だから彼女は――した

 放課後、部室にノートパソコンをパタンと閉じる音が響き、ぼくはまっさらな原稿用紙から顔をあげる。琴原さんはテキパキと帰り支度をして「それでは」とぺこりと綺麗なお辞儀をして部室を去っていく。残されたのはぼくと彼方さんだけである。

 琴原さんが去るのを待っていたとばかりに、彼方さんは読んでいた文庫本を閉じると顔を上げ、


「森辺、すこし話がある」


 とぼくを見た。


「なんですか?」

「単刀直入に、オカルト部を脅して首吊り少女に仕立て上げたのは君だな」


 唐突な指摘に、一瞬時が止まった。


「えっといきなりなんの話か……」

「あれをやったのは私だからね。他に犯人がいるわけがない」


 平然とした自白に変な息が漏れる。


「それ、言っていいんですか?」

「バレている相手に隠す意味はないだろう」


 彼方さんはそう言って肩をすくめた。


「……どうして彼らを脅したのがぼくだと?」

「君は嘘をついたからね。あの日、窓の鍵はしっかり掛かっていたから」


 ああ、そうか。確かに部室の戸締まりをし忘れた、というのはぼくが咄嗟についた嘘だった。あの嘘をついた時、彼方さんもその場にいたのだった。それはまあ、バレるよなあ。


「オカルト部が今日話した手口は、窓が閉まっていたら成立しない。さすがに気付くさ」

「やっぱり、あの嘘は無理がありましたか」

「君が突然真剣な顔で窓の鍵を締め忘れたかも……なんて言い出したときは声が漏れるのを我慢するのに苦労した。まあ、いきなりオカルト部が自白しに来た時ほどじゃあなかったけど」


 と彼方さんはころころと笑うと、仕切り直すように息を吐き、「さて」と切り出した。


「君は私が首吊り少女だと気づいていた、ということでいいんだろう?」

「まあ、そういうことになりますね」

「一体君がどうやって私に辿り着いたのか、ぜひとも聞かせてもらいたい。いわゆる解決編というやつだ。探偵役には推理を披露する義務がある。そうだろう?」

「探偵役って……ぼくですか?」

「他にいないだろう。そしてわたしは犯人役だ。そうだな……」


 彼方さんはふむと顎に指を添えると、


「おい森辺。部長である私に指を向けて犯人扱いなど冗談では済まされないぞ。そこまでして私が首吊り少女だと言い張るのなら、それ相応の根拠を示してもらおうか!」

 

 と言い放った。


 別に指は向けていないどころか、首吊り少女うんぬんは彼方さんが勝手に自白してきたのだが、と混乱していると、沈黙に耐えかねたのか彼方さんはモジモジと身を捩り、


「せっかくだ、ミステリ仕立てでいこうじゃないか」


 とはにかんだ。


 彼女がロールプレイがお望みというなら、付き合うのもやぶさかではない。腐りかけではあるものの、これでもぼくはミステリー作家志望だ。


「まず前提条件として、当日部室には鍵がかかっていて、中に入れるのは鍵を持っている文芸部員か顧問だけだった。もしくは職員室からマスターキーを取ってくるか、ピッキングするかですね」


 けどマスターキーの貸出には記録が残る。職員室が無人になった瞬間を狙って……というのも不可能ではないだろうが、発覚する可能性や、返却時のことも考えると難易度は高い。唯一可能そうなのは教師陣くらいだろう。そしてピッキングについては言わずもがなだ。部外者の線は考えなくても良いだろう。


「この時点で、あの晩、あの部室で首吊り少女に成りすますことのできた人間は相当絞られてくるんです」


 なにせ候補は彼方さんと教師陣だけだ。


「どこかの誰かが部室の窓を閉め忘れた、なんて嘘をつかない限りは?」

「ま、そういうことです」

「そうとは知らず、栞はその何倍もの容疑者に頭を悩ませていたわけだ。かわいそうに」


 ぼくも琴原さんには少し悪いことをしたなと……いや、そもそも彼女が肝試しなんてしようとしたのが元凶でこんな面倒なことになったと思うと、なけなしの罪悪感も引っ込んだ。


「しかしそれだけで私が犯人だと? 確かにわたしは容疑者みたいだけどね。しかし、君たちが学校に向かっていたちょうどその頃、わたしは予備校で受講している真っ最中だった」


