第四章◆黒聖母堂
Ⅰ 懊悩
ミナオンの野営地から戻った日から眠れない夜が続いていた。考えることが多すぎるというよりは、考えたくないことが無理やり頭に浮かんできて、それを抱えたままなのだ。大きな旗に煽られるようにして心は浮ついているのに、胸の方は痛くて重い。この重苦しい感情の正体をアウロラさんの許に駈け込んで占ってもらいたいけれど、想い切り魔女に笑われそうだ。
「自分でもう答えは分かっているのではないか、少年」
兄弟子のエドガーさんはエドガーさんで完全なる恋の虜になっていて、俺が拝み倒してキューリアに頼んで、「あら、エドガーさん」と偶然を装ってエドガーさん行きつけの酒場の前ですれ違ってもらっただけでも、ぽうっとなってしまった。平穏無事だった俺の日常によく分からないものが突如としてあちこちから押し寄せてきた感がある。
どうせ眠れないのだ。窓枠を乗り越えて外に出て月が照らす白銀の雲の中を箒で飛ばしていると、
「そこの箒、減速して雲から出ろ。あ、お前はセルヴィン」
魔都の上空警護隊に笛を鳴らされてしまった。俺の箒に並走してきた警備隊士はイスドナウ棄児院出身の先輩だった。先輩は俺の顔を見るなり、「いったい何があった」と訊いてきた。多分だけど俺の顔が想い詰めて引き攣って、眼がぎらぎらしていたからじゃないかな。
初犯ということで見逃がしてもらったが、「この次に見つけたら雇い主に通達するし、三回違反したら勾留所にしょっぴくぞ」と厳重注意されてしまった。俺が悪いのだから仕方がない。雲の中を飛び回るのは危険と背中合わせという快感もあるが、万が一、他の箒や空中馬車と衝突したら大惨事になる。
「上空で事故を起こしても地上への被害は意外と少ないけどな。それは昼間に限った話だ。夜はよせ」
明るいうちだと誰かが事故に気が付いて、家屋の上に残骸が落ちる前に魔法で対処するからだ。でもいつもそう上手くいくとは限らない。
はいはいと全てに頷いて、しおらしく反省しておいた。
低速で箒を流して三階の自室に戻った頃には、月はもう中天を過ぎていた。俺は箒を投げ出して床の上に倒れた。
無情にもレニオンとキューリアは見たこともないほど大うけして、ひゃーひゃーと腹を抱えた。そんなに可笑しいかよ。
「最高だなそれは」
「笑わずにはいられないわ。でもまだそうと決まったわけではないのでしょう」
レニオンとキューリアは俺を慰めてくれようとしたが、堪えきれなかったようで噴き出してしまい、また笑い出した。
そのお蔭で俺も少し元気が出てきた。髪が長くてひらひらした衣裳。いつの間にか俺が勝手に魔女だと信じていただけなのだ。俺の母だと。
「バニラのわたしと逆ね」
男装のキューリアは笑いすぎて眼尻にたまった涙を指先で拭った。
「わたしは魔女として生まれたけれど、十四歳で手術する前には魔法使いでもあったのよ」
「十代に踏み込むとみるみる心身の性差が開いていくから、決断するには、そのあたりがいいよな」
「そうよ。それ以前だと今度は早すぎて、本人が自分の考えで判断できないの」
俺たちはいつもの森林公園の小高い丘の上に並んで座っていた。薄く焼いた生地に砂糖漬けの果実を挟んで、折り畳んで紙で包んだ菓子をキューリアは端からかじっていた。
「たとえ両性具有であったとしても心は違うわ。性別を自覚して、自分で意思表示ができる年齢になったら無料で手術してもらえるの。わたしはそれですっきりしたわ。それまでは二つの性が身体にあることの影響で体調が悪いことが多かったから」
「ひとつの身体に二つの性があることで、より完全体になるというわけにはいかないんだな」
レニオンの言葉にキューリアは首を振った。
「それで能力が倍になるわけじゃないもの。むしろ逆ね。心と身体の負担の方が大きくて、健全な育成の邪魔になるだけなの。古代種魔法使いが衰退したのも、もしかしたら雌雄同体であったことが原因じゃないかしら」
わたしは『完全体』と呼ばれている。『化け物』とも。スタニスラフはそう云った。
想い出の中の魔女。あれがスタニスラフだったからといって、どうだというのだ。長年の思慕の先が魔女からスタニスラフに代わることで失望して混乱するかと想ったが、意外にもその事実を俺は前向きに受け入れていた。ミナオンの魔女アウロラの言葉を借りるならば、これぞ運命でなくしてなんだろう。俺にとっての特別な存在、特別な運命というものがあるとしたら、まさにあのひとじゃないか。たとえ彼が、伯爵とバルタゼルのものであっても。
俺が少し暗くなっていると、
「幼い頃のスタニスラフさまはさぞかし美少女に見えただろうな」
