窓に突き立てた。

 ガラスに一本の線が入った。

 再び同じことを繰り返す。さらにもう一度。

 それは三角形の形になった

 リリアンは、「よっ」と言ってそれを人差し指で押す。

 するとその部分だけが向こう側へ落ちた。

 そこから手を突っ込んで、ロックを外し、施錠を解く。

「手馴れたものでしょ♪」

「…………」

 僕はなんていったらいいのか分からなかった


 無人の客室を抜け、廊下へ出る。大理石の床に敷き詰められた赤絨毯が目についた。まるで血で染め上げたように真っ赤だった。

 等間隔に設置された燭台の明かりが、闇に沈んだ城内をうっすらと照らし出している。

 炎がめらめらと燃える音、僕らの吐息、足音――。

 普段は気にしないような音も、驚くほど存在感を帯びて”確かに今ここにあるもの”として伝わってくる。

 もしかすると僕の高まる鼓動の音も外に漏れているんじゃないかとすら思えてくる。

 僕は微かに感じる匂いを頼りに足を進める。

「こっちでいいんだね、ソラ?」

「うん。多分合ってると思う」

 しばらくして、ふと何かに見られている気がして足を止めた。

 見上げると、そこには女性の顔があった。

「ひっ……!」

 思わず体がびくんと震える。

 何てことはない、ただの石像だ。

 だけど、やけにリアルだった。

 髪の毛が蛇の女性の生首。確かこれ、アリーサさんが愛読していた神話辞典でそのイラストを見たことがある。

 空想上の怪物でメデューサというやつだろう。

 うねった長い髪は床まで垂れ下がっている。

「あははっ怖がってるっ。ソラったら可愛いーっ」

 僕を指差し、せせら笑うリリアン。

「いや、いきなりこんなものが現れたら誰だって驚くよ」

「あたしは全然平気だけど? ただの蛇女じゃん?」

 リリアンは爪先立ちで背筋をぴんと張り、頬をぺちぺちと叩いた。

 本当、恐いもの知らずだよな、リリアンは……。

 僕にもその勇気を分けてほしい。

「油を売ってないで早く行こう」

 僕が促したときだった。

 リリアンの背中が反り返り、まるで何かに引っ張られるようにそのまま転倒した。

「あいたた……」

 リリアンは立ち上がろうとしても立ち上がれず、もがいている。

 まさか、このメデューサ像が?

 確かメデューサにはこんな伝説があるという。

 それは一度メデューサに睨まれると石にされてしまうというものだ。

 身動きができず尻餅をついて足をばたつかせるリリアン。

 その様子を見て悪寒が走る。

「髪の毛が挟まっちゃったの! 何とかして、ソラ!」

 床を見ると、リリアンのポニーテールがメデューサ像に絡み付いていた。

 ずっこけたのはそれに気づかず、先に進もうとしたからだ。

 ほっと一息つく。

 どうやら本当にこれはただの石像だったようだ。

 僕は挟まった髪の毛を、そっと肉球で押し出した。


「……まったくえらい目にあったよ、もう」

 リリアンは手櫛で、乱れてしまった髪を整えている。

「あっ」

 突然リリアンが声を張り上げる。

 足元にはリリアンのマイ唐辛子が四散していた。小瓶は粉々に砕けている。

 リリアンの顔色がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。

「あたしの命よりも大事な唐辛子……。遥か南の大陸から、半年かけて取り寄せた高級唐辛子! これを手に入れる資金を調達するために4つも山賊を潰したというのに! よくも、よくも、よくもやってくれたわね……! 仕返しよっ!」

