第二章 その5 見知らぬ天井、見知らぬ知的生命体(後半)

 半月余りが過ぎた。


 足の傷は覚悟していた程度には重傷だったようで、未だ一人で歩き回ることはできなかった。

 しかし献身的な介護もあってか、経過はまずまずだと言えた。この調子ならいずれ一人で、どこにでも行けるようになるだろう。

 もう破傷風の心配もほとんどない。

 メイルはついてないばかりだったクソみたいな自分の運に、これほど感謝したことはなかった。


 破傷風。それは傷口から入る細菌、ばい菌、病原菌が原因の感染症。


 死んでもおかしくない程の大怪我を負った際に、助かるかどうかの境は大きく分けて二つ。

 一つはその後の応急処置。

 だがこれが上手くいったとしても前述した通りまだ安心はできない。

 処置も上手くいって、もう大丈夫だと思ったのに急に高熱を出して命を落とすといった事例が絶えないのである。

 その原因の多くが破傷風によるもの。


 必要なのは清潔な環境。

 しかしこの時代にそんなもの期待できるわけがないし、その重要性など知る由もない。


 そもそも破傷風という単語はもちろんのこと、概念そのものが存在しないのである。

 あるのはそういった命を落とす事例が絶えないという数々の前例だけ。

 原因すら解かっていないのである。


 大怪我を負って助かるかどうかはまさに運次第、神のみぞ知るところであった。


 発酵した見た目はまるでアレなアレを、熱して溶いで作った茶色いスープ。

 コクがあり深みがあり、毎回違った野菜根菜が入っているメイルのここに運び込まれてからの一番のお気に入り。


 まさに神のための汁。

 いやそれこそ神ですら舌を巻くのではないかと思えるほどに美味であるそれを、一息に飲み干すメイル。


「ぷハァー……ごちそうさまぁ」


 本日も美味しゅうございました。なんていうセリフが聞こえてきそうなぐらいには満足げなメイル。

 その様子を見て、こちらも嬉しそうな表情を浮かべる亜人種の少女。


 一息入れてから二人は向き合った。 


「わたしの なまえは メイル よ」

「ワタvi0 7うぇ〇 べWいl ヨ」


 暇を持て余すメイルは、最近はこんなことをして時間を潰していた。


 胸に手を当てて繰り返すメイル。


「メイル」

「めWる」


「メ イ ル」

「め い る」


「そう! 私の名前はメイル。メイルよ!」

「めいる……めいるめいる!」


 手を取り合って子供のようにはしゃぐ二人。


「nー……ワタvi0 7うぇ〇 ほっぷる Yo」


 メイルがそうしたように、自分の胸に手を当てて同じ仕草をする亜人種の少女。


「ほっぷる?」

「ワタvi ほっぷる」

「ほっぷる! ほっぷる!」

「めいる! めいる!」


 笑顔で笑い合う二人。それは二人が初めて言葉で意思疎通が図れた記念すべき瞬間であった。



 さらに半月余りが過ぎた。


 メイルは支えがあれば何とか、というぐらいにまでは回復していた。

 最近はほっぷるに付き添ってもらってリハビリに明け暮れる日々である。

 だがこれにはもう幾らも日を要さないだろう。


 この頃のメイルとほっぷるは、何をするにも二人一緒であった。

 メイルには介助の手が必要であったし、言葉のこともあったのでこれは当然の成り行きといえた。


 ほっぷるは確かに里長≪さとおさ≫より面倒を見るよう言いつかっていた。

 しかし大いにメイルのことが気に入った彼女は、進んでメイルとの時を共に過ごしたのである。


 ついてないが代名詞だったはずのメイル。

 チンピラのベラートに目をつけられたり、バジリスクとの遭遇など、これまでの人生に恥じない不運もあった。

 しかしゴルドーとジェロニキをはじめ、森に行くと覚悟を決めた夜を境に、彼女の運は確かに上向き始めていたのである。

 その最たるものがこの里に住む亜人種たちに助けられたこと、愛らしいゴブリンの少女ほっぷるとの出会いなのであった。


 このほっぷるという名の愛らしい亜人の存在は、後に彼女の意志とは余所に、名を成すメイルの一助を担うことになる。


