第一章 その3 解放の手 (後半)







「うう……くうっ……」


 絶体絶命。今のこの状況を説明するに、これ以上の言葉はないだろう。


 アネットは右手で気を失った男の子の襟首を掴みながら、残った左手と両足でもってなんとか崖にへばりついていた。

 しかし足に繋がれたままの縄がもう一人の女の子を逆さ吊りにしている。


 かろうじて死の淵で留まっていたのはこの三人だけ。あとの半数は馬車と共に谷底に消えていた。

 しかしこの三人も時間の問題。十才の少女に自分より小さいとはいえ二人もの、宙吊りに近い状態の人間を支え続ける力はない。

 このままでは三人とも奈落の底に真っ逆さまである。まさに絶望的な状況であった。


「もうダメッ! お願いっ、早く上がってきてっ!」

「いたいよー、わたしできないー」

「そんな……お願いだから頑張って……」

「うえーん、ぱぱぁーままぁー」


 何とか自力でよじ登ってくるよう促すアネット。だが逆さに吊られた女の子は馬車から転げ落ちた際、どこかに肩をぶつけて脱臼していた。それに自由を奪う手枷である。

 アネットよりも小さな子供に逆さ吊りの状態から、それも脱臼した腕でどうこうしろだなんて、どだい無理な話であった。


 アネットからは見えないが、反応のない男の子のほうも額から大量に血を流している。


 ガラガラガラガラッ……


 もろい岩肌がぼろぼろと崩れる。一人ならあるいはなんとかなったのかもしれないが、一方の手が塞がり片足が縄に引っ張られた状態ではもう、どうしようもなかった。


 それでも懸命に耐えるアネット。だが耐えるだけ無駄、こうなった経緯を考えると救出は望み薄としか言いようがない。多分に砂を含んだ岩肌は今にも崩れ落ちそう。


 落ちてきた小石がアネットの額に当たる。アネットは耐えた。耐えに耐えて耐えた。

 岩にしがみつく腕はとうに感覚がなくなっている。


 ……そしてアネットは自分の運命を理解した。


「(ああ……)」

 自分は今日ここで死ぬのだと。これが運命だったのだと。


 唇を噛みしめるアネット。耐えられなくなった手が岩肌から剥がれそうになる。


 慈悲など全くない過酷な現実が大口を開けて、アネットが力尽きるのを今か今かと待っていた。


「ごめん……二人とも……」

「(お父さま、お母さま……)」

「もう……駄……目……」


 最後に頭に浮かんだのは優しい両親と、六つになったばかりの弟の姿。


 そしてアネットが運命を受け入れた次の瞬間……何者かが彼女の手を掴んだ!


「……!?」


 満身創痍で顔を上げるアネット。そこには自分よりも少しだけ大きいくらいの背丈をした、緑色のバケモノがいた。

 ゴブリンと呼ばれる人類の敵、それを目にするのは今朝に続いて二度目。


「ギィy度せ8すトャ該せ」


 その敵であるはずのゴブリンが、何故か落ちる寸前のアネットの手を支えていたのである。


「……?」


 間近で見るゴブリン。緑色の怖い顔。程度の小さな双角。


 バケモノがニンゲンを助ける。これは一体どういうことだろう。全く想定していなかった事態に思考が停止するアネット。


 しかしその一方でバケモノは、もう片方の手で小剣を引き抜くと、気を失った子を掴むアネットの手の甲をいきなり……刺した!


