第3話 義賊リリアン
――夢を見ていた。
それは僕にとって原初の記憶。
まだ幼かった僕は漆黒の闇の中で震えていた。
「みんな、どこに行ってしまったの……寒いよ……」
僕には姉妹がいた。何人いたかはもう覚えていない。母ネコに連れられて、次のねぐらを探しているとき、僕だけ足を踏み外してこの井戸に落ちてしまったのだった。
すっかり干上がってしまった井戸。
水もなければ食べ物もない。
僕は助けを求めて、ひたすら鳴き続けた。
どれぐらい時間が過ぎただろうか、喉が枯れてまともに声が出なくなった頃、その人は現れた。
その人――アリーサさんはロープを下ろして、僕のいるところまで降りてきた。
「震えている……かわいそう……」
アリーサさんは僕を、そっと抱きしめた。
「もう大丈夫だよ。これから君はうちの子。さ、一緒に行こうね」
ここで僕の記憶は一旦途切れている。
おそらく、緊張が一気に解けて気を失ってしまったんだと思う。
次の記憶は、アリーサさんの診療所だ。
僕は木皿に盛られた温かいお粥を平らげると、僕の目の前でしゃがみ込んでいるアリーサさんにたずねた。
「どうして僕としゃべれるの?」
「わたしは生まれつき動物と会話することができるんだ。稀にいるの。そういう力を持った人たちが」
「そうなんだ。僕、お姉さんが初めてだよ」
このとき、僕はアリーサさんのことを完全に信用しきっていたわけではなかった。
僕は人間に対する恐怖がまだ残っていた。
移動を開始する前、民家の軒下で雨風を凌いでいた僕らは、激昂した人間によって煉瓦を投げつけられる形で住処を追われたのだった。
そりゃ、そこに住んでいる人にとっては僕らは招かれざる客だったんだろうけど……。
「君、名前は何て言うの?」
「……まだないよ。名前つけてもらう前に離ればなれになってしまったから」
「そう。じゃあ、わたしがつけてあげる」
そして、一呼吸置いて、アリーサさんは告げた。
「ソラ」
「ソラ……?」
「わたしたち人間の言葉で”青空”という意味よ。だってソラの瞳、晴れた日の青空のように澄み切っているから――」
このとき僕は、もう一度だけ人間を信用してみようと思ったんだ。
◇◇◇
一面に広がる大草原。
「はぁ……はぁ……ぜぇ……ぜぇ……」
なかなか捕まえられない。
狙うは、目の前の小鳥の群れ。
後少しというところで、飛び立たれて逃げられてしまう。
「ソラったら、ネコのくせにどんくさいのね」
人の背丈ほどある岩石に腰かけたリリアンは足をぷらぷらさせながら、呆れたように呟いた。
「ソラに足りないのは瞬発力ね。そして隠密性。気づかれないように背後から忍び寄っていって、一瞬のうちに仕留めるのよ」
「……うん。もう一度頑張ってみる」
そして――。
結局、一匹たりとも捕まえることはできなかった。
気づかれないように忍び寄ることを意識すれば行動が遅くなって、すんでのところで気づかれて逃げられてしまう。かといって、瞬発力を発揮することを意識すれば、気配が丸分かりになって、やっぱり腕を振り上げる頃には逃げられてしまう。
僕はどうすればいいんだろう。
頭を抱えて悩んでいると、
「もういいわ。行くわよ」
「え、で、でも……」
「お腹がすいたの。もう耐えられないわ」
そうして、リリアンは一人で歩いていってしまう。
「待ってよ!」
僕も慌てて後を追いかける。
リリアンが進む道の先には、街のようなものが見える。
歩くこと、約15分。
辿り着いた場所は、長閑な田舎町。白を基調とした家々が一定間隔で軒を連ねている。王都とは比べ物にならないほど小さな町。人通りも少なくて、屋根の上では野良猫が大きくあくびをしていた。
「ついてきて」
僕はリリアンの後について進む。
と、そのときだった。一陣の風が吹いた。
「あ、」
リリアンが気の抜けた声で言う。
結び方が甘かったんだろう――リリアンの腕に巻かれていたサラシが風に吹かれて飛んでいった。隠されていた二の腕が露わになる。
「……この痣!」
僕は目を見張った。
それはアリーサさんの腕にあるものと全く同じものだった。位置も形も色合いも瓜二つだ。
このとき、僕の中に疑念が生まれた。
「まさかリリアン、君って……」
リリアンは観念したように言った。
「はぁ……ばれちゃったか。……そうよ。あたしはあの女の血を分けた妹よ」
……やっぱり。
背丈はアリーサさんと頭一つ分違うけど、どこか似ていると思っていたんだ。
でも一つ、理解できないことがあった。
「妙だよ。どうして、実のお姉さんのことを”あの女”だなんて言うのさ?」
「決まってるじゃない? あたしがあの女のことを憎んでいるからよ」
リリアンは、さらりと言ってのけた。
「憎んでいる?」
「あんなの、姉だなんて呼びたくないわ。……だってあの女は、あたしを捨てたんだから」
リリアンは僕を冷めた目で見据える。
「そう、あんたを川に流したのと同じようにね」
冷淡な声色に、僕の胸は激しく高鳴り始める。
「違う! アリーサさんはそんな人じゃない!」
僕はたまらず叫んだ。
「だって……だって……アリーサさんは……僕を……」
あんなに可愛がってくれていたのだから、と言おうとしたとき、不意に腹の虫が鳴った。それはもう、みっともないほど、大きな音を立てて。
「あ……」
顔が、かっと熱くなる。
リリアンは、くすっと笑った。
「体は正直ね。さ、行くわよ」
「どこに!?」
「腹ごしらえよ」
リリアンの後について向かった先は、食事処だ。
この手の場所は僕もアリーサさんに連れられて何度か行ったことがあるけど、ここはもっと品がない感じだ。
まだ朝だというのに飲んだくれている人もいるし、殴り合いの喧嘩をしている人もいるし……。
何より恐ろしいというのは、そうした光景をみんな当たり前のように受け入れていることだ。
今まさに激しい殴り合いが繰り広げられているその間隙をすり抜けて、顔色一つ変えず給仕の女性が料理を運んできた。
「お、これが噂の新メニューか♪」
鼻を突く激臭。何物かと思い、背筋を伸ばして運ばれてきた料理を覗き込む。
「…………」
目を見張った。
ぐつぐつと煮立った赤茶色のスープに、蛙の頭が浮いていた。
見るからに怖気がしてきて、思わず体をぶるっと震わせた。
「おいしそー♪」
スプーンを手に取ったリリアンは目をきらきらと輝かせている。
「いただきまーす♪」
信じられない……こんなゲテモノをリリアンは食べるつもりなのか! 何なんだ、この子は!