 そう言ってリリアンは涙目でメデューサ像をがしがしと蹴り始める。

「リ、リリアン。落ち着こうよ」

 だが僕の声はリリアンには届いていない。

「最後にとびきりすごいのを決めてやるわ!」

 リリアンは背後に下がり、助走をつけ思いっきり跳躍――。

 「くらえ!」という掛け声と共に飛び蹴りを決めた。

「あーすっきりした! あたしに逆らうとこういう風になるんだからねっ! 覚えときな蛇女!」

 メデューサ像はびくともしていない。何一つ文句を言わず無機質な目で僕らを見下ろしている。

 だけど、それでもリリアンは満足したようだった。

「さ、先を進むわよ」

 リリアンが踵を返したそのときだった。

 ガシャン、と何かが割れる音が響いた。

 音のした方を見ると、いかにも高級そうな装飾が施された壺が地面に落ちて真っ二つに割れていた。

 リリアンが石像に蹴りを入れたとき震動が伝わって落ちたのだろう。

「あーあ、もったいない。でもあたしのものじゃないからどーでもいいわ」

 呑気にリリアンは言っているが、迫りくる気配を僕は察知した。

「それよりも前を見て! 前を!」

「お前! ここで何をしている!」

 視線の先には、衛兵が長槍を構えて立っていた。

「うっわ、やば……」

 リリアンもこれはまずいと思ったのか、声が震えている。

「ど、どうする?」

「逃げるしかないじゃん!」

 そう言って走り出すリリアン。

 僕もリリアンの後を続く。

「さては盗賊だな! 逃がさんぞ! 貴様!」

 走りながら背後を振り返ると、追っ手が増えていた。これはいよいよまずい状況だ。

「ひっとらえて八つ裂きにしてくれるわ!」

「嫌だそんなの! せめて水攻めにしてよ! 死体だけは綺麗に残してください!」

 たまらず僕は叫ぶが、当然その声を相手は理解することはできない。

 複雑に入り組んだ場内を無我夢中で駆けていく――。

「もう……どうしてこんなことになるのかな……!」

 息を切らしながらリリアンが言う。

「そりゃあリリアンが石像に蹴りなんて入れるから……」

「そこ! 過ぎたことをくよくよ言わないっ!」

 そう言ってびしっと僕を指差す。

「聞かれたから答えただけなのに!」


 そんなこんなでどうにか物陰に隠れて追っ手を巻いたときには、今僕らがどこにいるのか分からなくなっていた。

 階段も上ったり下りたりしたから何階にいるのかも分からない。

 今も衛兵たちは血眼になって辺りをうろついている。

 ただ、匂いの感覚は、よりハッキリとしていた。

 目的の場所が近いのだろう。

 僕はゆっくりと足を進める。

 柱に隠れて、衛兵をやり過ごしながら、慎重に慎重に足を進める。

 辿り着いた場所は、ずいぶんとこじんまりとした部屋だった。

 窓から差し込む月の光によって、薄暗く照らし出されていた。

 目を凝らす。

 ピンクの壁紙。窓際のへこんだ部分には可愛い女の子のお人形が並べられている。

「ここが宝物庫?」

「そのはずだけど……」

 とてもそのようには見えない。

 そして、ネコの匂いがする。メスのネコのようだ。しかしどこにもネコの姿は見えない。

「ずいぶんと変わった趣味をしているのね、あのジジイ」

「子供部屋なのかもしれないよ?」

「あいつに子供はおろか、配偶者もいないけど?」

 ……なんだろう、一気に血の気が引いていくような。

 リリアンは近くの棚の引き戸を開けた。

 すると中には、きらきらと輝くものが所狭しと並べられていた。

「これは……宝石!」

 だけどよく見るとそれは人間の指に入る大きさのものではない。デザインが歪だ。

 ためしに一つを手にとって自分の指にはめてみる。

 ぴったりフィットした。

 これはどういうことだろう?

 リリアンは特に気にすることなく地面に布袋を下ろし、回収を始める。

 引き出しを取り出して、逆さまに傾けて、一気に突っ込んでいく。

「よーしっ、これだけあれば充分ね。はい、仕事終了っ! さっさとずらかろっ」

 リリアンが踵を返したときだった。

 「もういいのですか?」

 僕もリリアンも足を止めて、振り返る。

 箪笥の上に置かれた壺の裏から、それは姿を現した。

 白い毛並みの小さなネコだ。僕よりも小さく、両目の色が違う。片目はブルーで、もう片方はグレーだった。オッドアイというやつだろうか。

 こんなところにまさかネコがいたなんて……。どうりで夜目が利く僕にも分からなかったはずだ。

「あたくしも盗んで行ってくだされば、高値がつくと思われますよ?」

 いきなり何を言い出すのだろう、この子は。

 僕もリリアンも目がテンになっている。

「あ、申し遅れました。あたくしはシャルロット。ドメニコス様に仕えて早半年になります」

 リリアンはまじまじとシャルロットと名乗ったネコを見つめる。

「まだ子猫か。確かにテイマーか猫好きの貴婦人に売り飛ばせば、それなりに値はつきそうね」

 そう言って踵すを返す。

「でも興味ないからどーでもいいわー。一日三回、おいしい餌を頂いて、メイドさんにもふもふしてもらって、幸せに過ごしなさい」

 去っていこうとするリリアン。

「待ってください!」

 シャルロットはリリアンの正面まで走ってきた。

 リリアンは足を止める。

「確かにあたくしは幸せ者です! しかし、そんな味気ない日々に嫌気が差していたことも事実なのです。もっと自由に外をかけずり回りたい……素敵なオスネコに巡り会って、一夏の恋とか経験してみたい……つくづくそう考えるようになりました」

