Ⅲ 墓守
地下の霊廟にアウロラの叫び声が響いた。断末魔のような声を上げて、視界を失ったアウロラが手負いの獣となって襲ってくる。スタニスラフが魔女から俺を遠ざけてくれた。光の柱の維持に力を出し尽くしたせいで彼は息切れしてふらつき、その手はまだ魔女の眼を抉った際の血がついたままだ。それでも年長者らしく俺を背中に護ろうとしてくれる。ありがたいが、俺だってヤッシュなんだからさ。
床に落ちた自分の眼玉を踏みつけたアウロラが咆哮した。俺は無理やり若君の膝と脇に腕を入れてスタニスラフを抱き上げた。
「セルヴィン」
「休んでて、若君」
壁際に連れて行くと、
「俺は大丈夫だよ」
魔法杖をみせて力強く頷きスタニスラフを安心させた。スタニスラフは壁龕の壁に背中をつけると、すぐに眼を閉じた。
俺は床に倒れているドクトルに駈け寄った。アウロラはドクトルに背後から抑え込まれた時に相当に抵抗したようだ。老人が起き上がらないのも道理で、ドクトル・クローヴァスは深手を負っていた。魔女アウロラの魔法杖のほうはスタニスラフが取り上げて折ってしまい、破片が近くに落ちている。
「ドクトル・クローヴァス」
ドクトルの傍らに膝をついた俺はドクトルに呼び掛けた。
「しっかり、ドクトル」
「わたしはもう駄目だろう」
「俺が支えます。一度、外に出ましょう」
本当にそうした方がよさそうなのだ。外で展開している凄まじい闘いの衝撃が地下にも伝わってくる。
「ドクトル。上に行って事情を説明した方がいいと想うんです。怪我人がいると訴えて、休戦を求めましょう」
「セルヴィン」
「はい」
「セルヴィン・ヤッシュ。あの小さな魔法使いが大きくなったものだ」
「そんなことを云っている場合じゃない、ドクトル」
アウロラは呪いの言葉を吐きながら俺たちの近くをうろうろしている。
「わたしは狂ったふりをして、流浪の民の中に紛れ込み、ずっとこの魔女を監視していたのだ」
老医師の眼は知性の光を取り戻し、口調ははっきりとしていた。でも今はそれどころではない。魔女アウロラが高い声を上げて、鈎爪のように曲げた指でドクトル・クローヴァスに襲い掛かった。俺はもう遠慮せずにアウロラを取り押さえた。俺の手で両腕を後ろに回された魔女は怪鳥のような叫び声を上げて脚をばたつかせた。
ドクトル・クローヴァスはアウロラに哀れみの眼を向けた。
「その女は、魔女レアウロラ。赤光星だった魔女だ」
その間にも霊廟の天蓋はびりびりとした振動を地下に伝えており、細かな塵や剥がれたタイルが降ってきた。アウロラが水晶珠で見せた外の様子に嘘がないとしたら、黒聖母堂に押し寄せたシジッタリアンと帝国軍の衝突は収束するどころか、いよいよ激しくなっている。
「お前に伝えておきたいことがある」
床から俺を見上げたドクトルの顔には死相が浮かんでいた。
かつて、この霊廟は卵の冷暗所だった。それは確かにこの室にあったのだ。
「その保管場所が現在、移動して、霊廟が空になっているのは、わたしのせいなのだ」
ドクトル・クローヴァスは苦しい息の下から打ち明けた。
「わたしが魔女の卵を盗み出したからだ」
二十年前、大河の氾濫により水没したシジッタ地区に皇帝の命で外から救援のために派遣されてきた医療団。その中にドクトル・クローヴァスと、その助手として随行を認められた医大生ドクトル・サリエリがいた。
「団長のわたしは、皇帝から内々に密命を受けていた。その密命とは、黒聖母堂に潜入すること。歴代の皇帝も地下霊廟の存在はご存じだった。皇帝は何度もシジッタの医師会に研究資料の一切を開示するように求めていたが、黒聖母を崇めるあまりにシジッタの医師会はこの街に立て籠もり、受け渡しを長年拒否していた。医療団を率いたわたしは円滑な救助活動を理由に、眼に魔法をかけてもらえるように地区評議会に申請し、医療団長であるわたし限定でそれが認められた。名誉区民として特別に街路を透視できる魔法を眼に授けられたわたしは、機会を掴んで、黒聖母堂の内部に密かに侵入したのだ」
ドクトル・クローヴァスは片手でその大きさを示してみせた。
