Ⅱ 氷室
シジタルフィア王国が崇めた魔女の霊廟。黒聖母堂はレアキリアを祀る聖堂なのだから地下の霊廟にその姿絵があるのは当然だが、天井にあるその魔女の画がとりわけ不気味に見えるのは、この霊廟ががらんとして、空っぽだからだ。石棺すらない。それに、寒い。さっきから俺は寒気がしている。
壁際に等間隔で建ち並ぶのは魔女の彫像だ。俺の背丈の何倍もある彫像は全て同じ型で、同じ顔をした像が両腕をあげ、讃えるように天井の宇宙を支えている。
「赤光星の魔女だ。セルヴィン。キューリアを誘拐したドクトル・エッケハルルはシジッタ評議会の委任を受けて、両性具有で赤眼の赤子を捜すために街の外で医者をしていた」
スタニスラフの声をききながら、俺は天井の赤眼の魔女の絵を仰いでいた。突然変異体の白鹿や白蛇のように、そこに神からの啓示を見出す者はいつの世にもいる。
「雌雄同体の赤子は棄子にされる。だからエッケハルルは棄児院を回ってその赤子を捜していた。そして彼は見つけたのだ」
宝石とモザイクの銀河はきらきらと群青色の天蓋を彩っていた。
「シジッタの医学会は古代シジタルフィア王国の高度な医療技術を引き継いでいる。氷室は、シジタルフィアの遺産の一つだ。古代種の再来と見做される赤眼の魔女から卵を取り出すことに成功したシジッタの医学会は、その卵を氷室の中に冷凍保存した。卵も無限に採取できるわけではない。次の赤光星の魔女が生まれてくるまで、少しずつ解凍し、その悪魔の実験は試され続けた」
「赤光星の魔女の卵と、魔法使いとの混血の赤子のことだろ」
「シジッタの研究者たちは、古代種の再生を諦めてはいない」
整然と並ぶ魔女の像。赤眼に生まれてしまったが為にレアキリアの再来として祀り上げられ、卵を採取された魔女。エッケハルルがキューリア・バニラを誘拐した理由は、キューリアがその赤光星の魔女だからだ。
「若君。俺はキューリアをそんな目には遭わせないよ」
俺は断固たる決意をこめて霊廟に建ち並ぶ魔女の像を睨んだ。
「その卵の氷室は何処にある。俺がそれを壊してやる」
氷室を壊してしまえば、卵の保存も出来ないはずだ。キューリアを誘拐したエッケハルルを躊躇わずに殺したくらいだから、スタニスラフの考えていることもきっと俺と同じだろう。
しかしスタニスラフは首をふった。
「残念ながら、この霊廟に保管されていた卵は、氷室ごと運び出されて他の場所に移管されたようだ。踏み入った時には空室だった」
そんな。
悔しい想いで霊廟を見廻していた俺は、ふと足許を見た。床の真ん中にそこだけ色の違う幾何学模様のタイルが埋め込まれている。それを指して俺は騒いだ。
「若君、氷室の隠し場所はここが怪しい」
「セルヴィン。君の母は二百年前の赤光星の魔女レアシルヴィアだ」
「そこから生まれた赤子の子孫が俺だろ」
「いや」
スタニスラフは打ち明けた。
「本当に母なのだ」
スタニスラフの生家は貴族だったが、祖父の代にすでに荘園を手放して没落していた。
「祖父の跡を継いだわたしの父は放蕩者で、さらに困窮した。金が必要となったわたしの実父は、まだ若かった妻を或る実験に差し出した」
「実験」
「母は、大金と引き換えに、古代種再生実験の借り腹になることを承知したのだ」
それは。つまり。
俺の口は半開きになっていた。
「苗床となる借り腹には、雌雄同体の赤子を生んだことのある魔女が望ましいとされる。わたしの母は数年前にバーシェスであるわたしを生んでいた。だから母が選ばれた。君は、解凍したレアシルヴィアの卵を、借り腹となる魔女の胎内に着床することで生まれてきた。借り腹となった魔女がわたしの母なのだ」
青灰色の眸でスタニスラフは俺を一瞥した。
「だから強いて云うなら、セルヴィンとわたしは乳兄弟のようなものだろうか。同じ母体を揺りかごとし、同じ母から栄養をもらったのだからね」
俺がスタニスラフの実家の屋敷にいた理由。