 彼方さんは腕組みをしながら、愉快そうにアリバイを主張した。


「その予備校ですが、休憩を挟んでの二コマであってますよね」

「そうだね。六時からだいたい九時過ぎぐらいまでは拘束されるかな」


 ぼくらが学校に向かったのは八時前後、学校についたのは八時半頃だろうか。たしかにその時間、予備校はまだ講義中だったろう。ただ、


「でも予備校なんてサボればいいだけじゃないですか」

「おいおい心外だな。私はこれでも学校内外で優等生で通っているのに」

「それは初耳ですね。でも実際、彼方さんはあの日の予備校、二コマ目を早退してるじゃないですか。だからそのアリバイは成立しません」


 彼方さんが「ほー」と感心したように声を漏らす。


「わざわざ問い合わせたのか?」

「予備校が受講生の情報を外部に漏らすとは思えなかったので、同じ予備校に通っている上級生方に聞き込みをしました」


「彼方さん、最近部活によく顔を出すけど、予備校の方はちゃんと行ってるのかって、顧問の先生に調べてこいって頼まれてしまって……」と貧乏くじを引かされた哀れな下っ端部員という顔をすれば、「あー、ちーちゃん先生の……そりゃ断れないね」と大抵の人は快く教えてくれた。


「そうだね。確かに私は二コマ目をサボった。でもだからといって君たちより先回りして学校に向かい、部室で首吊り少女の振りをして君たちを驚かせた、というのはあまりにも無理な筋書きじゃないか? 大好きなドラマの予約を忘れていたことに気づいて急いで家に帰ったとでも言ったほうがよほどそれらしい。それに、もうちょっと水科先生や外部犯も疑ってほしいものだね」

「まあそうですね。それじゃあ誰が、というのは一旦置いておいて、なぜ犯人は文芸部部室にやってきたのかを考えてみましょう」


 つまり動機だ。


「いいね。その言い回し、実に探偵っぽい」


 ……そういうことを言うのは反則だろう。羞恥心でなにも喋れなくなるじゃないか。顔の熱さを感じながら、ぼくはうぅんと咳払いをした。


「一番に思いつくのは、いたずらですね。文化祭シーズンという熱に浮かれた阿呆が、首吊り少女になりすまして、誰か驚かせてやろうと考えた」


 先ほど彼女は無茶苦茶な筋書きと言ったが、部室に向かっていたぼくらを驚かせるため先回りするというのは実に彼方さんらしいイタズラだ。けれど、自分のために予備校をサボらせたくないという琴原さんの計らいにより、彼方さんはあの日ぼくらが部室へ向かうことを知らされていなかった。だからその行動は取りようもない。そしてそれは彼女に限った話じゃない。


「しかしあの晩、文芸部部室を人が訪れる確率は限りなく低かった。犯人が誰であったとしても、人を驚かせるためにあの部室は選ばないでしょう。いたずらの線はないわけです。むしろ部室に忍び込んだ犯人にとって、部室へ自分以外の訪問者が来ることはまったくの予想外のことだったでしょうね」


 なにせ、当事者のぼくでさえまさかあんな時間に部室に向かうとは思ってなかったんだから。本来であればあの部室は一晩中無人のはずだったのだ。


「しかし実際問題、君たちは首吊り少女を目撃し、盛大に悲鳴をあげたそうじゃないか。犯人に別の目的があったというのなら、なぜそんなサービス精神旺盛なことをする必要があるんだ」

「それはもちろん発見者、つまりぼくと琴原さんを驚かせるためですよ」

「……さっきの話と矛盾していないか? 犯人の目的は人を驚かせることではなかった。君はそう言い切っていたはずだが」

「矛盾はしません。犯人は部室で自身の目的を遂行中、アクシデントにより首吊り少女の振りをせざるを得なくなった」

「アクシデント?」

「他ならぬぼくと琴原さんがやって来たことですよ。犯人はぼくたちを部室に入れたくなかったんです」

「それはおかしいな。あの部室で犯人が首吊り少女をどうやって装ったかはさておき、一瞬で準備できるものではないだろう。君たちが部室に向かうことを誰にも知らせなかったというのなら、犯人がエスパーでもない限り、君たちの接近を察知することはできないはずだろう?」