 そう訴えるシャルロットの声は、とても切なげだった。

「何度も逃げ出すことを試みました。しかしあたくしの脚力では、あの城壁を越えることはできませんでした。ですから外に連れ出してくれさえすれば、後はどうしてくれても構いません。たとえサーカスに売り飛ばされようとも隙を見計らって逃げ出して、必ずや自由を満喫してみせますから!」

 シャルロットは声高に言ってみせた。

「そこまで言うならいいわ。あんたも盗んであげる」

「ありがとうございます!」

 シャルロットは礼儀正しく頭を下げた。

「ただし――」

 リリアンは人差し指を立てる

「これからの主はあたしよ。いざ盗むだけ盗んで後のことは知ったこっちゃないなんて、無責任にも程があるからね」

 シャルロットは、意外とばかりに目を丸くしている

「安心しなさい。あたしの目が届く範囲なら、自由に外を駆け回らせてあげるから。それに――」

 リリアンは僕に視線を落とすと、

「魅力的なオスだっているし」

 胸がかーっと熱くなる。

「な、何を言ってるんだよ、リリアン……!」

「そうですね。ではこれからよろしくね。三毛猫さん」

 にこりと上品な笑顔を向けてくるシャルロット。

「う、うん」

 胸の鼓動が高まっていくのを感じる。。

 なんだろう、とても気恥ずかしいというか、ドキドキするというか。

 考えてみれば他所のメスネコと言葉を交わすのはこれが初めてのことだった。

「では、こちらです」

 シャルロットは背を向け、窓際まで歩いていくと、促すように首を上げた。

 リリアンもその位置まで歩いていって、施錠を外して、窓を開けた。

 流れ込んできた風によりカーテンが勢いよく揺れる。

 僕もシャルロットに続いて窓際の手すりに飛び乗った。

 どうやらここは三階のようだ。

 ひんやりとした夜風が頬を通り過ぎていく。

「……ここから飛び降りろと?」

 僕がおそるおそるたずねると、

「はいっ」

 シャルロットはにこりと笑う。

 やっぱりそうだよね……ここまで来てそれ以外の選択肢なんてないよね……。

 なんとなく予想はついていたものの、やはり体が震えるというか。

「ソラの弱虫ー♪ いくじなしー♪」

 リリアンはにこにこ笑いながら平然とプライドを傷つけることを言ってくる。

「くっ……」

 ここまで言われて引き下がるわけにはいかない。

 なんの、これしき!

 僕はネコだ。一歳を迎えた大人のネコなんだ!

 アリーサさんが言っていた。大人のネコは高いところから飛び降りても傷一つつかないんだって。

 理由は、ぐにゃぐにゃしているから!

「僕は行くよ! 怖くない! 全然怖くないさ!」

「じゃ、行くわよ! せーのっ!」


 そして――。

 僕らは最初の場所まで戻ってきたのだった。

 飛び降りる前は怖かったけど、いざ飛び降りてしまえば大したことはなかった。

 吸い寄せられるようにして僕は地面に降り立つことができた。

 何事も挑戦してみなければ分からないというやつか。

 そこから城壁まで一気に走ると、シャルロットはうろたえることなく、器用に縄をつたって城壁を乗り越えた。

 城壁を直接上ることはできなくても、その近くにある樹木を足がかりにすれば僕でさえも上れるほどの高さだから、あと半年ほど我慢すれば自力で越えられた気もするけど。

 リリアンは休むことなく丘を下り、僕らを率いてリートゥスへと戻るのだった。


     二


 やけにせわしない。

「ねえ、どこに行くのさ、リリアン?」

 リリアンは僕の問いかけに答えず先を進む。

「今日は夜も遅いし宿を取って休んだ方が……」

「いいからついてきなさい」

 リリアンが向かった先は何の変哲もない食事処だった。

 こんな時刻に開いているはずがないだろう。

 リリアンはノックを三回。間を置いてもう二回ノックした。

 リリアンが何を考えているのかさっぱり分からない。灯りは消えているし、扉が開くはずがないのに――と思っていた矢先、なんと扉が開いた!