しかしリリアンは思い返したようにスプーンをテーブルの上に戻すと、布袋の中から干し魚を取り出し、それを僕の足元に置いた。
「ほら、お食べ」
僕は、ぐっと唾を飲み込んだ。
「どうしたの? 早く食べなさいよ」
「…………」
「もしかしてお気に召さなかった? ネコって魚が好きって聞いてたんだけどね」
確かに僕はお腹ぺこぺこだ。だけど、僕はそれに手をつけるわけにはいかなかった。
「だめだよ。リリアン、言ったじゃないか? 自分の獲物は自分で捕まえなさいって。……僕は自分で餌を見つけてこなくちゃいけないんだ」
「今回は特別よ。まだ獲物の捕まえ方も知らないんでしょ?」
お腹の虫が鳴る。
「……だめだよ。やっぱり僕は……自分で……」
力が抜けていく。
「強情なネコね。好きにしなさい」
そう言って僕から目を逸らすと、スプーンを手に取った。
リリアンはスープを口へと流し込んでいく。顔色一つ変えることなく。
つい感心してしまう。
よくこんなもの食べれるよなぁ……。ほとんど血の色と変わりないのに。
本当に大丈夫かな、リリアン。
僕はリリアンの腰の裾をくいくいと引いて、
「ねえ、こんなもの食べて本当にだいじょう――」
言いかけたときだった。
「……何よ、これ。全然辛くないじゃない?」
不満そうに眉を顰めるリリアン。
思いもよらぬ一言に僕は目を大きく見張った。
「この程度じゃ、あたしを倒すことはできないわ! 唐辛子の量をもう5倍……いや、10倍増やして! 超・超・超・激辛でお願いっ!」
厨房に向かってリリアンが叫んだ。
場の空気は一気に静まり返り、その場にいる全員の注目がリリアンに集まる。
取っ組み合いをしていた男二人もそれぞれ手を振り上げたまま硬直し、リリアンを一心に見据えている。
「は、はい! すぐに!」
給仕の女性が皿を取って、厨房に戻っていく。
「さすがリリアン、辛いものには目がないな」「俺でも食えなかったメニューをよくもまあ……」
そこかしこから声が聞こえてきた。
一分ぐらいして、唐辛子が山のように積もったこの世のものとは思えない暗黒物質が運ばれてきた。
充満する激臭に耐えきれず、鼻を肉球で塞ぐ僕。
「ふふーん♪ なかなかおいしそうじゃんっ」
リリアンはたいそうご満悦の様子だ。
スプーンを持って、口に運んでいく。
「うーん、おいしっ!」
喚声と拍手が同時に上がる。
「一気!」「一気!」
リリアンは、にやりと笑う。
「よし! やったるわ! 皆の衆、しかとその目に焼き付けておきなさい!」
そう叫んで、器を両手にとって一気に飲み干した。
沸き起こるリリアンコール。
もうわけが分からない。
目に映る何もかもが僕にとっては知らない世界だ。
外の世界って、わけがわからないよ、アリーサさん――。
◇◇◇
「どうしたの?」
「な、なんでもない……」
僕はほとんどない体力を振り絞り、右に左にカクカクと揺れながら歩いていた。
リリアンは唇を真っ赤にして、坂の上から僕を振り返って見ている。
ちなみにあれからリリアンは例のゲテモノスープをおかわりまでした上で、リリアンのためにわざわざ用意されたというもう一つの新メニュー、ハバネロチャーハン(特盛)まで平らげる始末。
一体何なんだ、この子は……。ただものじゃないよ……。
「ほら、行くわよ」
ようやく追いついた僕にリリアンが感情のこもらない声で言う。
「う、うん……」
僕には気がかりなことがあった。
それは、リリアンが盗賊であるということだ。
アリーサさんが読み聞かせてくれた絵本の中で、必ずといっていいほど盗賊は成敗されるべき悪として描かれていた。
そりゃそうだ。人のものを盗んでいるんだから。
だけど今、僕は盗賊のリリアンと一緒にいる。
正直、複雑な心境だった。
リリアンから与えられた干し魚に手をつけることができなかったのも、単に僕の意地だけじゃなくて、そうした心境も関係しているのだと思う。
もしそれが誰かから盗んできたものだと考えると……。
そんな僕の葛藤をつゆも知らず、リリアンはテキパキと足を進めていく。
あんなに食べたにもかかわらず、よくこんな素早く動けるよなぁ……。
アリーサさんが小食だったから、なおさら際立つ。
しばらく歩いていると、タイミングを見計らったように路地から強面の筋骨隆々とした男が出てきた。
「おう、ちょっと待てや」
男はリリアンの前に立ちふさがる。
「てめえ……俺に協力するとか言っておきながら、こっそり”白銀のブレスレッド”を盗んでいきやがっただろう! 今まで散々協力してやったのに、不義理を働きやがって! このアマが!」
リリアンは溜め息を吐いた。
「不義理って……そもそもあれは通りすがりの女の子を脅して取り上げたものでしょ? あんたにどうのこうの言われる筋合いはないと思うけど?」
「……うるせえこのやろう! 今すぐ返しやがれ!」
「ざーんねんっ。もうないわ。持ち主に返しちゃった」
リリアンは、「てへっ♪」と舌を出した。
「てめえ……!」
男は拳を振り上げる。
「ひっ……」
ふと脳裏に浮かんだのは、僕がアリーサさんに拾われる前……軒下でひっそりと暮らしていた僕に煉瓦を投げつけてきた男の人。
眉間に皺を寄せたその表情……そっくりだ。
人間、怒るとみんな怖い顔になるのかな?
僕はその場で凝り固まってしまった。
そんな僕の動揺をよそにリリアンは一歩前へと踏み出す。
「リリアン??」
あり得ない。自ら飛び込んでいくなんて!
