第一章 その5 ネコのツメ (中盤)

 何のことはなかった。

 無口なゴブリンの先導によって何事もなく目的地まで辿り着けたのである。


 太陽が昇りきる前での到着。

 目的のものも無事採取することができたし、ここまでは順調といえた。

 ツキもあったろうが、やはりこの無口なゴブリンの経験によるところが大きいのだろう。

 この森に潜む様々な危険を考えれば、それぐらいのことはアネットにも理解できた。

 彼女はもう随分と前から本人も自覚しないままに、この無口なゴブリンのこと信頼していたのである。


 事が起きたのはその帰路であった。

 もう少し行けば知っているエリア、暗くなる前には村に辿り着けそう。

 そう思った時だった。


 バッチィィィンンン……


 唐突に足元にあった確かなものを失い、重力に引っ張られるアネット。


「(……何? 何が起こったの!?)」


 無口なゴブリンによって突然、谷側に突き飛ばされたのである。と同時に耳元で恐ろしい音が響いていた。


 谷底に落ちるにはまだある。なんとか体勢を立て直し踏みとどまったアネットは、先ほどまで自分が立っていた場所を仰ぎ見た。


 グァガアアアァァァァ

「!!!?」


 聞いたことのない魔獣の咆哮。

 今の今まで自分がいたはずの場所そこには、一撃必殺の噛みつき攻撃が空を切って激しく苛立つ、めちゃくちゃ大きな虎のような姿をした魔獣がいたのである。


 地肌むき出しの、毛の一切ない虎。そして特徴的な長い二本の牙。

 あえて付け加えるならばネコ科。だがネコ科特有の愛らしさなど微塵も感じさせない、完全なる肉食獣。


 それは冒険者たちがサーベルタイガーと呼び、恐れおののく存在であった。


 ヒトの一回りも二回りも大きいぐらいの体躯。スマートで無駄のない肢体。

 間違いなくこの辺りで頂点に君臨する存在。

 ヒト種の少女や、ゴブリンにしてはちょっとはできるといった程度ではどうしようもない相手。

 戦えば敗北は必至。ヤツのエサがちょっと豪華になるだけのこと。


 自分はあの無口なゴブリンの手によって、再び助けられていたのである。


「グァ度Iじ6ょmせヴぃーーー!」


 それは初めて見る光景であった。

 あの無口なゴブリンが柄にもなく雄叫びを上げていたのである。


 あのゴブリンは滅多なことでは無茶はしない。それなのに剣を抜き放ち、戦闘の意志を示している。

 アネットには理解できなかった。何故あのような強大な敵を前にして無謀にも挑もうしているのかを。


 そんなゴブリンが雄叫びを上げる傍らで、ジェスチャーでもって合図を送ってきた。


「……!?」

 それは逃げろという合図。


 アネットは全てが自分から注意をそらすための行為であることを理解した。

 無口なゴブリンは意味もなく戦いを挑んでいたわけではなかった。

 逃げる為の時間を稼ごうとしているのだ。それも命懸けで……


 ならば共に森に入った者としてどうあるべきか。

 互いに背中を預け合う者として、こういった場合どうあるべきなのか。

 意外にもアネットは、無意識のうちに彼を仲間だと認識していたのである。


「戦う……?」


 そこにさっきの一撃を、まともに喰らってた時のイメージが脳裏をよぎる。

 気配にすら全く気付いていなかった未熟な自分。血を吐き一瞬にして絶命する、明らかに力量不足な自分。


「(もしあの時、突き飛ばされていなかったら……)」

 漂う死の臭い。


 ……そんなのただ死ににいくだけ、戦うと  

   いう選択だけはありえない!


 ……ならば村まで走って助けを呼ぶ?


 ……バカ言わないで! 今こそこの地から  

   おさらばする絶好の機会じゃない!


 稲妻の如く突きつけられた究極の三択。

 与えられた猶予は一瞬。戦うか、助けを呼ぶか、逃げるのか。

 アネットは思いもかけずに選択を迫られたのである。


 そして選んだ。決断した。


 ……そして小さく首を振る。


 たとえ村まで全力疾走したとしても、助けなど間に合おうはずがない。

 全てが終わった後で唯一人ただひとり生き延びたとして、その後はどうするというのだ。

 それになんの準備もなしにの帰還など博打が過ぎる。

 森の奥のことなどまだいくらも解かっていないのに、とても賢明な選択とは思えなかった。


 ……違う、そうじゃない。


「ふざけないで……」

 怒りに打ち震えるかのような声。


 もとよりこの状況でとるべき行動はハナから一つ。

 それなのにあれこれと理屈をこねくり回す、それは浅ましい自分自身に向けられたもの。


 仮にも彼は命の恩人。

 それも二度も……二度も命を助けられた。それを見捨てて逃げた残りの人生に、一体どれほどの価値があろう。


「そんな人生……願い下げよ……」


 そんなのたとえ死んだとしても御免だった。これこそがアネット、彼女の本質である。


 キッ……


 鋭く、輝きを放つが如き眼光。

 それはアネットに真の意味で魂が宿った瞬間であった。


「……自分を偽って生きるのはもう終わりよ」


 今ここに、いいとこ育ちのお嬢様であったアネットは、ただのアネットへと生まれ変わったのである。

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