第五章◆夜明けの色(最終章)
Ⅰ 地下
光の柱は落雷のように一瞬で消えることはなかった。一本の力強い柱となって天地を繋いで伸びていた。その光に貫かれたシジッタ地区は、眼下で愕くべき変貌を見せ始めた。街区に顕れていたもの、それは街というよりは、街の上を流れてきた時間そのものだった。上空からは器の底のようにみえる街の中心には各時代の建造物が現れては飛び去り、地区の脇を流れる大河はその流れの向きを刻々と変え、この座標が刻んできたものが水たまりの色を変えるようにして、青光りする魔法の下に現れ始めたのだ。
俺たちの箒は風と光に吸い寄せられるようにして街の中心部に立つ魔法の柱に引き寄せられていった。大河のほとりに築かれた魔窟は、今までとはまったく違う様相を見せていた。蕾が花ひらくようにして違法建築の建物の間が次第に開き、折れ曲がっていた道幅が延び、古ぼけた建造群が溶け落ちるようにして地に吸い込まれて消えていくと、薄ぼけた影のあちこちから樹がめきめきと生え、成長した樹木はみるみる街を覆いつくして広大な森となり、シジッタの薬くさい悪臭のかわりに森林の深い香りが風に乗った。その枝葉は縦にも横にも伸び続けて、地平の彼方まで黒々とした樹海を形成していく。
「黒い森だ」
アウロラが感嘆を洩らした。
これは魔法使いたちが各部族に分かれて小集団を形成していた頃の森なのだろうか。見渡す限りの黒い森は、超古代文明が生まれる前の時代のようにも、或いは帝国が滅び去った後の未来の光景のようにも想えた。
「結界を破った魔法の柱がいっこうに消えないぞ」
「侵入孔であり、脱出孔でもあるからだ。逃げる時の経路として保守しているのだろう。あれを維持するために魔法使いは相当な力を使っているはずだ」
スタニスラフに逢わなければ。
俺は唇を引き結んだ。
墜落する馬車からあなたが俺を救ってくれたように、今度は俺があなたを救い出すんだ。
「見ろ、森がまた変わる」
出現した原生林の森は瞬きするほどの間に大河を超えて四方に広がっていたが、流砂に呑み込まれるようにして縮んで消え失せ、代わって今度はいつの時代か分からぬ古代の街が森の中に姿を見せてきた。見たこともない衣服の魔法使いが石造りの堅牢な町並みを行き交っている。これが超古代文明の址地に築かれたシジタルフィア王国なのだろうか。それもすぐに冷たい霧に包まれると、違う時代の街の姿に取って代わり、原始林に戻り、廃墟の中からまた別の街が生まれ、幾層にも重なった地層を次々といちばん上に入れ替えるようにして、霧の中に目まぐるしく座標の歴史が繰り広げられていく。
光の柱を指して俺は全員に呼び掛けた。
「若君が街の幻術を破ってくれた」
まばゆい柱を中心に渦巻いている風に翻弄されながらも俺たちは何とか箒に乗っていた。俺は叫んだ。
「あの光の柱の根元が黒聖母レアキリアの聖堂だ。このままあそこに突っ込もう。アウロラさん、二人乗りだけど降下出来ますか」
「出来る」
魔女アウロラは頼もしく箒を制御していた。後ろに乗っているレニオンが魔女にしがみつく。問題は俺の箒の方だ。
「ドクトル・クローヴァス。しっかり掴まって下さい」
意思疎通が叶ったのか、後席のドクトルは俺の腰に回した腕に力を篭めてきた。上昇するより下降する時の方が二人乗りは危険なのだ。無理せずに外側から螺旋を描いて降りていかないと、弾き飛ばされるか、または刃のように回転している風にずたずたにされてしまう。
気流が竜巻となって渦を巻いている。自分の箒ではない乗り慣れない箒で、後ろに老いた医師を乗せて、果たして降下出来るだろうか。
覚悟を決めて外側から想い切ってその流れに乗り入れた。俺たちの箒は沈没する小舟のようにすごい勢いで渦の下に一瞬で吸い込まれていった。
「あっ」
失敗した。髪の毛が逆立ち、箒から手が滑って離れそうになる。一瞬血の気が引いたが、錐揉み状態に陥りかけた俺の箒は操縦不能になる前に急にぐっと持ち直した。
「わたしの後ろにつけ、少年」
「はいっ」