「そうでもありません。ぼくと琴原はあの晩、二度悲鳴をあげています。首吊り少女に遭遇した時はもちろんのこと、その数分前にも一度、部室前の木にかかった布を首吊り死体と勘違いして悲鳴をあげてるんです。オカルト部にももボドゲ部も二回とも聞こえていたみたいなので、部室棟にいた人には聞こえたと考えて良いでしょう。まあでも、オカルト部はおろかぼくと同じクラスメイトであるはずのボドゲ部の連中も、悲鳴をあげたのがぼくらとは気づかなかったみたいですけどね」


 それをひどいと言うのはあまりに理不尽だろう。たいして親密なわけでもない相手の悲鳴だけで声当てクイズをしろというのはあまりにも無理難題だ。



「でも彼方さんなら、ぼくはともかくあれだけ仲の良い琴原さんの悲鳴なら聞き分けられたんじゃないですか?」

「ま、それは否定はしない。それとそんなに卑屈にならずとも、君の悲鳴だって聞き分けられたさ。まあ、もしも聞こえたらの話だけど」


 と彼方さんは笑った。


 ……それはなんというか、その、


「ありがとうごさいます」


 さっきとはまた別の理由で顔が熱くなってくる。


「まだ部室内で目的を遂行できていなかった犯人はとっさに、僕たちを回れ右させるために首吊り少女の振りをすることを思いついた」


 彼方さんが「それはおかしいな」と待ったをかける。


「君の言う通り、悲鳴によって事前に君たちを察知したというのなら一度外に出てやり過ごせばいい。窓から出れば正面の君たちに気づかれることもない。そして君たちが忘れ物を見つけて帰るのを待ったあと、ゆっくりとその目的とやらを果たせばいい。わざわざ首吊り少女として眼の前に現れるなんてリスクを取る必要はないだろう」

「もっともですね」


 確かにそれが最適解だろう。


「でもそれは、今の彼方さんだからこそ導き出せる回答ですよね。あの晩、悲鳴によって犯人が知ることができたのは、ぼくと琴原さんが部室に向かっているということだけ。その目的である、忘れ物を取りに来たことは知りようがない。だから勘違いをした」

「勘違い?」


 部室に向かってくる男女。そして文化祭シーズンになると自然と耳に入る、部室棟にこっそり泊まり込んでイチャイチャする男女がいるという噂。つまり、


「僕たちが付き合っていて、部室でイチャイチャにしきた。多分、そんな勘違いをしたんでしょう。だから逃げられなかった」

「勘違いしたからなんだと言うんだ」 

「ここで関係してくるのが犯人が部室に忍び込んだ目的です。さきほど言ったように、おそらく犯人の目的は首吊り少女を装うことそれ自体ではなかった。しかしだとすると犯人は悲鳴でぼくらの接近に気づきながら、なぜ窓から外に出て様子を見るという簡単な最適解をとれなかったのか。こう考えるのはどうでしょう? 文芸部部室には犯人にとってどうしても他者に見られたくないものがあった。それを回収するために、犯人はあの晩部室へと忍び込んだ」

「あの毎日代わり映えしない部室にそんなものがあったとは思えないな」


 普段はそうだったろう。けど、あの日は違った。


「首吊り少女が現れた前後で部室内で無くなった可能性があるのは部誌のナンバー2のみ。他に無くなったものがない以上、今までの推測が正しければ犯人の目的であり絶対に他者に見られたくなかったものはその部誌ということになる。そう考えると、犯人が逃げる選択肢を取れなかったことにも説明がつくんですよ。なにせぼくも琴原さんも文芸部ですからね。イチャイチャしにきたと勘違いしていたなら、暇を持て余してまだ見ぬ部誌に手が伸びる可能性を犯人は看過できなかったんでしょう。そこで犯人はとっさに、首吊り少女を装ってぼくらを追い返すことを閃いた」

「仮にそうだったとしてだ。首吊り少女がとっさの思いつきだったというのなら、どうやって演じたっていうんだ。まさかたまたま黒い釣り竿と制服一式があった、なんて言うんじゃないだろうね」


