第一章 その4 無言の教え (前半)

第一章 その4 無言の教え



 少しだけ長い監禁生活で、すっかり寝不足だったところに手刀をみまわれたアネットは、がっつり丸二日間も眠りこけてしまっていた。


 そして一度は目を覚ましたものの現実に打ちひしがれ、水と果実、ありえない堅さのパンを腹に入れた彼女は、再び丸一日近くも眠り込んだ。


 意識がはっきりしだした頃にはもう後の祭り。

 そこは見慣れない木々が並ぶ、魔属性地域の辺境にあたる場所。

 こうしてアネットはこれから時を費やすことになるであろう場所に連れてこられたのである。


 右を向いても左を向いてもゴブリン、ゴブリン、またゴブリン。ここにはゴブリンしかいない。

 一度は商品として他国の奴隷商に売られたはずのアネットが連れてこられたのはここ、ゴブリン達の住む集落であった。


 そこは岩肌があらわになった高台の中腹にあり、切り立った崖が上下一本ずつのルートでしか侵入を許さない云わば天然の要害。


 上の方はここからでは確認できないが、下は畑と緑の平野が広がっていて、一見したら牧歌的でどこかの農村のような風景。

 しかし眼下のその緑の平野の先は完全に森に囲まれており、何処までも続く断崖とで囲まれた隠れスポットのような空間であった。


 その囲まれた森の向こう、遥か彼方に見知った山麓の稜線が見える。あれは霊峰ミュセル山脈。母なるペトラル川の水源地にあたるところ。

 その景色から見て、故郷は方角的にはその森の遙か向こう。アネットが帰還を果たすには、この深い森の踏破が必須のように思われた。


 アネットは崖から引き上げてくれた無口なゴブリンに連れられて、村のはずれにある一軒の家にやってきていた。

 ここはそのゴブリンの住まい。そしてたった今から生活を余儀なくされるところ。

 馬屋とまではいかないまでも、貧乏農夫のあばら家といった具合か。


 酷い。確かに酷い……が、穴ぐらとか最悪まで覚悟していたアネットは、想像していたものよりかは幾分マシと言えなくもない文化的住まいに、正直ホッと胸をなで下ろした。

 反面、これからのことを考えると気が滅入る思いでもあった。


 最初は奴隷同然の扱いを受けた。料理を作らされる時と軽作業を命じられた時以外は、基本的に手枷を嵌められた。

 手枷がない時は柱に括った縄に繋がれた。 

 隙あらば逃げ出してやろうというアネットの浅い考えは、完全に見透かされていたのである。


 あばら家の中で腕立て伏せ等の筋力トレーニングに励む無骨なゴブリン。それを少し離れたところで、観察でもするようにじっと見つめるアネット。


 命の恩人であるゴブリンは非常に無口な存在であった。まあ喋りかけられても会話が成立するわけもないので、アネットとしてはその方が気は楽ではあった。


「いつか逃げ出してやるわ……」

 そう心に決めるアネットであった。


 ひと月ほどが経った。ひと月ともなるとプライドの高い部分のあるアネットも、流石にこの生活に慣れてきた。


 当初は奴隷同然の扱いなどと評したが、実際のところはというと、奴隷というよりかはむしろ召使いに近かった。

 手枷などの制約こそあるものの、それ以上の酷い扱いは受けたりはしていなかった。


 この頃になると家の外に連れ出してもらえる機会も増えた。相変わらず手枷は嵌められたままではあるのだが。


 逃走を諦めたわけではない。しかし村の様子を観察できるようになったおかげで解かってきたこともあった。


 例えばこの命の恩人であるゴブリンのこと。どうやら彼は集落では変わり者の部類に入るらしい。人間社会で言うところの人付き合いが下手といったところか。

 無口で無愛想に見えるのはなにも自分に限った話ではなかったらしい。ただ能力においては一目置かれる存在のようで、なにかと頼りにされていることも分かった。


 他にはそう、例えばそこの煙の出ている家。あれは鍛冶屋だ。似たようなものを見たことがある。

 他にも共同で食事を作る場があったり、洗濯をしていたりと、店みたいなものこそ見受けられなかったが、思っていたよりも文化的な一面も確認できた。


 次に村長がいること。序列があり、集落で生きていくルールらしきものも見受けられた。

 ゴブリン達にも社会があった……まるで人間社会のようであった。


「バケモノ共がいっちょまえに人間のマネゴトをしているわ……」


 それはまるで愚かな原始人が必死に背伸びでもしているかのよう。アネットにはそれが滑稽に思えてならなかった。

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