魔法杖を握った腕を横に出して魔女アウロラが先導し、俺の箒を救けてくれている。すごいな。この逆さまの急流の中で後ろにレニオンを乗せたまま片手で箒を御し、俺の為に魔法杖を揮って道筋を作っているぞあの魔女。
セルヴィーン……レニオーン……。
ごうごうと唸っている風の中、坑道の底から響くように、誰かの声がしていた。俺とレニオンはすぐにその声の主が分かった。
「キューリアだ」
「俺たちを呼んでいる。何処だ、キューリア」
渦の底に向かって俺たちがキューリアの名を何度も叫ぶと、「セルヴィン。レニオン」必死な顔をして手を振っている魔女の姿が見えてきた。キューリアが見えたと同時に、漏斗の先から飛び出すようにして箒は風の影響から抜け出し、一度ふわっと浮き上がるとたちまち舵を取り戻した。急にあたりが鮮明になる。
俺たちの箒は結界の隙間を縫って黒聖母堂の床に着地した。キューリアが井戸の底にいるように見えたのは、壊れた屋根の下に居たからだ。屋根や石柱の残骸が辺り一面に散らばっていて、まるで災害現場のようだ。キューリアはいつもの男装姿で、恐怖に震えて瓦礫の中に座り込んでいた。
「来てくれたのね。セルヴィン、レニオン」
「大丈夫か、キューリア」
俺とレニオンは御堂の真ん中にいるキューリアに駈け寄った。どうやらスタニスラフは上空から雷に匹敵する魔法を落として結界を引き裂き、さらには壊れた結界を透かして見えた黒聖母堂に対して石造りの屋根を躊躇なくぶち抜いて聖堂内部に降臨を果たしたようだ。
キューリアは俺とレニオンに抱きついてきた。
「いきなり轟音がして屋根が崩れ落ちてきたの。怖かった」
黒聖母堂の外ではまだひゅんひゅんと時間の流れが突風に舞う木葉のように入れ替わっており、その中で聖堂だけが湖底に沈んだ石のようにしんとしている。光の柱のお蔭であたりは明るい。俺は聖堂の中に飛び散っている瓦礫に眼を走らせた。
「若君は。キューリア、スタニスラフは何処に行った」
俺はぎくりとした。倒壊した柱の近くに、スタニスラフの外套がある。何かを覆い隠している。走って行って外套を剥ぎ取った。良かった。違った。ところでこの死体はいったい誰だろう。
「それはエッケハルルよ、セルヴィン」
半分顔をそむけて震えながらキューリアが死んでいる魔法使いを指差した。
「嘱託医だった頃とは面差しが随分と変わっているけど、面影があるでしょう。エッケハルルは下宿先に戻ったわたしを階段で待ち構えていたの。誘拐されたわたしは無理やり彼の箒に乗せられて、この聖堂に連れ込まれたの。聖女にしてやるとか何とか云っていたかしら。もちろん抵抗したわ。エッケハルルと魔法で闘っていると、魔法使いが箒で飛び込んで来るなりエッケハルルを一撃で斃してくれたのよ」
俺は手にした外套をもう一度、エッケハルルの遺体の上に被せて戻した。キューリアは祭壇の裏手を指した。
「スタニスラフさまは地下よ。石蓋を外してそこの階段を降りて行ったわ。彼はわたしに、必ず魔都に連れ戻してあげるから此処で待っているようにと云ったわ。でも死体と一緒なんて、怖くて」
「アウロラさん、キューリアの介抱を頼めますか」
「もちろん」
千里眼アウロラの手にキューリアを渡した。アウロラは聖堂の中を鋭い眼つきで見廻していた。
「この光の柱を維持するために、近くに魔法杖があるはずだ」
すぐに俺たちはスタニスラフの魔法杖を発見した。光の柱の中にそれはあった。俺の頭の上くらいの位置に浮いている。彼の魔法杖は針のように真っ直ぐに光の中に直立しており、それ自体も発光してみえた。
「これほどの遠隔魔法はそう長くは保てない。出来れば、すぐに全員で脱出したほうがいい」
「スタニスラフさまの箒は、あそこよ」
聖堂の壁に伯爵家の紋章入りの箒が立てかけてあった。キューリアを此処まで攫ってきたエッケハルルの箒はというと、激怒したキューリアによって既に粉微塵に壊されていた。俺たちの乗ってきた箒と若君の箒で、箒は三本。二人乗りすれば全員が外に出ることが出来る。
「レニオン、ドクトル・クローヴァスのことを頼む」