「バーシェスであるわたしが棄子にされなかったのは、親戚筋のオーラミュンデ伯爵家に養子に出されることが既に決まっていたからだ。伯爵には子がいなかった。実家への援助と引き換えに伯爵は養子縁組を推し進めた。それでも、幼い頃はまだ母の許にいたし、伯爵はわたしが時折実家に戻ることをゆるしてくれた。君はわたしの屋敷で生まれた。母は揺りかごに入った君のことを我が子のように愛していた」
霊廟の天蓋は本物の夜空よりも耀かしかった。魔女たちの魂が、魔女アウロラに導かれてそこにある。
「あれは母にとっても束の間の倖せな時間だった。大金を手にした実父は酔い潰れて死に、母も流行病をこじらせて逝った。そして君は棄児院に送られたのだ」
静かな霊廟で、夢の中にいるような気持ちで、俺はスタニスラフの顔を眺めていた。
「母は亡くなる前に、わたしにこう云った」
銀河を描いた天井から不意に不気味な音がした。破られた結界をシジッタの魔術師たちが大急ぎで塞ごうとしているのだろうか。地底へと振動が伝わってくる。気のせいではなく、霊廟全体が揺れ始めた。その音と震えは次第に大きくなっている。頭の真上で巨人が足踏みをしているかのようだ。
「母は死の床からわたしの手を握って云った。可哀そうな子どもたちをこれ以上増やさないで。母こそが誰よりも可哀そうな魔女だったというのに」
壁の向こうから音がして、地下霊廟の両開きの扉が大きく開かれた。
「地上の聖堂が大変だ」
息を切らして駈け込んできたのは、千里眼アウロラだった。霊廟に入ってくるなり、アウロラは室内を見渡して愕きの声を上げた。
「アウロラさん」
「なんと。黒聖母堂の地下にはシジタルフィアの古代の
魔女の眼は昂奮で光ったが、「いや、今はそのような時ではない」と気を取り直し、大急ぎで俺たちに訴えた。
「外が大変なことになっている。レニオンとキューリアは事態を止める為に我々の乗ってきた箒で結界の外に出て行った」
「どういうことですか」
「様子はこれで分かる。ドクトル・クローヴァスはひとまず、地下に向かう階段の手前においてきた」
アウロラは腰につけた袋の中から小型の水晶珠を取り出した。俺は魔女の差し出した水晶珠の中を覗いた。
まず箒に乗ってシジッタ地区の街の上を飛んでいるレニオンとキューリアが見えた。結界に突破口をあけていた光の柱はもうほとんど薄れており、空の色が透けている。屋根の壊れた黒聖母堂の上を旋回しながら、レニオンとキューリアは外に向かってしきりに何かを訴えていた。
「結界の出口が」
「いや、聖堂の周辺にかけられていた幻術自体が解かれているのだ。だからここに映っているものは幻術の失せた、現実のシジッタの街だ」
「レニオン、キューリア。逃げろ」
俺は叫んだ。箒に乗ったレニオンとキューリアに向かってシジッタの街のあらゆる方角から攻撃魔法が飛んできたのだ。その魔法は別方向から放射された魔法によって次々と撃ち落された。幾つかの魔法はレニオンとキューリアが魔法杖を揮って迎え撃ったようだ。
「アウロラさん、一体なにが起きたのですか」
「街中の住民が、黒聖母堂に押し寄せてきたのだ。我々のことを聖堂を襲った破壊者と想い込んでいる。彼らは我々を聖堂の外に引きずり出そうとした。そこへ、皇帝軍がなだれ込んできたのだ」
水晶珠の中には確かに、陸軍の箒部隊の姿がみえる。陸軍の飛行部隊は空軍とはまた様式の違う軍服で箒に乗って飛び回っている。俺は水晶珠を覗き込みながら、昂奮気味にスタニスラフに伝えた。
「若君、見て。これはバルタゼルさんの尽力だ」
バルタゼルが実家の力を使って、陸軍を動かしてくれたのだ。俺たちを救出するために、皇帝がシジッタ地区に軍を派遣する許可を出してくれたのだ。しかしシジッタリアンからすれば、それは聖域を侵犯し、彼らの聖地を穢しに来た悪魔の軍団にしか見えていないのだろう。
地上で激しい闘いが起こっている。黒聖母堂を護ろうとする住民と、俺たちを救出しようとする陸軍が激突している。先刻から音や振動が繰り返し上から伝わっていたのは、これだったのだ。