 男が出てくる。口髭を生やし、目尻は垂れ下がり、不気味な笑みを浮かべ、いかにも怪しげな風貌だ。

「合い言葉は?」

「ネコも木から落ちる」

 男は身をかがめ、床のプレートを外した。

 そこに現れたのは、地下へと繋がる階段だった。

「これは……」

 僕は目を見張った。

「驚きですわね。こんな仕掛けがあったとは。……外の世界は未知のことだらけです」

 シャルロットも毛をざわざわ揺らしていた。

 リリアンは慣れた足取りで階段を下っていく。

「闇市よ。夜しか開いていない」

 僕らも後を続く。僕にはそもそも闇市というのがどういうものなのか分からない。

「出処の怪しい物品でもお金に代えることができるわけですね。つまりどこかの貴族の屋敷から盗んできたものであっても」

 シャルロットがまるで僕の心を見透かしたかのように言った。

「そーゆーこと」

 僕は呆気に取られてしまった。

 ……どうしてシャルロットがそんなことを知っているんだろう?


 そこは開けた空間で、多くの人が密集していた。

 葉巻の煙が鼻をつんざく。

 アリーサさんが読み聞かせてくれた絵本の中でしか見たことのなかった光景が、そこには広がっていた。

 激しく回転する円卓。その上には小さな円球が転がり、それを囲うようにして立つ人たちの手元には金貨が積まれている。

 きっとこれはカジノというやつだろう

 別の方向に目を向けると、なにやら高価そうな壺が置かれていて、金貨の枚数を言い合っている。

 きっとこれはセリというやつだ。

 リリアンはそんな光景に目もくれず、一目散に部屋の隅に佇む商人のもとへ歩いていく。

「これはリリアン殿。本日もいい品が手に入ったのですかな?」

「ええ。さっそく見てほしいんだけど」

「どうやら見知った間柄のようですね」

 リリアンは布袋を逆さに向けると、さきほど盗んできたばかりの宝石や指輪が音を立てて地面に散らばった。

 見たことのない方玉やアクセサリーもあった。きっと僕に出会う前に盗んだものだろう。

「ふむふむ、これはすごい……」

 どうやら感心しているようだ。あいにくこれらの品がどれほどの価値を持つものなのかは、ネコの僕には分からない。

「では、金貨100枚ではどうでしょう?」

「話にならないわ」

「では、130――」

「200枚」

「それはさすがにこちらの経営が破綻してしまいます。せめて180枚で……」

「200枚」

 リリアンは頑として譲らない。

「……分かりました。200枚で買い取りましょう」

 交渉成立。

 金貨を一枚一枚、床に積み上げながらリリアンはそれらの枚数を数えていく。

「まずまずの成果ね」

 どうやら正確に200枚あったようだ。これらの金貨を手で掴み、袋の中に投げ込んでいく。

 ふと辺りを見渡すと、周囲の人たちの視線がリリアンに集まっていた。

 誰も彼もが、鳩が豆鉄砲を喰らったような形相で目を見開いていた。

「見てんじゃないわよ、しっしっ」

 鬱陶しそうにリリアンは言うと、手で追い払うような仕草をした。


 闇市を出ると、そのままリリアンは教会へ直行した。

 窓からは光が漏れている。

 どうやらまだ開いているようだ。

 リリアンが何度かノックをすると、扉が開いた。

「あら、リリアンさん。どうなされました?」

 出てきたのはダリアさんだ。手にはランタンを携えている。

「夜分失礼。はい、これ」

 布袋を渡す。

「…………」

 ダリアさんは怪訝そうにその中身を見つめる。

「これは……!」

「200枚あるわ。教会からの施しってことで、貧民街の人たちに分け与えてあげてよ」

 ダリアさんは押し黙ってしまった。

「……ありがとうございます。何てお礼を言ったらいいか……」

「いいの、いいの♪ じゃ、あたしはこれで」

 そう言ってリリアンは背を向ける

「お待ちください。やはり直接あなたの方から、みんなに配って頂いた方がいいと思うのです」

「あたし苦手なのよねー。誰かから感謝されるのって。ここらじゃ、あたしのことを義賊って呼ぶ人もいるって言うじゃん? あたし、別にそんな大それた存在じゃないから」

「ならばせめて、今夜寝る場所ぐらいはご用意させてください」

「だから、もういって」

 リリアンは去っていこうとする。

「お願いします。お願いします」

 何度も頭を下げられ、リリアンはしぶしぶ応じることになった。

 リリアンと一緒に僕とシャルロットも中へ案内される。

 階段を上り二階へ。

 廊下を歩きながらダリアさんがリリアンにたずねた。

「ところでこちらのネコさんは?

