第三章 その6 欠片 (前半)
トスッ……
手を差し伸べたオリンピアのその喉元に、小さな何かが突き刺さる。
ブワァァァ……!
突如として風が吹き抜けるような感覚が彼女を襲った。
その次の瞬間、光りが届かなくて暗かったはずのオリンピアの視界は、一瞬にしてパァッと明るくなった。
洞窟内であったはずのそこには、何故かどこまでも続く緑の大地と、青く澄みきった空が広がっていたのである。
「……な……に?」
突然のわけのわからない状況に戸惑い、辺りを見回すオリンピア。
それは見知った牧場の風景であった。
風に撫でられて波打つ緑豊かな大地。揺れる草花。花の香り。牧場にとって一番の良い季節。
「……!」
突然どこからともなく現れた、白くて大きい毛の塊が飛びついてきた。
押し倒されて顔をベロベロ舐め回される。
「こ、こら止めなさいったらもう……あなた一体どこから……!?」
それは飼い犬だった。
牧場で飼っている牧羊犬。だが言いかけて、そこで言葉を失うオリンピア。
起き上がろうとした彼女はその先に、この世で一番大切なものを見たのである。
小さな手に花冠と麦わら帽子。
こちらに気付いて両手を広げるようにしてくる愛娘のくったくのない笑顔。
彼女に残された小さくもかけがえのないもの。
何故か急に目の前に現れた愛娘。
両手を広げる……それは娘が抱っこをしてほしいときにみせる仕草であった。
「(そうだ……私は何を忘れていたんだろう……)」
そしてオリンピアは何もかもを忘れて、最愛の娘を抱き上げた。
飼い犬が二人の周りを嬉しそうにはしゃぎ回っている。
気付くと、オリンピアはいつの間にか白いワンピース姿になっていた。
それに何の疑問も抱かない彼女。
「はい、おかーさんコレあげるね」
差し出されたのは、お手製の花の冠。それと娘の愛らしい笑顔。
今日はその娘の六回目の誕生日。
「まあっ嬉しい。さぁもう家に帰りましょう。ケーキが焼けているわよ?」
「うんっ♪ ねぇおかーさん。今日はもう、ずうっといっしょにいてね」
「もちろんよ、あなたを置いてどこにも行ったりしないわ。これからはもう、ずうーっとずうーっと一緒よ」
こんなに大切なものを放っておいて、一体どこに行こうというのだ。
「(もう二度と……二度と大切なものを手離したりしない……)」
そう心に誓うオリンピア。
「帰りましょう……私たちのいるべき場所に……」
どこまでも続く青と緑の風景。優しく頬を撫でる牧場の風。
そして腕の中には一番の宝物。
これ以上の幸せはないと思える
オリンピアの喉元に突き刺さっていたもの。
その正体は骨。小さな小さな尖った骨。
それにゴブリンの幼体。とても小さな小さな幼体。
僅かな暗がりから飛び出してきたものの正体は、尖った骨を手にしたゴブリンの幼体であった。
ゴブリンの幼体が突き刺した骨は、オリンピアの首のとてもとても大事な部分を傷つけていた。
これによりオリンピアの刻は、一瞬にして永遠に止まったのである。
まるで張られた弦がプツリと切れるかのように……道中お気に入りと話していた革製の胸当てが、彼女自身の血でみるみる赤く染まっていく。
「あ……?」
乱暴されて傷つき、心をどこかにやってしまった少女。
そんな彼女にとってそれは、いつかどこかで見た光景であった。
彼女の父親もつい先日、目の前で胸を貫かれて同じように息絶えたばかりだったのである。
だがそれにしては少女の反応は薄かった。
目の前で起きた突然の惨劇に、理解が追いついていないといった様子だ。
オリンピアの喉から勢いよく噴き出す血が、辺りを赤く染めあげていく。
その血を全身に浴びたゴブリンの幼体が、少女に向かって何事か叫んだ。
「ぜJョ早pーッ!!!」
ゴブリンの使う言語である。
しかしこの場にそれを理解する者はいない。
突然の展開に最初は何が起きたのか理解できなかった少女。
だが少女の耳にも少しずつだが音が戻ってきた。
時間と共にだんだんと状況が見えてくる。
例えばそれは白黒で、匂いはおろか温もりすら感じられなかった空間に、少しずつ世界が戻っていくかのような。
朦朧とする意識のなかで突然にして目の前に現れた大人の女性。冒険者風の出で立ち。
不意に差し伸べられた救いの手。十字の傷。
それに応えようと、手を伸ばしかけた途端に喉から噴き出す血しぶき。
辺りを赤く染めあげる彼女の血。
首をひねってこちらを向いて、意味不明な言葉を叫ぶ見知った緑の化け物と、その小さな小さな背中。
その一連の出来事が少女を徐々に徐々に、覚醒へと導いていく。
そして結果として、半ば強制的に現実に引き戻される少女。
「……ぅぅぅぅあああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああッ!!!」
そして少女はいつかは自分にと、手の中で転がしていた陶器の破片を強く握りしめると、目の前のゴブリンの背中に向けて思い切り叩きつけたのである。
「グギィ! どコ8ゼゅ←知多ッギーッ?」
辺りにゴブリンの幼体の言葉にならない叫びが