「魔女の卵はあった。硝子の函の中で、冷気に包まれて眠っていた。そこにあったのは二百年前のレアシルヴィアが遺した命の卵だ。氷室の中に何本か並んでいた銀の筒。わたしはそのうちの一本を盗み出した」
盗んだ筒をドクトル・クローヴァスは医療器具の中に隠して持ち帰った。今この室が空洞なのは、盗難を知ったシジッタの評議会が卵の氷室を他所に移したからだ。
「氷室の新しい隠し場所については、厳重に秘されて、今度こそもう二度と見つけることは出来ないだろう」
皇帝は戻ってきたドクトルに命じた。その卵から古代種を蘇らせてみよ。
「帝国の皇帝は危惧していたのだ。この先、もしもシジッタ側が古代種の再生に成功すれば、帝国は古代種によって滅ぼされるかもしれないと。我々はシジッタと同じように、解凍した卵を赤子が生まれる状態にしてから苗床になる魔女に植え付けることを試みた。それには、借り腹となる魔女を捜さなければならなかった。卵との適合性が高いと見做される魔女はすぐに見つかった。数年前に雌雄同体のバーシェスを生んでいた魔女だ」
スタニスラフのお母さんだ。
「最初の卵は流れて死んだ。銀の筒にあった卵の数は限られていた。卵が古いのだろうか。それとも他に何か足りない条件があるのか。しかし一つだけ奇跡的にうまく着床したのだ。その胎児は無事に借り腹の魔女の胎内で育ち、産声を上げた」
老医師は俺の手を握った。
「セルヴィン。お前だ」
頭の中に詰まっていたものが解かれるような気持ちで俺は老医師の話をきいていた。ぜいぜいと、ドクトル・クローヴァスは苦し気に息をついた。ドクトルは死に際の力を振り絞っている。厳格な老医師は誰も見たことが無いような笑みを浮かべた。
「お前は古代種の先祖返りであるレアシルヴィアを母として生まれた赤子。セルヴィンと名づけたのは借り腹となってくれた魔女だ。魔法使い優位にみえても乳児のうちはまだヤッシュなのかバーシェスなのかは分からない。しばらく育ててみないことには。すると、実験に協力してくれた借り腹の魔女が口を開いたのだ」
その子をどうするのですか。
産褥の弱った身体で、魔女はその眼を強い意志で光らせていた。
その子をわたしの胸に抱かせて下さい。わたしが生んだ子です。
いずれは何処かに連れて行かれるのであっても、まだわたしの許に残しておいて下さい。
わたしの息子は既に伯爵家の養子となり、わたしの許にはおりません。失われた息子の代わりに少しでも長くその赤子をわたしの胸に抱かせておいて。
もう少し。もう少し――。
俺は、俺に名をつけてくれたそのひとを憶えていない。でもその画は、魔都の伯爵邸の壁に架かっていた。まだ若い魔女の肖像画。
「赤子は力強く母の乳を吸っていた。わたしは皇帝に、実験は失敗だった、ほとんどの卵は孵化しなかった、生まれた赤子は死産だったと報告したのだ」
老いたドクトルの顔にほろ苦い笑みが浮かんだ。
「すべての探求心や名誉欲は母親の悲願に負けたのだ。このことを知っているのはわたしの助手を務めていたドクトル・サリエリと、わたしの長年の盟友であるコンラート卿だけだ。サリエリは沈黙を貫き、コンラート卿はおそらく、そこまで詳しくはお前に話さなかっただろう。老人同士の秘密だからな」
くくっと笑った後、ドクトルは苦しげに眼を閉じた。
「卵を盗み出したわたしはシジッタの刺客に狙われていた。老いてもいた。いつ死ぬかも分からない。だから遠い未来に向けて、わたしの遺言ともいえる手紙を書いておいたのだ。十七歳になったお前にその手紙が届くようにと魔法をかけた。氷室が黒聖母堂から移されていることもしらずに」
「ドクトル」
今こそ確信できる。
「ドクトル。俺には生まれた屋敷の記憶があります」
「お前の記憶は抜かれていない」
やっぱり。
「若くして死んだ借り腹の魔女があまりにも不憫だったからな。お前の中に彼女を少しでも遺してやりたかったのだ。幼すぎて忘れてしまうであろうことを前提にそうした。しかし、憶えていたのだな」
庭で遊んでいた俺を優しく抱き上げたひと。青い花を摘んでセルヴィン。俺の生みの母だったのか、スタニスラフだったのか。どちらでもいい。