 ダリアさんの視線は、僕の隣を歩くシャルロットへと向けられている。

 確かにダリアさんにしてみれば、いきなり一匹増えたわけだから不思議だろう。

「あのクソ領主の城から奪ってきたの。ソラが一目ぼれしちゃったみたいだから事のついでにね」

 僕は、かっと顔が熱くなった。

「ちょっと! 適当なこと言わないでよ!」

「ほら、顔を真っ赤にして喜んでるでしょ?」

「そうですか。ネコちゃんの恋を応援してあげるなんて、殊勝な方ですね」

 くそ……。確かにシャルロットは可愛いけど……一目惚れだなんて心にもないことを……。

「あら? あたくしでは不服ですか?」

 シャルロットが目を丸くして僕を見てきた。

「そ、そういうつもりじゃ……!」

「気に入ってくれたみたいで何よりです」

 にこりと笑うシャルロット。

 なんだよ。二人して僕のことをからかって……!

「そういえばさ、あの女の人、どう?」

「だいぶ落ち着きを取り戻しましたよ。テッドとリッドが付き添っています。……ただ、下の子を亡くしてしまったという現実は未だ受け入れられずにいるみたいですが……。心配ですので今晩はここに泊まってもらうことにしました」

「そう……。よくなるといいわね」

 突き当たりの部屋の前まで来て、ダリアさんは足を止めた。

「では、ここをお使いください。湯船もご用意いたしておりますので、寝る前にぜひご利用ください」

「ありがとう。遠慮なく使わせてもらうわ」

「では、私はこれで」


 そして。

 リリアンは肩に背負っていた布袋を床に放り投げると、湯船に浸かりに離れへと行ってしまった。

 机の上に置かれたランタンの炎はさきほどリリアンが消してしまったので、窓から差し込む月光だけが部屋を照らしている。

 ちなみにリリアンがここを出て行くときに僕らも一緒に来るように誘われた。

 リリアンは意地悪だ、ネコは水が苦手と分かっていながらそんなことを言うんだから。

 僕はシャルロットと肩を並べて、ふかふかの布団の上で丸まっていたけど、一向に眠りにつくことはできなかった。

 仕方ない。

 僕は体を起こすと、窓際まで歩いていって、窓の外の景色に目を凝らした。

 人はおろかネコさえもいない殺伐とした路地が広がっているだけだった。

「眠れないんですか?」

 背後から声。

 振り返る。

 どうやらシャルロットもずっと起きていたようだ。

「うん。……おかしいな。最近、夜になると目が冴えるんだ」

「それはそうですよ。ネコは本来夜行性なのですから」

「でも僕は……」

 アリーサさんと暮らしていた頃は、朝起きて、夜寝る規則正しい生活を送っていたんだ。

だけどいつからか、夜になると無性にテンションが上がり始めてきて……。だからこっそりとアリーサさんの目を盗んで夜に出歩くようになった。

 もしかして、そんな悪さばかりしていたからアリーサさんは僕を見放したのかな……?

「どうしたのですか?」

「……いや、何でもないよ」

「きっと大切な人のことを考えていたんですね」

「どうして分かったの?」

「とても儚くて、寂しそうな目をしていましたから」

「…………」

 そんな目をしていたのかな、僕。

「うん。アリーサさんって言うんだ、その人。身よりのない僕を引き取って、育ててくれた恩人さ。また会いたいなぁ……」

「うふふ、あたくしにもいます、そういう方が」

「え?」

 意表を突かれた。

「ただ、あたくしの場合は人じゃなくて、同じネコですけどね」

「ネコ?」

「あたくしの生みの親です」

 生みの親……。

 一応僕にもそういう存在はいたはずなのだけど、あいにくほとんど覚えていない。

「あたくしは三ヶ月前にドメニコス様に貰われるまで、どこかの……おそらく高貴な人のお屋敷で暮らしていました。あいにくその場所がどこだったのかは記憶にありません。だけど、あたくしを生み育ててくれた母ネコの顔ははっきり覚えています。……忘れるはずがありません」

 つまり、飼い猫に子供が生まれたから、ほかの人のところ――すなわちドメニコス領主のもとへ貰われたということなのだろう。

 無理やり引き剥がされるネコの側にしてみればたまったものじゃないけど、人間社会ではそういうことがよくあるとアリーサさんが言ってた。

「だからあたくしは会いに行きます。何年かかっても、必ず探し出します!」

 なんだろう、胸の奥が熱くなった。

 きっと僕にとってのアリーサさんが、シャルロットにとっての生みの親なんだろうと思った。

「うん、僕にできることならいくらでも協力するよ。きっとリリアンだって手を貸してくれると思う。肩書きは盗賊だけど、根は悪い子じゃないと思うから……。だからこれからは、どんどん僕たちを頼ってよ!」