道案内をしてもらうつもりでドクトルには同行を頼んだのだったが、スタニスラフが強行突破したお蔭でその必要がなくなってしまった。老体に無理をさせて申し訳ないことをした。
「お前は何処に行くんだよ、セルヴィン」
「地下」
「独りでか。待ちなさい、少年」
アウロラとレニオンが引き止めたが、その前に俺は床に口を開けている階段の暗闇に身を躍らせていた。
地下納骨堂は、狭い地下室のようなものを想像していたが、ぜんぜん違った。階段を降りたところに待ち構えていた頑丈そうな扉はすでに錠が壊されていてすぐに開いた。そういえば俺はスタニスラフがどうして黒聖母堂に行きたかったのか、その理由をまだ彼の口からきいていない。亡き母との約束。そんなことを耳にしたが、それきりだ。
「母は気の毒な魔女だった」
オーラミュンデ城の庭で、スタニスラフは母のことを語っていた。
「没落貴族の家に嫁がされた若い魔女。愛のない結婚。授かった子どもはわたしのようなバーシェスの化け物で、それすらも親戚筋の伯爵家に取り上げられた。しかしそんな母にも、その短い生涯の晩年には僅かな倖せがあったのだ。窓辺にとまる露ほどの小さなものではあったが」
蜂蜜色をした木漏れ日のちらつきをスタニスラフは眺めていた。
「母には、夫の他に愛する魔法使いがいた。母は若くして逝ったが、母に愛する魔法使いがいたことは、母にとって救いだったと想っている」
哀しい話だった。でもそれと、お母さんとの約束で黒聖母堂に行かなければならない理由がどう繋がっているのかさっぱりだ。
「スタニスラフ」
呼んでみた声は、反響しながら奥に消えていった。礼拝堂の地下は貯水池のような広大な空間だった。高さといえば地上の数階分は優にあり、巨人の脚のような半透明の柱が霜柱のように奥まで建ち並んでいる。光源はというと、その柱だった。何処からか光を取り入れて、内側からぼんやりと光っているのだ。あのシジッタ地区の雑多な街並みの下に、こんなにも広い清浄な地下空間があったなんて。
埋め尽くしている巨大な柱を辿るようにして進むと、前方が急に行き止まりになった。床には階段口があった。また地下に降りるのだ。
俺は眩暈がしてきた。階段を降りると、そこには上階と寸分違わず同じ空間があったからだ。そこからまた階段を降りるようになっている。さらに降りても同じだ。地下何階分あるのだろう。幻術にかかっているのかな俺。
「スタニスラフ」
迷子の子どものように俺は叫んだ。とにかく、彼がこの地下の何処かにいることは間違いないのだ。
「スタニスラフ」
祈るような気持ちで呼んでいると、彼の声が応えた。すぐ近くからきこえる。俺は大声を上げた。スタニスラフ。
すると巨大な柱と果てしの無い空間は急にかき消え、魔術師の眼玉入りの水晶珠を掌に乗せたスタニスラフが眼の前に立っていた。そこは地下霊廟だった。どうやら幻覚にかかっていたのは間違いないみたいだ。
「セルヴィン」
現れた俺の姿にスタニスラフは愕いた顔をしていた。その室は円形をしており、舞踏会の会場のように広い室だった。高い天井は半円形を被せたように丸みを帯びている。
「若君」
俺はスタニスラフの許に駈け寄った。
「次にシジッタに行く時は俺と一緒だと約束したじゃないか。若君がそう云ったんだぞ」
安堵した反動で俺は彼をなじった。
でもその先を俺は続けることが出来なかった。スタニスラフがあまりにも具合が悪そうだったからだ。周囲の蒼白い灯りのせいでそう見えるのではない。結界を貫いて魔法の柱を今も地上に維持しているのだから、彼の疲労が濃いのは当然だ。
俺はその室に愕いていた。天井には、ぎっしりと艶を帯びたタイルが貼られ、星と天の河が宝石で描かれている。そしてその群青色の天井には、箒に乗った魔女の絵が描かれていた。
赤い眼をした魔女は今とは違う逆向きの箒に乗って銀河を飛んでいた。
》5-Ⅱ
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