男の拳がリリアンの左頬へと迫る。
リリアンは横へと跳び、それをかわした。
男の拳が宙をかする。
リリアンは上半身を翻しつつ、懐からキラリと光るものを抜いた。
小型のサーベルだ。
男は振るった拳の勢いを殺しきれず、前のめりになっている。
リリアンは正面から飛びかかっていって男を背中から地面に押し倒した。
まるで時間が止まったような感覚――。
リリアンが構えるナイフの先端は男の喉下に当てられていた。
駆けつけた自警団により男の身柄は拘束、どこかへと連行されていく。
リリアンは手足に付いた泥を振り払いながら、実に清々しい表情で僕に視線を送ってきた。
「悪を成敗した後は気分が良いわぁ」
「リリアン、君は……」
「貧しい者からは奪わない。それがあたしの矜恃よ」
そう言って、リリアンはにこりと微笑んだ。
僕は思った。
確かにリリアンは盗賊だけど、僕の思い描いていた盗賊とは違うというか。ちゃんと自分というものを持っているんだなって。
このとき、僕の心を凍てつかせていた氷のような感情が溶けていくのを感じた。
二
その数時間後、僕は乗り合いの馬車の中にいた。
王都のある大陸まで渡るには、ラークオール島最北端の港町――フェルシア港まで移動する必要があるらしい。そこから王都へと通じる定期船が出ているとのこと。
これからいくつも馬車を乗り継いでフェルシア港を目指すのだという。
当面の目標は、リートゥスという街。
盗品を売りさばくための闇市場などもあって、わりと栄えている街らしい。
そして今――。
結局のところ、僕は空腹を抑えることができなかった。
そう、僕は今、食事にありついている。
地面に置かれた干し魚を一心不乱に頬張る。
「ガツガツ食べるねえ……」
リリアンが感心したように言う。
どこか気恥ずかしい。
「だって、だって……おなかすいてたから……」
「うん、それでよしっ。でも、今回だけだからね! これからは自分で取ること!」
残った皮の部分を一口で平らげると、僕はリリアンを見上げた。
やはり気まずさは消えなかった。
目を逸らし、地べたを見ながら小声で言った。
「……僕は弱いネコだ。空腹を抑えられなかった……。もしかして、こんなんだからアリーサさんは僕を捨てたのかも……」
「さぁ、そんなことは知ったこっちゃないわ」
リリアンは、あっけらからんと言う。
「……それにしてもあんた、丸いわね」
「は?」
「うん、丸い。真ん丸! 笑っちゃうぐらい丸顔ね!」
リリアンは僕を指差して、妙に感心している。
「ネコは丸いんだよ。面長のネコがいたら変だろう?」
「それもそうね。あははっ♪」
十人ほどの乗客を乗せた馬車は整備された街道を進む。のどかな牧草地帯が続く。
僕はリリアンの膝に座り、カーテンから顔を出して、外の光景に目を凝らしていた。
アリーサさんから聞かされていたように、ほんの10年前まで外は魔物に溢れていたのだと思うと、あまりにも平和すぎる。
その辺でネコが昼寝をしている姿が垣間見れるほどだ。
ここが憧れていた外の世界なんだと思うと、少しばかり胸が躍った。
だけどまたすぐに寂しさが胸を襲う。
やっぱり僕は常にアリーサさんが一緒にいてくれないとだめなんだ。
退屈だった日常にうんざりしていたことは事実だけど、アリーサさんが傍にいてくれたというだけで幸せだったんだ。
感傷に浸っていたときだった。
背後に気配を感じた。
「わー、ネコちゃんかわいいー!」
ぎゅっと抱きしめられる。
僕を抱きしめていたのは、幼い少女だった。
肩につくくらいの銀色の髪を揺らし、頬を紅潮させ、つぶらな瞳を輝かせながら僕を見つめている。
王都にいたときも小さい子に抱きしめられるのは年がら年中だ。
僕は安心して体を任せた。
「なでなで、なでなで……」
背中を撫でていた少女の指が僕の尻尾の付け根に触れた。
「うにゃおぉぉぉ~ん」
つい気持ちよくて声をあげてしまう
リリアンは少し離れたところからこちらを見て、くすくすと笑っている。
「もう、クララっ。だめでしょ、勝手に私の傍から離れたら」
背後から別の女性の声が聞こえてきた。
少女の肩越しにそちらの方へ目を向ける。
そこにいたのは、紺色のシスター服を身に纏った女性だった。少女と同じ銀色の髪は腰まで伸びていて、どこか気高い気風を漂わせている。
「きっと迷い込んでしまったのね。かわいそうだから一度馬車を止めてもらって、その辺に――」
リリアンが目をぎょっとさせる。
「違うわ。これは、あたしの――」
女の子の視線がリリアンの方へ向いた。
「あ、あのときのお姉ちゃん!」
そして――。
女性はダリアと名乗って、深々と頭を下げた。
「どうもありがとうございます。あと、面倒かけてごめんなさいね。これ、妹のクララが勝手に持ち出しちゃって……」
ダリアさんの手首には、銀色に輝くブレスレットがはめられていた。
「へぇ、この子、あんたの妹さんだったんだ」
「本当に、本当にありがとうございました。これは母の形見だったんです」
ダリアさんは何度も頭を下げた。
「別にお礼なんて言われる筋合いないわ。そもそもあたしとしては、単にあの男のことが気にくわなかったから叩きのめしてやっただけ。事のついでよ」
どうやら話を聞いていると、クララが勝手にダリアさんの部屋から腕輪を持ち出して、それを友達に見せびらかしていたときにあの強面の男に奪い取られたらしい。それをリリアンが取り返したと。
「それでもお礼をせずにはいられません。どうか私と一緒に来てくれませんか?」
「あんたも知ってるでしょ? あたしは盗賊よ? 盗むことが生業の悪。そんな得体の知れない奴とあんたみたいな聖職者が一緒にいたら、いろいろまずいんじゃない?」
そう言ってリリアンは脚を組んだ。
ダリアさんは微笑した。
「大丈夫ですよ。リリアンさんのことを悪だと思っている人は私の知っている限り、誰もいませんから」
クララは、まるで親しい友達に接するように、リリアンの腕を引いて振り子のように揺らしている。
「そうだよー。だから一緒に行こっ♪」
クララはリリアンの腕を掴んだまま、陽気にぴょんぴょんとその場で飛び跳ねる。
リリアンは眉毛を下げ、困った顔をしていた。
不覚にもその表情は、アリーサさんのそれと重なった。
アリーサさんはただでさえも下がり気味の眉だったけど、下がり具合には限界があるようで、僕が困らせるようなことを言ったときはリリアンと同じ位置で眉毛を下げた。
やはり、血は争えないんだなぁ……。
しみじみとしていると、不意に尻尾に激痛が走った――。
「うにゃあん!」
思いっきり飛び上がる僕。
「あ、ネコちゃんごめんっ!」
なるほど、クララが着地したときに僕の尻尾を踏みつけてしまったのか――。
気がつけば天井すれすれのところに僕の頭はあった。
そのまま落下――リリアンの顔に覆いかぶさる。
「……ちょ、ちょっとソラ!」
リリアンは僕を引き剥がすと、地面に放り投げた。
「もう、クララったら!」
「……ごめんなさい」
ダリアさんに怒られるクララ。しょんぼりと頭を下げている。
どうにか尻尾の激痛を堪えながら立ち上がると、伝わらないとは分かりつつも僕は一言ダリアさんに声をかけた。
「僕は、だ……大丈夫だから、怒らないであげて」
そして、肉球でダリアさんの膝頭を何度か撫でた。
言葉は伝わらなくても気持ちは伝わったと思う。
ダリアさんは、はぁと溜め息を吐いた。
ダリアさんが怒るのをやめたあとでも、クララは申し訳なさそうに下を向いていた。
なんだろう、この緊迫した空気……。とても居た堪れないというか……。
そのとき、
「へっくしょん!」
気まずい空気を断ち切るようにリリアンが大声でくしゃみをした。
「くしゅん! くしゅん!」
「リ、リリアン……?」
リリアンの腕には、赤い斑点がいくつもできていた。
なんなんだ、これ……?