 そう言って、僕は拳を固めた。

 シャルロットは上品に微笑む。

「ありがとうございます。とても頼もしいですわ」

 シャルロットは背を向けて、窓際まで足を進める。

「では、行きましょうか。わたしも参加するのは初めてですが、そろそろ始まる頃合いだと思います」

「え?」

「ネコの集会です」


     ◇◇◇


 誰もいない静まりかえった路地。明かりもほとんどない。

 僕はシャルロットと肩を並べて、夜目を利かせながら進む。

 特にこれといって辺りにネコの気配は感じられないけれど……。

「ネコの集会……。本当に行われるのかな?」

 僕は歩きながらシャルロットに目線を送る。

「必ず行われるはずです。母が言っていました。ソラは聞いたことがありませんか?」

「そういえば……」

 いつの日だったか、僕がアリーサさんに外の世界についての話をねだったときに、アリーサさんが聞かせてくれた話の一節。野生のネコは夜になると集まって、いろんなことを話し合うとか。

「……ん?」

 ふと、匂いを感じた。ネコの匂いだ。

「匂いがする……もしかしたらこっちかもしれない」

 僕が言うと、

「……あたくしには何も感じませんが……」

「でも間違いないよ。これはネコの匂いだ。……それも、結構な数がひしめいている。とにかく行ってみよう」

 僕は早足で足を進める。シャルロットも戸惑いながらも僕の後をついてくる。

 そこは路地を抜けた先だった。こじんまりとした広場。月光に照らされ、8匹ほどの様々な猫種(といっても、主に混血だけど)のネコが集っていた。

 シャルロットは目を見開き、関心しているようだ。

「ソラは嗅覚が優れているのかもしれませんね。驚きました」

「ははは」

 そう言われると、素直に嬉しい。

 そして思った。僕の嗅覚って優れてたんだって。これは新たな発見だ。

 こみ上げる興奮に体をわなわなと震わせていたときだった。

「おい、見慣れねーのがいるぜ」

 聞こえてきたのは図太い声。とびきり太ったデブのトラネコが睨みをきかせながら僕の方へと歩いてくる。

「あれはきっとボスネコですね」

「……え……あ……」

 凝り固まる僕。

「おめえらは”縄張り”っつーのを知らねえのか。この余所者共め。今すぐここから出てけ!」

「あ、はい!」

 言われた通り退散しようとしたところで、

「嫌です。あたくしたちも仲間に入れてくださいませんか?」

 僕の隣に立つシャルロットは頑として引く様子はない。

「なめてんのか! おめぇ! こら!」

 ボスネコはシャルロットへと顔をぐいっと近づける。他のネコたちも、にやにや笑いながら寄ってきた。

 ……まずい。明らかに一触即発の空気だ。

「喧嘩ですか? そうですか? そうなんですね。ではソラ、後は任せました」

 さっと僕の背後に下がるシャルロット。

「ええええええぇぇぇぇぇ!?」

 そもそも喧嘩なんて一度もしたことないし!