「!?」


 手に走る突然の激痛。

 硬直した拍子に掴んでいたはずの男の子の襟が手元からすり抜ける。

 縄がほどけていたらしい男の子はそのまま崖下へと真っ逆さまに落ちて行った。


「ぎゃあああぁぁぁん!」


 その様子を見て泣き叫ぶ逆さに吊られた女の子。


「何でーーーっ!!! バケモノめっ! 何てことをッ……!?」 


 そう叫び睨めつけたアネットだったが、ゴブリンの目は何故か真剣そのものだった。

 バケモノとはいえ人の形をした亜人種である。悪意からでも冗談半分でもないことは、その目を見れば解かった。


 パラパラパラ……ゴッ……


 アネットの残り体力もすでにゼロ、手は痺れて力が入らない。

 上の方で崩れた人の頭ほどの大きさの岩が、そんなアネットのすぐ脇をかすめるようにして落ちていった。

 今のがもし直撃していたらと思うとゾッとする。


 このへばりついている砂混じりの岩肌は、いつ崩れても不思議はない危険極まりないもの。

 いま掴んでいる岩も、いつポロッといったっておかしくはない。


「グァ非せ」


 一言だけ何事かつぶやいたゴブリンは一段下へと降りていく。


「グァ非せ、Gえ藻゛れメqと¥モ」


 そして吊られた子とを結ぶ縄に小剣を当てるゴブリン。切る気なのだと理解した。


「……!? お願いやめてぇっ!!!」

「イヤァァァァヤメテェェェェ!!!」


 その悲痛な叫びを聞いて尚、ゴブリンは躊躇しなかった。

 皮肉にもつい先ほどまでは自由を奪い、そして今は命を繋ぎとめているその縄を、顔色ひとつ変えずに切ってみせたのである。


 女の子は断末魔の叫びをあげながら崖下へと消えていった。

 この世のありとあらゆるものから解放されて……


「ああああぁぁぁぁ……」



 そして数分後ーーー

 ゴブリンに支えられて崖の上へと生還を果たしたアネットは両膝をついてうなだれていた。

 あの窮地から生還できたのは奇跡という他ないだろう。


 しかしアネットは命あることを喜んではいなかった。

 それも致し方ないこと。つい先ほど地獄を見たばかりである。

 十才の子供に降りかかる災厄としては、これ以上のものはそうは無い。


 命の選択ーーー。そんな経験、まだ十才のアネットにとっては初のこと。それも当事者になど考えたこともなかった。

 だがいくら予断を許さない状況だったとはいえ、まだ生きたいと叫んでいた女の子まで谷底に落とすだなんて、そんなのいくらなんでも酷過ぎる。


 それが一番助かる見込みの高かった自分を確実に生かす為であったなど、幼いアネットに受け止めきれるはずもない。


「グァ度hPき6宮もィデー!」


 武装した他のゴブリンが手を振りながら駆け寄ってくる。そう、アネットの危機に駆けつけていたのは、たった一体のゴブリンだけだったのである。


 もしこのゴブリンがやってきていなかったなら、アネットは確実に命を落としていたことだろう。

 敵性種族相手に温情か、はたまたただの気まぐれか。

 しかしこのゴブリンのおかげで彼女が永らえられたことは、否定しようのない事実であった。


 命の恩人ならぬ恩ゴブリンとでもいうべきか。そんなことはアネットも理解していた。  

 理解はしていたが納得はできなかった。この人類の敵と目されるバケモノは、自分の目の前で幼い二人の尊い命を奪ったのである。 

 いやこの惨劇が彼らの襲撃から始まったとするならば、今日ここで散っていった子供たちは……許せるはずがなかった。


 ゴブリンの腰に下がる剣に目が行くアネット。それはつい先ほど自分の手の甲を傷つけ、二人の子を奈落の底に突き落とした忌まわしきもの。


 でもそれすらも見えていない、完全に周りが見えなくなってしまった少女は後先も考えずに、感情のままに行動したのである。


 アネットはゴブリンの注意がそれた一瞬の隙をついて小剣を引き抜くと、殺すつもりで突き掛かった。


「皆の仇ーーーっ!」


 護身術等で僅かなりとも剣の心得のあったアネット。しかしそんなものは所詮、児戯でしかなかったことを思い知る。


 彼女の不意をついた一撃は虚しくも空を切っただけであった。

 そしてひらりと躱され腕を掴まれたアネットは、首すじに手刀をみまわれたのである。


 アネットは薄れゆく意識のなか、自分が殺そうとした命の恩人の顔を垣間見た。

 そのゴブリンはやはり真剣な表情をしていたのであった。

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