憶えていてよかった。
「許さぬ」
その時アウロラが咆哮した。
「この霊廟を壊すことはわたしが許さぬ。不敬な墓荒しどもめ、お前たちは此処で死ぬのだ」
俺を想い切り突き飛ばして逃れると、アウロラは魔法杖を突き出した。魔女の魔法杖はスタニスラフが折ったはずだ。俺の魔法杖は手許にある。
「そこの死にぞこないの老医師から、いま取り上げたのだ」
眼球のない顔でアウロラは哄笑した。
「他の者の魔法杖だからといって使いこなせぬとは想うなよ。わたしの魔力がいかに優れて強いかはお前も見ただろう」
暴風の中でも箒を御していた魔女は、力を見せつけるようにいきなり魔法を放ってきた。アウロラが放った魔法がばちばちと周囲で爆ぜる。俺はドクトルを庇って床に転がった。
アウロラは血濡れた顔で高笑いした。
「少年よ、お前の弱点が分かるぞ。幌馬車の中でお前が水晶珠をのぞき込んだ時に、わたしはお前の心も透視していたのだ」
「いけない。セルヴィン」
壁際からスタニスラフが苦しそうに呻いた。魔女の繰り出す魔法が霊廟の壁にあたり、破片が撒き散らされる。俺はスタニスラフとドクトルからアウロラを引き離そうとして霊廟の中を移動した。俺の眼の前にはウィスタ・ラヴィニアが立っていた。
「セルヴィン、幻術だ。それは真実ではない」
スタニスラフとドクトル・クローヴァスが叫んでいる。
「騙されるな、セルヴィン」
セルヴィン。ウィスタ・ラヴィニアは懇願するように両手を胸の前で重ね合わせて俺に訴えた。誓いを忘れたのですか。
「魔女アウロラの幻術だ、セルヴィン」
あなたがその力を揮う時にはこのわたしに向かって揮っているのです。セルヴィン、あなたが今ここでヤッシュとしての魔力を解き放てば、魔法界はあなたを怖れ、あなただけでなく全ての両性具有の棄子に累が及ぶのですよ。それでもいいのですか。
ウィスタ・ラヴィニアだけではなかった。棄児院の友人。グレゴリオ筆記具店のフーゴーさん一家。太陽の下でみんな倖せそうに笑っている。遠くにある倖せの国。
「それは偽物だ、セルヴィン」
「偽物ではないぞ。お前がわたしに魔法を揮えば、その魔法はウィスタ・ラヴィニアが浴びるのだ。それだけではなく、お前に関わりの合った者ども全てがお前の魔力を浴びて即死する。それでもわたしを殺すというのならやってみるがいい」
俺は魔法杖を握り締めた。
空中馬車から老コンラート卿が降りてくる。子どもたちが卿に駈け寄る。コンラート卿は穏やかな笑みを浮かべて子どもたちの頭を撫でている。聖堂の上空ではレニオンとキューリアが箒で飛びながら、突入してきた陸軍の飛行部隊と合流してシジッタリアン相手に闘っている。聖堂に行って彼らを止めないといけない。でも、その前に俺は。
この霊廟を氷室ごと破壊してしまうのだ。キューリアや、赤光星の魔女たちの哀しい犠牲を二度と生み出さないように。
「お前が魔法を揮えば、外を飛んでいるお前の友だちもお前の魔法で死ぬぞ。黒聖母堂はシジタルフィアの心臓部。この霊廟を護るのはこのわたしだ」
眼球のない顔をしたアウロラの唇が吊り上がった。
「わたしは墓守にして女王。赤光星の魔女レアウロラ。わたしを斃してみるがいい、少年」
しかし赤光星の魔女レアウロラはその結果を永遠に知ることはなかった。卵の氷室を外に持ち出した時に、おそらく次なる盗掘者に備え、シジッタ評議会は黒聖母堂に罠を仕掛けていたのだろう。地上の魔法使いたちの闘いが不運にしてその仕掛けに触れてしまったか、或いはシジッタの地区評議会がその決断を下したのだ。
聖域を犯す者。もろとも地底に去れ。
それまでの比ではないほどに地盤が揺れた。霊廟の丸天井にひび割れが走る。耳をつんざく轟音を立てながら、頭上の星空が砕け散る。
次々と倒壊する聖母像。霊廟が軋みを上げている。地下の柱という柱が重圧に折れ、重みの上に重みが重なり、あらゆるものが落下する。果実を圧し潰すようにして、俺たちの上に地上と地下のあらゆるものが崩落してきた。
》5-Ⅳ
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