「めいるハ、ばいぱぁタオス キッカケクレタ オンジン」

「ヴァイパー? ああ、あの化物大蛇のことね」


「ソウ、バケモノダイジャばいぱぁ。ばいぱぁニハ 里ノ者 タクサンタクサン 殺サレタ」

「そう、あなた達も……あの大蛇、何もかも滅茶苦茶で、規格外の強さだったものね……」


 体の小さなこの種族では、あの麻痺毒を喰らった時点で即お陀仏だろう。


「デモめいるガ ばいぱぁ 動ケナクシタ」

「もしかして……あの戦い、見てたの?」


「ウン、デモ トテモトテモ 遠クカラ。ばいぱぁ ワタシ達ニトッテモ シュクテキ。仲間ノカタキ トル キッカケクレタ めいるニ 里ノ者 ミナ感謝シテル」


「でもあれは自分自身の為にやったことだから、そこまで感謝されるとなんか気が引けちゃうわね。それにこっちこそ感謝してるわ。助けてくれて本当にありがとう」


「めいる……アリガトウ。めいる、ダイスキ!」


 急に抱きつく無邪気なほっぷる。


「こら、いきなり抱きついたら痛いって。ほら、イタタタッ……アダーーーッ!」


 マジで痛がるメイル。反面、頬を擦りつけ実に満足げなほっぷる。


 無邪気にはしゃぐ彼女は特に可愛い。時折り覗く八重歯は超キュート。


 ほっぷるは僅かな期間でニンゲンの言語を、カタコトながら日常会話くらいなら難なくこなせるレベルにまでに習得していた。

 その上達っぷりたるや、このゴブリンの言語習得能力の高さには唸らされるばかりであった。

 いや唸るなんてものじゃない、驚愕に値する。

 ほっぷるというこのキュートなゴブリンの天才っぷりは、尋常ではなかったのである。


 メイルがここに担ぎ込まれてから一ヶ月とそこそこ。かろうじて意思疎通が図れるようになってからはまだ一月と経っていない。

 その僅かな期間でほっぷるは、メイルの話す人間の言葉のその殆どを理解するようにまでなっていたのである。


「(この子ってば、本当に凄いわ……もしかしてゴブリンって皆こうなのかしら?)」


 とは言っても、ほっぷる以外のゴブリンが人間の言語を解している様子はない。だから皆が皆そうではないのだろう。

 でも、もしかしたらという可能性までは否定できない。少なくともほっぷるという逸材が生まれる土壌は、確かにそこに存在するのである。


「(もしかしてゴブリンが人間に追いつく未来も、そう遠くないんじゃ……?)」


 今はまだ原始人に毛が生えた程度の文化レベルでしかない彼らである。

 だがニンゲンの文化に触れ、驚異的な速度でそれを吸収していったとしたら……?


 人間であるメイルには当然、ゴブリンの言語は理解できない。だからこそ余計にこのゴブリンの少女のことが特別に映ったともいえた。


 人間の文化に触れ、驚異的な速度で吸収するポテンシャルを秘めた種族……その心配は杞憂であったかもしれないし、また核心を突いていたかもしれない。


 残念ながらこの件に関しての答えは、はっきり出ていない。何故ならそれを確認できる未来は、やってはこなかったからである……


「ワタシ達ハ 受ケタ恩ハ 決ッシテ忘レナイ。ナンジュウ倍ニモシテ 必ズ 返ス」


「何十倍ってもう大げさなんだから、本当にそこまで重く考えなくてもいいってば。私も助てもらった側なんだし、お互い様よ、お互い様」


「オタガイサマ オタガイサマ!」

「フフッ、あははは」

「アハハハ」


 二人は肌の色も違えば、生きてきた環境も違った。

 一方はニンゲンで、もう一方は二本の尖った角を生やした亜人種。

 しかし瞼を閉じればそれはまるで姉妹か、歳の離れた従妹同士といった雰囲気であった。


 この後、里には大変な災厄が降りかかることになる。そして二人は永遠に別れ別れとなる。


 もう二度と顔を合わせることのなくなる二人であったが、メイルはこの里でのことを決して忘れることはない。

 ただの一時として、ほっぷるのことを忘れることはなかったのである。

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