ダリアさんは、リリアンの腕をそっと取った。
「典型的なネコアレルギーですね」
「べ、別に言われなくても知っているわ、それぐらい」
リリアンはポケットから取り出した布で鼻水を拭いながら何事もなかったようにしている。
ダリアさんは怪訝な様子でたずねた。
「じゃあどうしてネコを連れて?」
「……単にネコが好きだからよ。何か文句ある?」
「いえ……」
ダリアさんは首を横に振った。
「……対策としては、なるべくネコに触らないこと。体毛に付着している成分を吸い込まないこと。それぐらいですね」
「うん、分かってる。だから極力ソラには触れないようにしている」
「そうですか……」
気まずそうにダリアさんは目を逸らした。
リリアンは不快そうに言った。
「……何よ? 何か言いたいことがあるなら正直に言いなさいよ?」
ダリアさんは一呼吸置いて言う。
「辛くありませんか? ネコが好きなのに、触れ合うことができないなんて?」
「それは……」
リリアンは返答に困っているようだった。
ふと僕の中に戸惑いが生じる。どうしてリリアンは僕のことを受け入れてくれたんだろう? だってネコアレルギーなのに……。もしかして僕、リリアンに余計な負担をかけさせてしまっているのかも……。
そのときだった。クララが僕を背後から抱きかかえてきた。
「ネーコーちゃん!」
「わっ」
そのまま平らな胸に埋もれる。
「へへへー♪ もふもふ♪」
抱きしめられながら、頬ずりされたり、顎の辺りを撫で撫でされたり……。この感触……とても心地よい……。
「ぅにゃおおおおぉぉぉん」
つい甲高い声をあげてしまう僕。
リリアンはそんな僕を見ながら、そっと言った。
「あたしは見ているだけで幸せなのよ」
どこか遠い眼差しだった。まるで遠い故郷に思いを馳せるように。
それからリリアンとダリアさんは肩を並べて、他愛のない話をしていた。
どうやらダリア姉妹は病の治療のために、僕らがさっきまでいたトールシアという街に滞在していたらしい。
神に誓い、”白き光明(リヒト・メーゲン)”を授けられた人のことを”白導士(マーギアー)”という。
白導士といっても在り方は様々で、ダリアさんの場合は、普段は教会に身を置き、教えを広め、病に苦しむ人たちのために尽力していた。
しかしその場合ごく限られた力しか与えられず、アリーサさんのように一日も何人も治療することはできないのだとか。
アリーサさんは生まれながらの特別な才能を持っているのだという。
「あなたのお姉さまのことを知らない人は王国に誰もいませんよ」
ダリアさんがリリアンにそう言ったとき、リリアンは複雑な表情を浮かべていた。
「あのねぇ、あたしはアリーサのことなんか――」
リリアンが言いかけたそのときだった。
足元が大きく揺れた。
「……っ!」
僕は軽く飛び上がる。
「な、何、これ??」
慌てふためきながら、辺りを行ったり来たりする僕。
揺れは断続的に続いている。
リリアンは、くすっと微笑しながら、
「臆病なネコね~。”つり橋”を渡ってるんだから揺れるのは当然でしょ?」
「つり橋……」
そういえばアリーサさんが読み聞かせてくれた絵本の中にそんなイラストがあった。風に吹かれれば今にも吹き飛んでしまいそうな木製のなよなよした架け橋を、子猫の兄弟がてくてくと渡っていた。
僕はおそるおそる背中を伸ばしてカーテンを開けてみる。
そこに広がっていた景色は――。
「ひいいいぃぃぃっっ!!」
僕は眼を力いっぱいに閉じ、地面にひれ伏す。
怖い怖い怖い怖い!!
実際に見るそれは絵本で見たイラストよりも、よっぽど現実感があって恐ろしいものだった。
みしみしと音が鳴っているし、大きく左右に揺れている。いつ板が抜けて奈落の底に落ちてもおかしくない。
「……あ」
背後から抱きかかえられる。
「ソラは恐がりなんだねぇー」
僕を抱きしめたのはクララだった。
「ほうら、よしよし……♪」
頭を撫でられる。なんだろう、とても心地よい。
「なおおおぉぉぉぉん」
つい甘えた声を出してしまう。
恐怖も同じくらいあるのに、今はただ心地良くて……。
クララの胸に顔を埋めながら思う。
とても良い匂いだなぁと。
小さい子特有のものだろうか。いろんなフルーツの香りをミックスさせたような甘い香り。
「ふんっ……!」
リリアンはどこか不機嫌そうに僕を見ていた。
「どうせあたしなんかには抱っこされたくないんでしょっ!」
……どうしてそうなるかな。
ていうかそもそも、リリアン、ネコアレルギーだから触ることできないって言ってたばかりだし。
「クスクス」
そんな僕らを見ていてダリアさんは微笑んでいる。
クララに抱えられたまま、ふと外の景色に目をやったときだった。
「……あれ? 何かいる?」
橋の終点に、黒装束で姿を覆った二人組が待ち構えていた。
僕はたまらず叫んだ。
「こんなところにいたら危ないよ! 轢かれちゃう!」
みんなの注目が僕に集まる。
……あ、そっか。みんなには僕が大きな声で鳴いたようにしか聞こえないだろう。獣通力を持つリリアンを除いて。
僕は地面に下りて、リリアンの腕の裾をくいくいと引っ張りながら、
「ねえねえ、リリアンも声をかけてあげてよ!」
「その必要はないわ」
「どうして!?」
信じられなかった。リリアンの口からそんな薄情な言葉が出てくるなんて……。リリアンは盗賊だけど良いところもあって……それなのにこんな突き放すようなことをさらりと言ってのけるなんて!