 彼方さんの言葉に、昼間見たオカルト部の虚仮威しを思い出す。


「黒塗りの釣り竿はなかったかもですけど、真っ黒い毛布ならあったでしょう。セーラー服も髪も、自前のものがあればいい。天井にはちょうど良く画鋲が止まっていた」

「それで首吊り少女が作れると?」

「作れますよ。必要なものは部室内にすべて揃っていた。部室はカーテンが締め切られて暗かった。机を黒い毛布で覆って、その上にのぼる。天井の画鋲を使ってスカーフを留め、襟にでも留めればシルエットは首につながっている紐のように見えるでしょう。あとはつま先立ちでゆらゆら揺れてみせれば、まあ少なくとも今日のオカルト部が実演したのよりは、それっぽくなるんじゃないですかね」


 琴原さんがスカーフの印象がないと言っていたのも当然だ。あの首吊り少女の胸元にスカーフはなかったのだから。


「まったく、ずいぶんとお粗末な仕掛けだな」


 彼方さんは大きくため息をついた。

 

「即興にしては大したものだと思いますよ。さて、それじゃあ色々と遠回りしましたが、犯人は誰かについて話しましょうか。まず首吊り少女を装うことがその場の思いつきだったとなると、セーラー服を着ていない教師陣は候補から外れます。マスターキーをくすねたり、ピッキングをしてまでたかが学生の書いた部誌を回収しなければならない動機を持つ生徒や部外者がいたとも思えない。そして、あの場所に部誌があることを知っていたのはぼくと琴原、そして演劇部を除けば琴原からチャットで知らされたであろう彼方さん、あなただけです。髪もそのボニーテールをほどいて前にもってくれば貞子感も十分でしょうし」


 ちょうどぼくらが学校に向かう際に、琴原は彼方さんからチャットへの既読がついたと漏らしていた。チャットの内容を確認したわけじゃないが、あの藤原秋水の大ファンが、その学生時代の原稿が見つかったことを伝えないとは思えない。彼方さんがあのタイミングで部誌が文芸部部室にあることを知り学校に向かったのだとしたら、のろのろとおっかなびっくり歩いていたぼくらよりも早く部室にたどり着くことは十分可能だったはずだ。


「部誌をそこまでして回収しなくてはならない動機がないのは私も同じことだ」

「本当にそうでしょうか」


 彼方さんが予備校をサボり、首吊り少女のふりをしてまで部誌をぼくらから遠ざけようとした動機。それは確かに存在する。


「彼方さん。あなたは盗作をしていた。そうですよね」


 今の今まで活き活きとミステリーごっこを楽しんでいた彼方さんが、目を見開いて完全に静止した。

 彼方さんはしばらくして、


「……なぜ、そう思った」


 と短く、震える唇で絞り出した。


「今回の密室殺人もの、らしくないなと、最初かららしくないなと思っていたんです。いつも日常の謎を扱っていたから、人を殺さない、不幸にしないという信念があると、そう思ってましたから」

「……これはウケるなと思えば私はどんな話だって書くさ」

「そうですね」


 その通りだろう。ぼくが勝手な理想を彼女に押し付けていただけだ。けれど、そう言う彼方さんの表情はひどく苦しげだった。



「そもそも私があの作品を書き上げたのは一週間以上前だよ。知らない話を盗作なんてできやしない」

「あれは演劇部の部室から出てきたものです。彼方さんは台本の打ち合わせや演劇部の演技指導っていう名目で、頻繁に演劇部の部室に出入りしてましたよね。本当は、その時にもう見つけていたんじゃないですか? あの部誌が入った段ボールを。そして部誌に手を伸ばし、傑作を見つけてしまった」


 いつのまにか紛失していた文芸部の部誌。ナンバー2ともなれば、およそ五十年ほど前の作品だ。今も持っている人はほとんどいないだろう。たかが文芸部の部誌。五十年前と同じ作品が載っていたところで、気付く人などほとんどいない。