アウロラが難しい顔をした。
「レニオンとキューリアは攻撃を止めるように外に出て双方に呼び掛けているのだが、事態が混乱しており、まるできき入れてもらえないようだ」
「今のうちにこの霊廟を壊そう、若君」
立っている床の下に氷室の移動先があると信じて、俺は叫んだ。アウロラと眼が合った。
「氷室。氷室がこの下にあるのか、少年」
魔女の眼が妖しく光っている。俺は取り出した魔法杖の先を床の一点に向けた。
「アウロラさん、シジッタリアンが奪取したいのはこの上に建つ黒聖母堂です。若君、魔女の卵の氷室をこの地下の霊廟ごと壊してしまおう。そうすればもう実験は不可能だ」
霊廟がまた揺れた。寒気がする。さらに冷えてきたのか。俺の頭にひんやりとしたものが触れた。
ぽつり。
何かが天井の銀河から落ちてきた。冷たい何かが降っている。ぽつり。
雨。雨だ。
地下に冷たい雨が降っている。霊廟の壁に建ち並ぶ魔女たちの像が大風に揺れる樹のように揺らいで傾き、床が波打った。天井に埋め込まれた宝石が砕け、雨粒となって落ちてくる。俺は何かに縋ろうとして手を伸ばしたが、その手はひんやりとした冷気を掴んだだけだった。
眼の前が白くなった。雨が雪に変わった。地下の御堂に雪が降っている。霧雨のような粉雪だ。俺は外に立っていた。森の中だ。誰もいない。誰の影も見えない。夕暮れの光にひらひらと薄く光りながら、雪は森に落ち、黒々とした大地に吸い込まれて消えていく。
命のように雪が降っている。
腕や肩に、蝶のようにとまる繊細な結晶。雪は積もる。俺の身体は膝まで雪に埋もれていた。
セルヴィン。
あの青い庭にもきっとこの雪は降っている。天地の狭間に流れる大河が夕陽を映す。
若君。俺は此処だよ。
でも俺の脚は動かない。凍れる河の対岸に魔女がいる。見知らぬ魔女だ。魔女は哀しげな横顔で天を仰いでいる。俺は凍えながらその名を呼んだ。
レアシルヴィア。
風が吹き、雪が舞い上がり、落ちるような昇るような感覚に包まれたかと想うと、俺は吹雪の中を突き抜けて地下の霊廟へと戻ってきた。
「セルヴィン」
止まっていた血が一気に流れるようにして、どっと感覚が戻ってきた。
「しっかりしろ、セルヴィン。幻術にかかっていたのだ」
霊廟の床には、地下階段の下り口にいたはずのドクトル・クローヴァスが倒れていた。その近くでアウロラが膝をついている。魔女アウロラは顔を手で覆って呻いていた。水晶珠が床の上で砕け散っている。
「アウロラさん」
「セルヴィン。魔女アウロラはシジッタの手先だ」
アウロラの顔には両眼がなかった。眼玉を抉られている。眼のあった部位の空洞から血を流しながら、アウロラは何かを怒鳴っていた。
「わたしの眼を返せ」
眼球を奪われた魔女アウロラがよろよろと視界の隅で立ち上がった。両手を泳がせ、指を枯れ枝のように曲げて、視界を失ったアウロラは咆哮した。
「わたしの眼を返せ」
スタニスラフが何かを床に棄てた。魔女の眼玉だ。スタニスラフはその手でアウロラの眼玉を抉り取ったのだ。
「ドクトル・クローヴァスは魔女の正体に気が付いていたようだ」
なんで地下に雪が積もっているのだろう。爪の先から血を垂らしたスタニスラフの姿が白っぽく霞んで見える。
「まだ幻覚が残っているのだ、セルヴィン。君を幻術から覚醒させる為には、魔女アウロラの眼を抉り取るしかなかった」
ひそかに霊廟に降りてきたドクトル・クローヴァスが背後から魔女アウロラを魔法で襲い、争い、魔女を羽交い絞めにした。その瞬間をとらえて、スタニスラフがアウロラの両眼を抉ったのだ。
「幻術を解くには、殺すか、眼を潰すしか手立てはない」
魔術師の眼玉を閉じ込めた水晶珠をスタニスラフは懐に持っていた。だから俺と違い、スタニスラフはアウロラの幻術にかからなかったのだ。
》5-Ⅲ
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