「だってアレ、”追い剥ぎ”だもん」
「え――」
そのときだった。
馬がいななき、急停止する。
大きく体重が前に後ろに引っ張られ、重心を取り戻すと同時に、視界一面が白煙で覆われる。
「発煙筒を焚かれたのね……」
リリアンが呟く。
五メートルより先はもう見えない。
「神様……どうか導きを」
祈り始めるダリアさん。クララも不安そうにダリアさんの腰に腕を回している。リリアンだけが、どかっと脚を組んで座っていた。
――そこからは、あっという間のできごとだった。
ナイフを手にした黒装束の一人が中に入り込んできて、乗客から金目のものを奪っていった。もう一人の黒装束は御者の喉元にナイフを突きつけ、(おそらく)馬が勝手に動き出さないように御者に命じて制止させていた。
どちらも顔は分からない。
ただ、ネコの僕から見ても妙な点があった。
「早くしろよ、お前ら!」
そう叫んで次々と乗客から金目のものを取り上げては布袋に放り込んでいくその人物は、明らかに背格好が小さかった。
御者を脅している方の黒装束の方も。
周りの大人たちの半分もない。
「もしかして……」
僕が言いかけると、
「まだ子供ね。クララと同じくらいかしら」
リリアンは至って冷静だった。
「ほら、あんたもだ」
ついに最後列までやってきた黒装束の子供が、リリアンにナイフの切っ先を向ける。
「いいわよ、持ってきなさい」
リリアンは足下の布袋を開けると、煌びやかな宝石を床に散りばめた。盗品なんだろうけど、よくもまあこんな大胆なことを……。
「うお、すげえ!」
黒装束は回収にかかる。
リリアンはその様子を澄ました顔で見ていた。
「……いいの? リリアン?」
僕が囁くと、
「いいのよ。だってこの子たちは、”こうでもしなければ”生きていけないんだろうから」
「…………」
言っていることがよく分からなかった。
「とにかく、神様は意地悪なのっ!」
黒装束の子供は腰を屈めて散らばった宝石のうち半分ほど掻き集めるとそれらをポケットに突っ込み、すくっと立ち上がり背中を向けた。
「あら? 全部持ってかないの?」
「……こんな高価なもん、全部奪えっかよ! バチが当たっちまう!」
「そうよそうよ。欲張っちゃだめだよ、お兄ちゃん」
もう一人の黒装束もこちらに向かってやってきた。
お兄ちゃん? まさかこの二人、兄妹なのかな?
「よし、逃げるぞ!」
「うん!」
二人が窓から出て行こうとしたそのときだった。
リリアンは颯爽と跳躍すると、二人の顔を覆っていたローブを剥がした。
目にも留まらない素早い動作だった。
僕は息を呑む。
そこに現れたのは、そばかすが目立つ少年と、三つ編みの少女だった。
まさかのできごとに、二人、顔を見合わせてぽかんとしている。
「仕返しよ♪」
「く、くそ……。なんてことをしてくれるんだよ!」
男の子の方が涙声で叫ぶ。
しばしの間合いを置いて、リリアンは続ける。
「だーいじょうぶ。この煙の中じゃ、誰もあんたたちの顔なんか見えないから」
確かにすぐ傍にいるクララとダリアさんを除いて、誰にも顔を見られる心配はない。
「リートゥスまでここから5キロはあるんじゃない? 気をつけて帰るのよ」
リリアンは殊勝にそう言うと、二人を送り出しただった。
どうしてこの二人がリートゥスに住んでいると分かったのか、謎だけど……。
……あ、もしかして、それを知るためにローブを剥がしたのかな?
ま、どうでもいっか。
緊迫した空気が解かれ、ざわめきを取り戻す車内。
「とんだ災難だったな」「有り金全部取られちまったぜ……」「私も銅貨七枚失ってしまったわ」「はぁ、でもま、なんか憎めないよな、あいつら」「誰だか知らないけど、なんだかな」
そんな声と共に馬車は動き出す。
「ちょっと待って!」
ダリアさんが叫んだ。
人々の注目が集まる。
「あの子が……クララがいないの!」
三
見渡す限りの大平原。土砂で舗装された道が地平線の彼方へと真っ直ぐ延びている。
「……なんでついてくるんだよ」
双子の兄の方が背後を振り返って、不機嫌そうに言った。
「あたしたちと仲良くなりたいのかなー」と、双子の妹。
並んで歩いていた一行は足を止め、クララと向かい合う。
「オメー、一体何のつもりだよ!?」
クララは、ぎこちない笑みを浮かべると、
「はい、これ!」
クララの手の平にあったのはダリアのブレスレッドだった。
そう、以前かの大男に奪われて、リリアンが取り返した物品だ。
「いらねえよ、こんなもん!」
「……でも、お金、必要なんでしょ?」
「だからっつって、んな大切なもん貰えねえよ! そもそもオメーの姉ちゃんのものだろ! 勝手に持ってくんなよ!」「そうだよ、そうだよ!」
二人から責められるクララ。しゅんと肩を窄める。
「……だからさぁ、そんな悲しい顔すんなよ。オレまで悲しくなってきちまうだろうが」「あたしもあたしもっ!」
表情豊かなのだろう、兄妹揃って黄昏れている。
クララはこの二人のことをよく知っていた。兄の方は”テッド”、妹の方は”リッド”と言う。よく教会に施しを乞いにくるこの子たちのことを知らないはずがない。何度か教会の庭でボール遊びをしたこともある。だからあの追い剥ぎがこの二人だと分かったとき、いてもたってもいられず追いかけてきたのだった。
「……帰るところ、あるの?」
クララが不安そうに訊ねる。
二人の表情は暗くなった。
なんといっても、母親があんな状態になってしまっているのだ。
そう、現実を受け止めきれず、夢の中を彷徨っている。ほとんど”自我”は残っていないだろう。
「今日は野宿だな!」「そうだねー……」
……やっぱり。
「だったら、うち、来なよ。今日は部屋開いてるってお姉ちゃん言ってたし。けが人とか出なければダイジョーブだと思うから……」
テッドの瞳孔が大きくなる。
「ま、考えてやってもいいぜ」
「うん、”リョーシュ”様への年貢はこれで稼いだしねー。安心してねむれそー」
リッドがにこにこ笑いながら言う。
テッドも強がってはいたが、笑みが抑えられないようだ。
三人して満面の笑みを見せた、そのときだった。
「「「…………」」」
全員の顔が一気に強ばる。
「ねえ、これ……」
リッドが言う。
「ケモノの声だ……」
テッドは辺りを見渡す。無数に点在する岩石の陰から低く唸るような声が聞こえてきていた。
クララは直接この目で確認しにいこうとするが、テッドに腕を掴まれた。
「馬鹿! 危ないだろ! ……オレが行くからじっとしてろ」
「リッド!」「お兄ちゃん!」
リッドは近くの樹木によじ登ると、岩石の背後に隠れている存在を確認した。