そして少女は再び大きく振りかぶる。
少女は助けに来てくれた冒険者を死に追いやった幼ゴブリンの背中に向けて、再び陶器の欠片を叩きつけた。
「sギlKっ……!」
何度も何度も我を忘れて、その手に握る陶器の欠片を幼ゴブリンの背中に向けて振り下ろした。
もしその身に何も起きていなかったなら、生涯平穏に、誰かを手にかけることなどなかったであろうその手で、何度も何度も突き刺した。
何度も何度も、何度も何度も。
何度も何度も、何度も何度も。
「ギ……Gy……」
辺りにオリンピア以外の血が飛び散った。
それはゴブリンの幼体の血だけではなかった。
あまりに強く陶器片を握りしめていたからだろう。少女の手のひらは傷つき、そこから滴った血まで飛び散っていたのである。
「ああああぁぁぁぁ!」
「ガぁ@4e絵スn……」
背中をズタズタに引き裂かれた幼ゴブリンが身をよじって少女の方を向いた。
そしてその傷ついた背中から倒れこむ。
「ううううぁぁぁぁぅぅぅぅ」
あまりの昂ぶりに手の痛みすら感じていない少女は、大粒の涙をボロボロ流しながら仰向けに倒れた幼ゴブリンの胸に、最後の一振りを叩き付けた。
そしてようやくそこで止まった。
「ギャq磨……」
「……!」
泣きじゃくり涙で前が見えない少女。
その瞼の裏に、不意にまだ幼いゴブリンのあどけない微笑みが浮かんだ。
正気を取り戻して、慌てて涙を拭う少女。
「……!?」
しかし現実にそこにあったのは、苦痛に歪んだ幼ゴブリンの顔であった。
少女にとってこの幼ゴブリンだけは、他の緑のバケモノ達とは違った存在であった。
彼女は弱った自分に恐る恐る水を運んできてくれた存在だった。
唯一この身を案じてくれていた存在……
そんな彼女を刺した……
最初は嫌いだった。
でも光すら届かぬこの場所で、彼女は唯一ひとかけらの温もりを与えてくれた存在であった。
それなのに何度も何度も刺した……
命を永らえさせてくれた存在。
そんな彼女の命をこの手で……
「あぁうぅ……私、なんてこと……ご、ごめ……なさ……」
我に返った少女の手から、血に染まった陶器の欠片が滑り落ちる。
幼ゴブリンにとって、少女のこの突然の行動はまさに奇怪そのもの。
苦痛に歪んでいたはずの顔もその一瞬だけは、わけがわからないといった表情になっていた。
まるで「なぜ?」「なぜなの?」とでも問いかけてくるかのような。
しかしそんな幼ゴブリンの顔もすぐに苦痛に歪んだものへと変わる。
それが少女には怨嗟の念か地獄からの呼び声かのように映った。
「ギャq磨ⅤR……」
少女には解かるはずもないゴブリンの言葉の一つ一つが、まるで呪いの言葉でも投げつけられているかのように思えてならなかった。
そしてそれは決して思い違いではなかった。
次の瞬間、少女を見る幼ゴブリンの瞳に、超常的ともいえるドス黒い何かが確かに宿ったのである。
「a焔ェI8るr……」
だがそれとほぼ同時に、両膝をついたまま事切れたオリンピアの、その刺さったままの骨を伝ってポタリと一滴、血が幼ゴブリンの額に滴り落ちた。
「ギ……!?」
その一滴の血の滴りが、闇に呑み込まれかけていた幼ゴブリンの意識を束の間だけ、今に引き戻したのである。
息も絶え絶えになりながら、血が落ちてきた方を見上げる幼ゴブリン。
そこには自分が刺し殺した女冒険者のうなだれた姿。
「うぅぅ……」
間近には嗚咽交じりに泣き崩れるニンゲンの少女。
返り血で赤く染まった自分の手。
同じく赤く汚れてしまった少女の手。
幼ゴブリンはそれらを何度も何度も交互に見た。
長いようで僅かな時。
そして何かを悟ったかのような顔を見せる幼いゴブリン。
次の瞬間はっきりと、幼ゴブリンの瞳に一度は宿ったかに見えたドス黒い何かが、綺麗さっぱり消え去ったのである。
「ギ……」
幼ゴブリンは最後の力を振り絞って少女の手に触れた。
「!?」
少女は鼻水と涙でぐしゃぐしゃになりながら顔を上げた。
……幼ゴブリンは何故か微笑んでいた。
少女にはそのように見えた。
ずっと拒否し続けていた水を観念してやっと口にした時に見せた、あの時と同じくらいの、くったくのない微笑み。
絶望の中に差し込んだまるで奇跡のような……そこには慈しみ以外なにもない、そんな微笑み。
幼ゴブリンは消えゆく意識のなか口を開こうとした。
「…………」
僅かに唇が震えただけだった。
幼ゴブリンの最期の言葉は声にならなかった。
「うぅぅぅぅああああぁぁぁぁ……」
少女の嗚咽交じりの声が辺りに響く。
「そんな……うそ……」
「オリンピアさん……?」
「な……」
「あ……う……」
固まって動けなかったデイジー、ジャンヌ、スカサハの三人が、金縛りから解放されたかのようにオリンピアのもとに駆け寄った。
遅れて若いギルド職員も震える足を引きずるようにして寄っていった。
そこには血に染まった陶器の欠片が、ポツンと転がっていた……
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