 思いも寄らぬ事態に、おろおろしていると、

「フシャアアアアアアアアアアアァァァァ!!」

 ボスネコは僕めがけて飛びかかってくる。

「ひぃ!!」

 あっという間に僕は組み敷かれてしまった。

 アリーサさんが読み聞かせてくれた絵本で見たことがある。ネコの喧嘩は一瞬で決着がつくと。

 ということは、これは僕の敗北――。観念しかけたそのときだった。

「シャアアアアアア!!」

 シャルロットが側方からボスネコへと体当たりを決めた。ボスネコの体は地面に叩きつけられる。

「ソラ! 今です! 一刀両断してください!」

 一刀両断って……。

 ほんの一瞬とも言える時間。僕は咄嗟に起き上がり、無我夢中で右前足を振り回した。

「ぎひっ!」

 そのうちの一撃が、ボスネコの頬をひっかいた。傷口から吹き出した血が僕の眉間にかかった。

 ひんやりとした風が吹き、辺りが嘘のように静まり返る。

「……くっ。なかなかやるじゃねえか……おめぇら……。二匹がかりとは言え、オレ様にここまで肉薄するとはな。分かった。認めてやろう。オメエらも集会に加わるがいい」

「やりましたね!」

 シャルロットは僕に背中から抱きついてくる。

「うん! やったよ、僕!」

 よく分からないままに僕らは仲間として認められることになり、ネコの集会に参加することになった。


「――で、今日、急襲をかける場所は、例の古民家だ」

 ボスネコが言うと、続けて、

「あそこの軒下に、ネズミの巣があるのですね」

 ボスネコの妻と思しきネコが告げる。

「三時間前に確認しただけでもチビネズミが10数匹はいた。オレたちの腹を満たすには十分だろうよ。今は親ネズミが餌を取りに行っている時間だ。襲うなら今が頃合いだ」

 僕はシャルロットに問いかける。

「……いいのかな? ネズミにだって家族がいるのに、こんな大所帯で襲撃をかけるなんて……。もうちょっとやり方が……」

「やり方はどうであれ、最後は殺す――殺生をすることには変わりないのではないですか?」

「……だけど、大事な我が子を殺された親ネズミの気持ちになって考えると、僕は……」

「それは、情けですか? 良心の呵責ですか?」

「…………」

 僕としては躊躇いがあった。その躊躇いがどこから生じたのかは分からない。僕だって肉食だ。アリーサさんに飼われていた頃も当たり前のように薫製肉を食べていた。そういう意味では、僕も命を奪って生きていることには変わりがないのに。

「野生のネコは殺生をしないと生きていけません。自然の摂理です。情けをかけていたらこちらが殺られます。弱肉強食というやつです。ソラだって、今までまったく手を汚してこなかったわけではないでしょう?」