リッドの目に映ったものは――。
「……ライオンだ」
唖然とした声でリッドは告げた。
20は下らない数のライオンが三人の行く手に立ち塞がっていた。
◇◇◇
「うん、こっちだ!」
僕は山道を走る。
リリアンもダリアさんも僕の後を追いかけてくる。
左手には切り立つ崖、右手には底の見えない谷が広がっている。
「ねえ、ソラ? 本当にこっちで正しいんだろうね?」
リリアンが焦らすように言う。
「間違いないよ。クララの”匂い”が地面に残っているから」
そう、馬車の中でクララに抱っこされていい子いい子されていたときに、嗅いだ独特の匂い――いろんなフルーツが混じったような心地よい香り――僕が忘れるはずがない。
「本気で信用していいんだね、ソラ?」
「うん。僕を信じて」
そう、僕はネコなんだから。ネコは人よりも1万倍は鼻が利くって、アリーサさんが言ってた。
「私はソラを信用するわ」
ダリアさんはそう言ってくれるが、
「でもこんな道、あんな小さい子が本当に通るかしらねー」
リリアンはどこか疑心暗鬼で。
「きっとクララはあの子たちに連いて行ったんだと思うわ」
「……どういうこと?」
リリアンはぴたりと足を止めた。
さすがに予想外だったのだろう。僕も同じ気持ちだった。
「とにかく後を追いかけましょう。もうしばらくしてここを抜けると草原地帯に出るわ」
「……リートゥスに行くには裏から回っていくルートね。かなり時間を短縮できるけど、ケモノが出没して危険だから、あたしだって滅多に使わない道だけど……」
危なっかしい山道を抜けると、ダリアさんが言っていたように大草原へと出た。夕暮れが近いのだろう、オレンジ色の太陽は山々のちょうど真上に鎮座していた。
クララの匂いは街道に沿って続いている。
「こっちだよ!」
僕は駆けていく。
「……あれ?」
僕は足を止めた。
おかしい。クララの匂いに混じって、変な臭いが漂っている。
さびた鉄の臭い。そして、炎天下に肉を放置させて腐らせたような、鼻をつんざくような強烈な腐臭……。
それはまるで、いつの日だったか、アリーサさんの診療所の裏手に手負いの子犬が死んでいたことがあって、そのときに嗅いだものと酷似している。
「わーーーーっ! 助けてーーーー!」
突如として大声が響いた。
「……!!」
僕たちは全速力で声の方へと駆けつける。
「あ……あ……」
ライオンの群れに囲まれる三人――クララと追い剥ぎの兄妹。
まさに四面楚歌で行き場がない。
「クララーーーー!」
ダリアさんが叫ぶ。自ら出て行こうとするが、ダリアさんの側面からもそれらは迫ろうとしていた。
「おうおう、うまそうな肉があるぜ」「今日はごちそうだな」
ライオンたちの会話が聞こえてくる。
そう、僕たちまで囲まれてしまった……。
まずい、これは非常にまずい……。絶体絶命の状況だ。
そういえばアリーサさんが読み聞かせてくれた絵本にこんな展開があった。こういうとき、弱い人たちがピンチに陥ったときは必ずヒーローがどこからともなく現れて敵を蹴散らしてくれるんだけど……あいにくヒーローなんてどこにも見当たらないし……。
「……ねえ、リリアン? どうしよう――」
……ってあれ? リリアンがいない!
まさかリリアン、食べられちゃった??
そのときだった。
”何か”が宙を駆けていった。
光芒一閃。クララに詰め寄っていたライオンの眉間を切り裂いた……いや、違う。血しぶきは全く飛び散っていない。とすると……、
「安心しなさい、”峰打ち”よ」
地面に着地したリリアンが総勢20頭は下らないライオンの群れに向かって言い放つ。
「救いのヒーローだ!」
クララが目を輝かせて叫んだ。
「リリアン! リリアン!」
追い剥ぎの兄妹がリリアンコールを飛ばす。
あれ? この二人、リリアンのこと知っていたんだ……。まあ、この界隈では有名人らしいからね、リリアンは。
「宣言するわ。あたしは、あんたらを殺さない。あたしはあたしの”流儀”であんたらを退けてみせるんだから! 覚悟なさい!」
ライオンの群れは息を合わせて一斉にリリアンめがけて飛びかかってくる。
リリアンは微動だにせず。
先頭の一頭がリリアンの喉元を切り裂こうとしたとき、リリアンは素早い動きで横に跳んだ。
背後に迫る一体の顔を蹴り上げ、空高く舞い上がる。
――沈みゆく日の光が逆光となって、リリアンの全身を照らし出した。
リリアンは胸ポケットから包みを取り出し、それを広げると、眼下に犇めくライオンの群れめがけて投下した。
「これは……」
僕は息を呑む。
「……赤?」
ダリアさんはそう言って首を傾げた。
僕は、はっとした。
「唐辛子だ……」
リリアンが言う”流儀”とはこのことだったんだろう。
「ぐへえええええええっっ!!」
ライオンたちは顔を真っ赤にして、ぼろぼろと涙を流して泣きじゃくりながら、退散していく。
直後、リリアンが着地。
「ふっ。これがあたしの戦い方よ」
そう言うとリリアンは包みの中にわずかに残っていた唐辛子を口に流し込み、
「あー、おいしっ♪」
満足げに微笑むのであった。
四
ここからは、リートゥスまで大した距離はないので、徒歩で向かうことにした。
目的地に到着する頃には、茜色に染まった空が夜が近いことを告げていた。
道中の会話の中で、追い剥ぎの兄妹がそれぞれテッドとリッドという名前であることを知った。リートゥスの”アナザーサイド”という地区に住んでいるらしい。
リートゥスは街の中央にそびえる風車が印象的だ。
僕の目線では街の奥まで見渡すことができないからどれほどの広さなのか分からないけど、少なくともトールシアよりは大きそうだ。
「じゃあ行くわよ、ソラ」
そう言ってダリア姉妹とテッド兄妹を残して、さっさと歩いていってしまう。
いいのかな、と思いつつも、僕は後を続いた。
「あ、待ってください! せっかくですからお食事を――」
「結構。あたし、人間は苦手なの」
振り返らずリリアンはそう言って、さっと手を上げた。
露店の立ち並ぶ通りを進む。
人混みでごった返していて、進みづらい。
と、そのときだった。足元に、一羽のスズメを発見。手負いなのだろう。足を引きずって歩いていた。
――これなら、いけるかもしれない。
僕は足音を殺して忍び寄る。そして――。
捕まえた!
僕はその場でスズメを貪り食う。
「ふぅん。なかなかやるじゃない?」
リリアンが感心したように僕を見ている。
……胸がちくちく疼く。これは罪悪感だろうか。だけど、生きていくためにはしょうがない。
「……ん?」
なんだろう、この気持ち?