「彼方さんはその話を、今回の部誌に掲載する話として提出した。違いますか?」


 彼方さんはぼくの問いかけにふっと笑うと、パチパチパチと、ゆったりと拍手をし始めた。


「まったく対した推理だよ。君は小説家にでもなったほうがいいんじゃないか。しかし残念なことに証拠がない」


 また犯人らしいセリフだ。


「本当に残念ながらぼくの推理はこれで打ち止めですよ。これ以上絞ろうとしてもなにも出ません」


 もともと糾弾する気などさらさらなかったのだ。言い逃れのしようもない証拠など用意も探してもいない。


 彼方さんはキョトンとした後、声をあげて笑った。


「ああいや、悪い悪い。私の人生で言ってみたいセリフベスト3には入っているからね。つい言ってしまった」


 そう言って目尻を拭う。


「見事な推理だった。思わず部室に隠しカメラでも設置されていたんじゃないかと本気で疑うくらいにはね」

「それ、褒めてるんですか?」

「大絶賛だ。まさか盗作のことまでバレているとは思わなかった。さて、その上で、二つばかり聴きたいことがある」


 と、彼方さんはピースするように二本指を立てた。


「まあ、ぼくに答えられることなら」

「まず、いったいどうやってオカルト部の連中にやってもいない罪を自白させた? 脅したにしても、あまり暴力は得意に見えないが」

「ああ、そのことですか」


 一応誰にも言わないと約束したが……まあいいか。


「彼らにとっては、そっちの方がマシだったんですよ」

「マシ?」

「盗聴していたことを学校中に言いふらされるよりは、由緒正しい? かはわかりませんが、オカルト部の伝統ってやつに則って、ぼくらを驚かせようとしたって方がいくらかマシなストーリーでしょう。外聞的に」

「ちょっと待て。彼らが盗聴をしていただなんて、どうしてわかる」

「ああ、それは……」


 首吊り少女にぼくらが悲鳴をあげた時、オカルト部は文化祭で流す怪談の録音をしていたと証言した。しかしその二つ隣のボドゲ部は、隣、映像研で行われてた情事に耳を澄ませていたとフザけたことを抜かしていた。それも、それが言い訳でなければ、「普通にしていても結構聞こえてくる」とのことだ。となると、同じく映像研の隣であるオカルト部にもその情事の音は聞こえていたはずである。果たして、隣からそんな十八禁サウンドが聞こえてくる状況で、文化祭で流す代物の録音をするだろうか?


 彼らのつい口を滑らせてしまったという反応をみるに、録音をしていたこと自体は事実だろう。となると、録音をしていたが、それは怪談ではなかったということだ。琴原が録音を聞かせてもらえないかと口にした時のあの慌てよう。あの時、彼らの目線は例外なくパソコンへと向けられていた。そこにきっと見られたくない、聞かれたくない録音データがあったはずだ。ではそれはなにか。ぼくらに聞かれては困るものであり、なおかつ隣から情事の音が聞こえてくる中録音されていたもの。答えは一つだ。


 ぼくらの悲鳴があがった時、彼らは、隣の映像研の情事そのものを録音していた。つまり盗聴である。


「あとは、まだパソコン内にデータが残ってるうちにオカルト部に向かい、先生にチクるぞと脅しをかけたにいったってわけですよ」

「呆れたものだな」


 ぼくの説明に、彼方さんは盛大なため息をついた。


「録音はさすがにやり過ぎですよね」


 なんでもオカルト部長の伊藤が、あの晩致していた相手の図書委員と恋仲だったらしい。

 伊藤は例のオカルト部の伝統とやらを果たそうと部室棟前で張り込みをしていたところ、恋人つなぎで仲睦まじく部室へと消える映像研部長と彼女の姿を目撃してしまったというのが事の始まりらしい。

 どうも伊藤は女への耐性がないのを良いことに、図書委員の彼女にさんざん貢がされていたようだ。しかし本命が別にいて、自分がただの金づるにすぎないという現実を知ってしまった彼は、復讐として彼らの情事の音声を実名入りでネットにばらまこうと考えていたというのだから、なんとも笑えない。


