第一章 その4 無言の教え (後半)

 ふた月ほどが経った。

ふた月ともなると、料理の腕もだいぶ上がってきた。

 火を使った調理も普通にやらせてもらえている。卵を使った料理の時はいつもより早く皿が綺麗になる。無骨なゴブリンの好みも少しだけ分かってきた。


 日々の観察から、森に足を踏み入れるゴブリンが意外にも少ないということも分かった。


 相変わらず自由を奪われたままの生活が続いていたが、この頃になると手枷も縄もない時間がちょこちょこと出てきた。

 とはいえ無口なゴブリンの監視の目もある上に何の準備もできていないので、そう簡単には逃げ出せないのではあるが。

 信用を得、時が満ちるにはもう少しばかり時間がかかりそうだった。


 それとともにアネットは、ここでの暮らしを苦痛に感じることが少なくなってきていた。

 早く家に帰らなければと思う反面、ここまできたら逃げ出すのが少し遅くなるくらい何でもない、そう思うようにもなってきていたのである。


「子供の私じゃ、あの森を抜けるのはコトだしね。逃げ出すのはきちんと準備を整えてからでも遅くはないわ」


 だがあまりに遅くなり過ぎると、死んだと思われてしまうかもしれない。そうしたら両親はきっと悲しむ……


「お父さま、お母さま、もう少しだけ待っていて下さい。私は必ず帰ります……」


 アネットはここに連れてこられた頃は、全くと言っていいほど心に余裕が無かった。しかしそんなものは何時しか何処かへといっていた。これは良い兆候なのかどうなのか。

 少しずつだが確実に、アネットの心境は変化を迎えていた。



 三月みつきほどが経ったある日である。

 アネットは初めて森に連れて来られた。


 手枷も縄もなかったので初めて訪れた逃走の大チャンスではあったが、ゴブリンを振り切って森を駆け抜けるのはあまりにもリスクが高いと考え、少しだけ様子を見ることにした。


 ゴブリンにはまず水場へと案内された。食べられる実のなる木や植物を教えられた。獣を捕る為の罠の種類、設置場所を教えられた。

 落とし穴には小ぶりなボアが掛かっていた。吊り上げ式の罠には角うさぎが掛かっていた。

 道中、人食い植物のマンイーターにも遭遇した。その不気味に蠢く妖しい植物は、無口なゴブリンの敵ではなかった。

 それがアネットの目には不覚にも、頼りになる存在だと映ってしまったのであった。


 そして休憩時、無口で無骨なゴブリンは木の枝で地面に絵を描いてみせた。

 頭に角を生やした兎にも似た魔獣。通称、一角うさぎ。

 他に狼、鹿、猪、熊、そして先ほどのマンイーター。

 意外にも絵心があるようで、ちゃんと伝わるくらいには丁寧に描いてくれていた。


 角うさぎと狼、それにボアと熊との対比。 

 そして新たに書き加えられた、それらよりもさらに大きく描かれた四足歩行の獣の絵。姿形だけならおよそ犬か狼か。だが描かれた大きさがそれを否定する。

 二本の大きな牙が特徴的な、狼とはまた似て非なる別の存在。


「こんな大きな犬なんているわけない。確実に魔獣だこれ……」


 人食い植物のマンイーターがいるくらいである。そもそも近くにゴブリンの集落もある。

 ここは魔属性地域の森。他にもっと強力な魔獣がいたとしても何ら不思議はなかった。


 次に無口なゴブリンは、この森を含んだその周辺の地図をも描いてみせた。

 そして森のある部分をおもむろに線でぶった切ると、ここから先へは行ってはならないとジェスチャーでもって教えてくれた。

 そしてそこに先ほどの犬モドキなんかとは比べ物にならないほどの大きさの、蛇の絵を描いてみせたのである。


 ありえないデカさで描かれた蛇の絵。決して近づいてはならない最高にヤバい存在が、そこに住みついていることだけは理解できた。


「この森は魔獣の森なんだ……それも角うさぎやボアなんかとは比較にならないほどの存在がいる……」


 最悪だった。これではたとえ逃げ出せたとしても、魔獣の餌食になるのは目に見えている。

 このゴブリンはその事実を知らしめる為に、こんな絵を描いてみせたのだ。

 森にまで連れてきたこともそう。

 どうだ、いいかげん理解できたか、無駄な考えは捨てるのだ、とでも言うように。


 そのとき無口なゴブリンが小さな石を割って、ナイフのようにしたものをこちらに寄こしてきた。

 そして近くの木の枝を切ってみせる。

 その枝は傾けるとかなりの水分が滴ってきた。それを直に飲んでみせるゴブリン。


「ギャ滴y6P」

「……?」


 お前もやってみろと言っているのが分かった。ゴブリンのやったことを真似るアネット。真似ながら少しだけ考えを改めてみることにした。


 この無骨なゴブリンは森で生き抜く術を教えようとしてくれている。

 何故かはわからないが無駄に命を失わないよう、知識を分け与えてくれている。


 逃げ出す気満々なのは伝わっているはずだった。それなのに生き抜く術を教えてくれている……

 それが何を意味するのか。アネットはその答えを探そうと考えた。

 考えたが結局、納得のいく答えには辿り着かなかったので、今は目の前のことだけに集中することにした。


 その後、角うさぎの血抜きなんかを済ませて川で冷やしている間に、罠の仕組みや仕掛け方、注意する点などを教わった。

 そうこうしているうちに森での初めての時間はあっという間に過ぎていった。



 ーーーその日の晩のことである。


 ……カチャリ

「……?」


 その日の夜からアネットの自由を奪う手枷と縄はなくなった。

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