罪悪感とはまた違った、心の奥底から湧き上がってくる熱い奔流というか……。
僕は思わず体を震わせた。
そんな僕を見下ろしながらリリアンは悟ったように言う。
「狩猟本能ってやつね。やっと芽生えたのね。野生で生きる者たちには必須の本能よ。この感覚、大事にしなさい」
「狩猟本能……」
「さて、あたしも食料、蓄えておかないとね」
リリアンは向き直ると、とある露店の平台の上に置かれた燻製肉をじろじろと見ていた。ざっと30個はある。
リリアンは平台の前に立つ店主に視線を向けると、
「これ、全部ちょうだい」
「えぇ!?」
店主は仰け反り、目をぱっちりと見開いていた。
「冗談はお止めください」
「あたしは本気よ。はい、これ。釣りはいらないから」
そう言って、銀貨を三枚ほど机の上に置いた。
「こ、こんなに頂くわけには!」
「いいのよ」
背中に抱えた布袋を地面に下ろし、右腕全体を使って燻製肉を全て引き寄せて、どかどかと布袋の中に落としていく。
「じゃ、」
そう言って、背中を向けて去っていった。
なんとも豪快な買いっぷりだ。
「大丈夫? こんなに買っちゃって?」
「いいの、いいの。この前山賊のアジトを急襲して、ありったけの金品を強奪してきたばかりだからね」
誇らしげにリリアンは言ってのけた。
もう少し節約して使った方がいいと思うんだけどなぁ……。この先何が起きるか分からないのだから。あの兄妹にも全財産の半分くらい持っていかれてしまったばかりなのに。
リリアンは、辺りをきょろきょろと見渡している。
「何を探してるの?」
「宿よ。”闇市”が始まるまで、まだだいぶあるからね」
ここには盗品を売りさばくための闇市があるとは聞いていた。だけど、それがどういうものなのかは僕は知らない。普通の市なら、アリーサさんに連れられて歩いたことがあるのだけど。
路地に入り、居住区を道なりに歩いていると路地から一匹のトラネコが出てきた。
僕よりも大きなネコだ。
甘えるように鳴きながらリリアンの足元にまとわりついている。
「だ、だめ! 触れないで!」
リリアンはその場で地団駄を踏んで、あっちに行くように仕向けているが、ネコが離れる気配はない。
「ソラ、何やってるの! 早くこの子を向こうへ――」
そのときだった。
ネコはリリアンのふくらはぎをつたって腰にしがみつくと、それを足がかりにして、背中の布袋に飛びついた。そして、その中に頭をつっこんで、カツオ節を口に加えると、一目散に逃げていく。
よく見ると、布袋の紐が開けっ放しだった。さっき買い物をしたときに閉め忘れたのだろう。
さっそくリリアンのふくらはぎには赤いぶつぶつができていた。
「あぁ、もう……」
どうやら触られたのが少しの間だけだったので、大した症状は出ていないらしい。
「大丈夫、リリアン?」
「あら、気遣ってくれるんだ?」
「アリーサさんが言ってた。困っている人がいたら助けてあげなさいって」
「あの女らしいわね」
リリアンは何事もなかったように歩き始める。しかし発疹は消えていない。
「ネコアレルギーって初めて聞いたよ」
「あたしだって初めて街医者からそう診断されたとき、びっくり仰天したわ。あの女はそういうのないのにねー。どうして姉妹で、こうも違うのかな? あーあ、本当、不平等よね」
リリアンは立ち止まって、思いっきり地面を踏みつけた。
「あー、またあの女の顔、思い浮かべちゃった! むかつくっ……」
そう力強く言い放ってから、リリアンは虚空を仰いだ。
「あの女はね、あたしにないもの、ぜーんぶ持ってるの。力だって使えるし、背だってあたしより頭一つ分高いし、髪の毛はあたしみたいに変なところでハネてなくてさらさらのストレートだし……。それだけじゃない。昔、一緒に暮らしてた頃は、ルーアンという三毛ネコを飼ってたんだけど、あたしはアレルギーのせいで抱っこしてあげることができなくて、結局あの女にばっかり懐いてたし……悔しいったらありゃしないわ。拾ってきたのはあたしなのに!」
ふと僕は思った。
「ようするに嫉妬ってことかな?」
僕がそう言ったとたん、リリアンは目をかっと見開いた。
「違う! そんなんじゃない! 何よりも気にくわないのはあたしを見捨てたことよ! パパもママも死んじゃって誰も頼れる人なんかいないのに……!」
アリーサさんがリリアンを見捨てた?
そのことについては僕は何も知らない。
ただ、誰も頼れる人がいないということについては、共感を覚えた。
「僕にもそんな時期があったよ。まだ物心つかない頃に両親や姉妹たちと離れ離れになってしまったんだ。井戸の底で、冷たい雨風に打たれて、おなかペコペコになりながら、ひたすら泣き叫んだ。そんな僕を見つけてくれたのが――」
「あの女なんでしょ?」
遮ってリリアンが言った。
「確かにあたしたちは似た者同士ね。あの女に捨てられたんだから」
その瞳の奥には、沸々と煮えたぎる激情のようなものが宿っていた。
僕は言葉に詰まる。
「きっとそれには事情が……」
「あら? どんな事情?」
「…………」
僕は何も言えなかった。必死に言葉を探したけど、何も見つからなかった。
「安心しなさい。あたしはずっと傍にいるから」
「……でも、リリアンはネコアレルギーなんだよね? 僕なんか、本当は一緒にいない方が――」
「そこっ! 卑屈にならない!」
リリアンは僕をびしっと指差す。
「……大丈夫よ。ソラに触らなければいいだけなんだから。体は触れ合うことはできなくても心は触れ合うことはできるしっ。あたし、そういうの得意なのっ!」
リリアンが誇らしげに言ったそのとき、
「あ、」
リリアンの視線が正面の屋台に釘付けになる。
バナナチョコを売っている屋台のようだ。
「せっかくだから一個買ってこっ♪」
リリアンは小走りで屋台へと駆けていく――。
なんていうか、感情の切り替えが早いなあ、リリアンは。
路地を抜けると、水路を横切るように木橋がかけられていた。
ここから先の区画は、ちょっと空気が違っていた。
立ち並ぶ家も古臭いし、煉瓦の塗装は剥がれていてだいぶ年月が経過しているように思えた。
そしてそれらの家々の裏手には農場が広がっていた。
「ここから先は貧困街――通称、”アナザーサイド”」
「ここがそうなんだ……」
とても異質な雰囲気だ。
「あの追い剥ぎの兄妹が住んでいる地域ね。まともに地代を払えない住民はここに追いやられて、共同で農作業に就かされてるの」
リリアンは手に持ったバナナチョコを頬張りながら、説明する。
それにしても、辛党のリリアンがこんな甘いものを好むなんてちょっと意外に思う。
「おいしい?」
「おいしいけど、なんかちょっと物足りないわね」
リリアンは胸ポケットから小瓶を取り出し、それを逆さにして、バナナチョコの上に粉のようなものを振り掛ける。
「何これ?」