「まあ、そっちもそうだが」


 と彼方さんは苦笑いした。


「それで、もう一つはなんですか?」

「……ああ、いや、そっちはやっぱりやめておこう。どうせ取るに足らないことだ」


 口を開け、すこし考え込んでから、歯切れ悪く彼方さんは首を左右に振った。少し気になったものの、今はもっと気になることがある。


「じゃあ、ぼくからも一つ良いですか?」


 彼方さんはどうぞと手の平をこちらに差し出す。


「彼方さんは、琴原に勝ちたかったんですか?」


 そもそも彼方さんはなぜ盗作したのか。それだけはどうしてもわからなかった。


「惜しい。でもハズレだ。私はね、栞に勝ちたかったんじゃない。栞に負けたくなかったんだ」

「あの、それって同じことじゃ……」

「違う。違うよ森辺。まったく違う。負けたくない理由っていうのも色々ある。ライバル心とか、上下関係とか。けど私の場合はただ……」


――怖かったんだ。


 予想外の答えに、思わず口が開いたままになった。


「君、私が陸上をやっていたのは?」

「知ってます。その頃から琴原さんとは、先輩後輩だったとか」

「栞と同じ50m走だった。これでも結構良い線いってたんだ。少なくとも部の中じゃ一番だったから、当時の私は自分のことを天才だと思っていた。けど、栞が入部してきてね。彼女の走りを見て、これはすぐに勝てなくなるなと直感した。なんとか卒業まで追い越されなかったけど、私は陸上を中学でやめて、高校に入ってからは趣味で書いていた小説の方に本腰を入れようと思った。でも高校で琴原が小説を書いたので見てほしいとノートを持ってきた時、中学時代、彼女の走りを見た時と同じことを思ったよ。そこでようやく、自分が凡人側だと気づけた」


「それは……でも、彼方さんの書く話だって、同じくらい人気じゃないですか。演劇部に脚本だって頼まれて」

「それは私自身の人気だ。小説が評価されたわけじゃない。私のファンは多いが、私の小説のファンなんていないんだよ」

「そんなことないですよ、絶対」

「どうかな」


 ぼくがきっぱりと言い切るも、彼女の顔は浮かない。


 それは、彼女がずっと抱えてきた悩みだったのかもしれない。彼女が人気者なのは確かだ。有名人が出した著書が売れるように、彼方翔子という広告塔の力が小説の評価に影響しないとは言えない。事実、演劇部が彼女に脚本を頼んだのは、それにかこつけて舞台にあげること、触れ合う時間を増やすことを画策していた、という面を否定はできない。事実はさておき、彼方さんがそう感じている以上、彼女の中ではそれが真実なのだ。


「別に私は、栞という天才がそばにいることを妬ましいとも鬱陶しいとも思わったことはないんだ。むしろその成長を隣で見届けられる特権を、誇らしいとすら思う。でも、でもね森辺。天才に期待されるのは、辛いよ」


 彼方さんは震えた声で、絞り出すように呟いた。


「私はもう身の程を思い知ったんだ。なのに栞は、あいも変わらず尊敬の眼差しで私を見下ろしてくる。私なんてもうとっくに超えているのに、自分なんて全然敵わないとってもすごい翔子先輩として、わたしを見てくるんだ。それが、怖かった。

 私はただ彼女に、先輩ってこんなものなんだと失望されるのが怖かった。尊敬され続けたかったんだ。ハリボテの裏の本当の私に気づかれるのが、怖くて怖くてたまらなかった。でも、だからといって勝とうなんて思えなかったんだ。この文化祭さえやり過ごせば、もう卒業だ。中学の時みたいにまた逃げられる。頭の中はそんな考えでいっぱいだった。だから私は……」


――盗作をしてしまった。


 ぼくが何も言えないでいると、彼方さんは立ち上がり、ガラリと窓を開ける。途端に肌寒い風が滑り込んできて、頬と胸をちくりと刺す。


「……彼女が臆病者な自分を変えたいと相談してくれたのは嬉しかった。彼女に藤原秋水のホラー小説を勧めたことを、私は決して後悔していない。でも今にして思えば、彼女は相談する相手を間違えていたんだな。だってそうだろう?」



彼方さんは、窓の外へと半身を乗り出すと、日が暮れかけて、藍色へと変わる空に向け、手をぐっと伸ばした。


「なあ森辺。本当の臆病者は、わたしの方だったんだから」


 疲れたのか、彼方さんは力いっぱい伸ばしていた手をだらんと下げた。ぼくはなぜだかそれを見て、ああ、彼女は卒業したら筆を折ってしまうだろうなと、そう思った。


 ……でもそれは、それだけはだめなんだ。


「あの、やっぱりもう一つ良いですか?」


 ぼくは言葉を探し出す前に口を開いていた。


「なんだ?」

「脅しても良いですか?」

「……はぁ?」


 彼方さんは、彼方さんらしからぬ気の抜けた声を漏らした。でも多分、ぼくの発言に一番驚いていたのは、ぼく自身だった。

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