「…………」

 数時間前に手負いのスズメを殺して食べたときのことを思い出す。

「……そうだね。僕が言えた義理じゃないね」

 そうだ。僕には殺生について、それがどんなやり方であれ、良心の呵責を感じる資格なんてもはやないんだ。

 そう、僕は生きるために殺すことに対して、非情な心をもって割り切らなければいけないのだろう。

 それが野生の世界で生きると言うこと……。

「では行きましょうか」

「うん」


「よし、ここだ」

 古びた煉瓦造りの民家。塀を乗り越え、ボスネコが指さした場所を窺う。その軒下には確かに優に10を超えるチビネズミが親ネズミの帰宅を待って、そわそわしていた。

 会話が聞こえてくる。

「帰ってくるの、おそいなー」「お腹すいたよー」「ボク、様子見に行ってくるよ」「だめだよ、お兄ちゃん。外は危険だよ!」「うーん、じゃあ、もう少し待ってるかなー」

 胸がちくちくと疼く。これから僕たちはこの子ネズミたちを殺すのか……。

「よし、いくぞ! おめえら!」

「おお!!」

 号令と共に、一気に襲いかかるネコたち。

 僕とシャルロットも後を続く。

 それからは一瞬だった。チビネズミの首に噛みついて、次々と息の根を止めていく。

 チビネズミたちのほとんどは断末魔を一瞬だけ上げただけで、すぐに息耐えた。苦痛さえも感じる余裕はなかっただろう。

 僕も一匹殺した。

 シャルロットは二匹殺した。

 辺りは血の海だ。血溜まりの上で、僕らは獲物をむさぼり食う。

 まだ温かかった。命の名残が感じられた。

 僕はがむしゃらになって内蔵をかみ砕きながら、涙をこぼしていた。

 どうして泣いているのか自分でも分からなかった。

 そして僕の内なる狩猟本能は、最大限にまで活性化していた。アリーサさんに飼われていた頃には感じることのなかった本能だ。

 僕は思う。野生として着実に目覚めつつある、と。


 帰路に就く僕ら。

 ボスネコは去り際に僕らに向かって「また明日なー」と言ってくれた。僕とシャルロットは手を振って、別れを名残惜しんだ。

 僕の顔は返り血で真っ赤に染まっていた。

 さらには、沸き上がる狩猟本能で全身が満たされていた。この逸る気持ちを、どう持て余していいのか分からなかった。

 教会の前まで来て、

「今夜は、ありがとうございました」

 畏まって言うシャルロット。

「いやいや、僕も貴重な体験をさせてもらったよ。外の世界って、こんな感じなんだって」

「そう言ってもらえると何よりです。あたくし、今、自信に満ちあふれています」

「自信?」

「はい。外の世界で生き抜いていけるという自信です」

 そう言ってシャルロットはにこりと笑った。


 外壁の蔦に脚をかけて、二階の窓へと戻る。

 部屋を抜け出したときは真っ暗だったのに、今はランタンの灯りがついていた。

 ということは……。

 リリアンがベッドに腰掛けて僕らの到着を待っていた。

「なーんだ、戻って来ちゃったか」

 あっけらかんと言うリリアン。

 大目玉をくらうと思っていたばかりに拍子抜けしてしまった。

「てっきりあたしは二匹で駆け落ちしたと思ったんだけどなー。ざーんねん」

 思わず僕とシャルロットは顔を見合わせ、苦笑いしてしまう。

「じゃ、あたしは寝るわー。おやすみ」

 そう言ってリリアンはランタンの灯りを吐息で消した。

 僕が床に丸まると、隣にシャルロットも身を寄せてくる。

 ――そして僕らは、いろんなことを語り合った。

 互いの夢、信念、好きなもの、嫌いなもの。

 いかにアリーサさんが僕に優しかったについて。

 いかにシャルロットの母ネコがネコにもかかわらず博識だったかについて。

 人間社会を支配する貨幣経済、裏社会を牛じる闇市などの知識は全て母ネコから聞かされたことなのだと。

 僕は思った、彼女とはいい”友達”になれそうだって。


 ――アリーサさん。僕、初めて友達ができたよ。


     三


 まどろみから目覚めると、ひんやりとした風が頬を通り過ぎていった。

 ……なんだろう、この臭い。

 肉の腐ったような臭いだ。

 目を開け、顔を上げると、窓が開け放しになっていた。

 あれ? 昨夜は開いていなかったはずなのに? リリアンが開けたのかな?

 僕は起き上がって足を進める。

 窓の下まで来たときだった。

「……!?」

 僕はギョッとして全身の毛を逆立てた。

 そこに転がっていたのは、ネズミの死骸。

 大人のネズミだ。その顔はどことなく、僕らが昨夜に殺生した子ネズミたちに似ていた。

「もしかして……」

 あのとき、僕が口にした言葉が脳裏を過ぎる。


『……だけど、大事な我が子を殺された親ネズミの気持ちになって考えると、僕は……』


 そっか……。僕の気持ちを汲んでシャルロットが……。

 目を向けると、シャルロットの姿はどこにも見当たらない。

「あれ……? シャルロット?」

 部屋中を見渡してみるがどこにもいない。

「リリアン、起きて! シャルロットがいないんだ!」

 リリアンはおもむろに目を開けると、上体を起こした。

「……やっぱり」

 呆然とリリアンは言った。

「やっぱりって……」

「なんとなく、こうなるような気がしていたわ」

「何してるんだよ! 早く追いかけないと!」

「追いかけてどうする気?」

 リリアンは冷めた目で僕を見る。

「きっとあの子は誰にも縛られず、一人で生きていくことを選んだんだと思うわ。たとえ首に縄かけて無理やり連れ戻したとしても、また同じことを繰り返すのは目に見ている」

「……シャルロット」


 ふと僕の脳裏に昨夜の会話が去来する。


『今夜は、ありがとうございました』

『いやいや、僕も貴重な体験をさせてもらったよ。外の世界って、こんな感じなんだって』

『そう言ってもらえると何よりです。あたくし、今、自信に満ちあふれています』

『自信?』

『はい。外の世界で生き抜いていけるという自信です』

 

 シャルロットはこのときから腹を括っていたのか……。


 リリアンは立ち上がる。

 そして窓の外に目を凝らして、一言。

「来るもの拒まず、去るもの追わず。あたしとあの子は”家族”になれなかったのよ」

 振り返って、僕を見ると、

「なんなら、ソラもシャルロットの後に続いてみる?」

「…………」

 僕は上の空だった。

 ぽかんと心に穴が開いてしまったような、そんな気持ち……。

 リリアンが出立に向けて身支度を整えている間、僕はシャルロットが残していった親ネズミの死骸を一心不乱に貪り食べた。

 今にも溢れそうになる涙を必死に堪えながら。

 なんとなく、ここで泣いてしまったら敗けのような気がした。これも野生の本能なのか、ただの意地なのかは分からない。

 唯一確信を持って言えることは、この味を僕は生涯忘れることはないだろう――。

 


 ――それから、礼拝堂に住民を集め、教会からの施しということで金貨が配られた。

 もちろんほかの地区の人には内緒の上でだ。

 その光景を横目にリリアンは、礼拝堂を通り過ぎて表に出ようとする。そのとき、

「ありがとう! ありがとう!」

 リリアンの前に人だかりができた。

 ダリアさんが申し訳なさそうに頭を下げる。

「ごめんなさい。クララが全部話してしまいまして……」

「リリアンお姉ちゃん! みんなのヒーローだね!」

 クララがリリアンの正面に立ち、にこにこ笑いながら言った。

「そ、そんな殊勝な女じゃないから、あたしっ!」

 リリアンは人混みをかきわけ、気まずそうにさっさと教会を出て行ってしまった

 青空の下、一言。

「やっぱ恥ずかしいわぁ……」

 リリアンの頬は真っ赤に染まっていた。

「……はぁ。こうなったら激辛チャーハンでも食べて、心を落ち着かせないと!」

「……どうしてそうなるのさ!」

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