「マイ唐辛子よ。やっぱりこうでなくっちゃっ。おいしーっ♪」
「…………」
絶句した。
リリアンはそれを三口で平らげると、足早に足を進めていく。
橋を渡り、広場へ。
水の出ない噴水。座る部分の板がなくなってしまっているベンチ。
そして、みずぼらしい絹の服を着た人たちが一箇所に集まっていた。
甲冑を身に着けた人が掲示板に何かを貼り出していたところだった。
「おい、ふざけんなよ!」「また増税かよ! もう生活していけねえよ!」
ざわめく人たち。
「どうしてあの人たち怒ってるの?」
リリアンはその張り紙を見ながら、僕に言った。
「ドメニコスが税率を上げるようにお抱えの騎士たちに指示したのよ」
きっと甲冑を身に着けた人が、騎士なのだろう。
僕がいた王都でも、甲冑を身に着けた人は”騎士”もしくは”衛兵”と呼ばれていた。
「ドメニコス――ここ一帯を支配している領主よ。3年前に先代の領主が亡くなったとき、当時の騎士団長だったドメニコスが新たな領主として奉じられたの。以来、やりたい放題のしっちゃかめっちゃかね」
人々は騎士に詰め寄り一触即発の空気になっている。
その中にテッドとリッドの姿もあった。
「これじゃあ、年貢足りないぜ……」「せっかく盗んできたのに……」
落ち込む二人。とても悲痛な面持ちだった。
胸がきりきりと痛んだ。
こんな僕にでも、できることは何もないのだろうか……。あいにく何も思い浮かばなかった。
そのときだった。赤子を抱えた女性が人の波をかきわけるように歩いてきた。
怒声が止み、女性は静かに言う。
「お願いします。どうか、どうか勘弁ください。私には”三人”の子供がいます。満足に食べさせてあげることがもうできないんです。……だから、どうかこれ以上、租税を増やすことはやめてください」
そう言って、何度も何度も頭を下げた。
「おかーさん……」
リッドが気弱な声でその女性の傍へと寄っていく。テッドも続いた。
どうやらこの二人の母親らしい。
騎士は何もできず、気まずそうにしていた。
リリアンはふと女性が抱えている赤子に視線を移す。目をぎょっとさせ、すぐに足元に視線を落とした。
まるで見てはいけないものを見てしまったというように。
僕も背後に回って背中を伸ばして、覗き込もうとしたのだけど……。
「見ない方がいいわよ?」
リリアンが小声で忠告するが、時すでに遅かった。
それは、どう見ても生きているとは言えない、痩せこけて紫色に変色した赤子の亡骸だった。
僕は背中を大きく仰け反らせて、そのまま背中から倒れこんでしまった。
「だから見ない方がいいって言ったのに」
気を取り直して、立ち上がる。
女性の様子がおかしい。
お辞儀をしたまま微動だにしない。
「「おかーさん!」」
テッドとリッドの声が重なる。
「……うぅ……あっ!」
そっと女性が顔を上げると、目は虚ろで生気が灯っていなかった。
肩の力が抜け、かつて赤子だったはずの物体が落下する。
その場にいる人たちの注目が集まる。
「ここは……どこ……?」
女性は気の抜けた声で言った。
「この症状って……”グリフ病”だよな?」
誰かが言った。
その名前、聞いたことがあった。
「エグバートはとんでもない置きみやげを残していってくれたものだわ」
リリアンは、吐き捨てるように言った。
自我を失った女性は、その場にいた人たちによって支えられて教会へと運ばれていった。
もちろん物言わない赤子も一緒に。
夕闇に染まりつつある広場に、冷たい風が吹いた。
租税の強化を告げる張り紙が音を立てて揺れている。
僕はあのときのことを思い出していた。
それは、アリーサさんの飼い猫になって間もない頃の記憶――。
アリーサさんの診療所にはいろんな病の人がやってくるけど、このような症状の人を見るのは初めてだった。
歳のいったおばあさんが、その娘さんと思しき人に連れられてやってきた。
診察ではおばあさんに代わって、娘さんの方がアリーサさんの問診に応じていた。
どうやら伴侶を失ってしまったらしい。それ以来、感情の喪失が始まり、ついには自我をも失ってしまったのだという。
アリーサさんの治療で、少しは良くなったみたいだけど、やはりぎこちなさは消えなかった。
アリーサさんは申し訳なさそうに、「わたしにはこれが限界です」と伝えた。
娘さんは何度もお辞儀をして、診察室を後にした。
「ねえ、アリーサさん。さっきの人、魂が抜けたみたいだった。……まともに言葉も話せないし、自分がどこの誰かも分かっていないみたいだった。あれも”病”なの?」
「うん。グリフ病といって、自我が喪失していく恐ろしい病気よ。10年前から王国中に急速に広がっていってる……」
「10年前って、確か勇者エグバートが魔王ヴァルヴァロッサを倒して、世界に平和が戻った年だよね? それなのにどうしてこんな病が……?」
「魔王は死んでも、悲しみは消えない」
アリーサさんはきっぱりと告げた
「病の正体ってね、悲しみなの」
「…………」
「エグバートが神の託宣を受けて故郷を旅立ってから、ヴァルヴァロッサを討ち取るまで2年。それまでにどれだけの街や村が滅ぼされ、多くの死者を出したことか……。わたしだってそうよ。故郷は焼け落ち、家族を失うことになったわ。わたしは悲しみにとらわれることはなかったけど、みんながみんながそういうわけじゃない。今もまだ悲しみが癒えない人たちはたくさんいるの。
……一種の防衛反応なのかな。悲しみが募ると、これ以上悲しみたくないという思いから、自ら自我を抑え込んでしまうみたい。――それがグリフ病よ。そして、残念ながら完全に治す方法はまだ発見されていないわ」
「アリーサさんの”白き光明(リヒト・メーゲン)”をもってしても?」
「わたしができることは、自我を引き起こすことだけ。悲しみまで消してあげることはできない。ようするに、その人次第なの。内なる悲しみを越えているだけの心が得られない限り、また自我を失ってしまうわ。堂々巡りよ。
……それに、わたしにも治療できない患者はたくさんいる。さっきの人のようにね。深い悲しみにとらわれてしまっている人は手の施しようがないときもあるの」
そしてアリーサさんは僕から目をそらし、虚空を仰いだ。
「まだまだ未熟ね、わたしも」
「アリーサさん……」
「でもあと1年……わたしが20歳になれば……わたしは御子として、神の力をその身に降ろすことができるようになる。そうすれば、世界は変わるわ」
「よし、行くわよ」
リリアンの一言で僕は我に返った。
夕日は半分ほどが沈んでいた。
「どこに?」
「決まってるでしょ? ドメニコスから私財を盗み、金に代えて、皆に分け与えるの!」
そう言ってリリアンは何も刺さっていないバナナの串を、親指の力だけでひん曲げた。
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