レニオンが能天気なことを云った。バーシェスも様々だが、スタニスラフの場合はまさに性の無い、中性的な雰囲気だったはずだ。寄宿舎の窓辺にいた初対面のスタニスラフを、美少女だとバルタゼルが見間違えたくらいには。
全てどうでもいい、そんなことは。外野の誰がどう想おうが、スタニスラフは自分の特性を受け入れているし、今の彼は誰が見ても立派な貴公子だ。養父オーラミュンデ伯爵とのことだって、彼は拒否せず、否定しなかった。
そんなに悪いものではなかったからね。
「押し黙ってどうしたんだよセルヴィン」
「顔が赤いわよ」
「なんでもない」
粉菓子を拭うふりをして口許を擦った。とにかくこれで、俺がシジッタ地区の黒聖母堂を目指す理由の半分は消えてしまったようなものだ。夢の中のあの魔女が彼で、あの庭が彼の実家の庭だと判明したのならば。あとは、黒聖母堂に行って、二百年前の俺の祖先である古代種先祖返りの魔女レアシルヴィアの墓参りでもすればいい。
「でもなんでセルヴィンが若君の実家にいたんだよ」
「さあ」
「もしかしたら記憶の中のそのひとは、若君の母上や姉上じゃないのかしら」
その可能性はある。だんだん自信が無くなってきた。スタニスラフには美人の姉さんいたっけ。
レニオンとキューリアは俺の勘違いという方向に賭けているようだ。キューリアは片耳だけにつけている耳飾りを光らせた。
「こうなったら包み隠さず打ち明けてごらんなさいよ。他に昔の事情を知ってそうな方に訊くとか。意外と若君とは血縁だったりして」
十年以上も前のことを詳しく知っている者といったら、執事のマグヌスさんだろうか。
バルタゼル・メルヒントンはスタニスラフのことなら何でも知っているような自信ある口ぶりだった。スタニスラフも「バルタゼルには何も隠すことはない」と云っていた。実家が大商家なだけあってバルタゼルなら何かにつけて曖昧模糊とした若君よりは実務的に何でも明快に教えてくれそうではある。幼い頃の俺が若君の実家にいた理由を彼に訊いてみようか。云えないことについては、「それは云えない」とはっきり断るだろう。
あいつも、若君と関係があるんだよな。
「肉食系ぽいから、どっちもありだ」
「えっ」
「なんだよセルヴィン、さっきから」
「わたしに付きまとっているエッケハルルのことよ」
「ああ、うん。それで」
イスドナウの嘱託医を勤めていた頃、ドクトル・エッケハルルはキューリアをしばしば医療室に呼び出したそうだ。
「八、九歳の頃からね。あいつは綺麗なリボンや手鏡をわたしにくれたわ。そしてこう云うの。はやく女の子になりたくはないかね、キューリア」
バニラであるキューリアの肉体には切除が必要な男性器があった。
「実にささやかなものだったけれどね」
キューリアは肩をすくめた。
「そんなわたしにエッケハルルは云うの。君はもうじき十歳だ。魔女になりたいのならば迷うことはない。鏡を見てご覧。手術が終わって生まれ変わった君はきっと今よりも素敵な魔女になるだろう。可愛い魔女になりたくはないかね」
「ええっと」
「それはつまり」
レニオンと俺は口を濁した。エッケハルルがそんなことをキューリアに勧める理由がよく分からない。少女愛好者か何かだろうか。
「とにかく、それは明確に違法行為だったの。魔女か魔法使いか、思春期に入るまでは本人がまだ混沌としているのが普通だもの。それをあの医師は、十歳未満のわたしに魔女になるように刷り込んでいたの」
「でもバニラなんだから、遅かれ早かれ、魔女になると決まったようなものだろ。魔女優位のバニラは身体だって女の子寄りなんだから」
「そんなの駄目よ」
キューリアはとんでもないと云わんばかりだった。
「あくまでも本人の自覚する性がその者の性なのよ。魔女優位のバニラとして生まれても、男性器を残して魔法使いになることを選んでもいいのよ。魔法使い優位のバーシェスであっても同様よ。バーシェスから魔女になる者がいたっていいのよ」
「ややこしいな」
「そうかしら」
キューリアは膝を抱えた。
「自分が何者なのか。魔女なのか魔法使いなのか。その判別方法の一つは初恋ね。恋心」
俺はぎくりとした。
「バニラとバーシェスのわたしたちは質問を受けるわ。『好きな子は誰』と。この問いには答えなくてもいいの。想い浮かべたその対象が魔法使いなのか魔女なのか、本人の自覚を促して、性別を決める参考にするだけ」
「その質問にキューリアは誰のことを想い浮かべたんだよ」
興味津々で身を乗り出したレニオンをキューリアは無視した。
「相手は異性でなくてもいいの。魔女として、魔女を好きになってもいいのよ。でも未熟な子どもは大人の誘導に簡単に乗ってしまうわ。他にはそうね、魔女と魔女の恋物語なんかを読んでしまったら、影響を受けて身近な魔女を好きになってしまったりするわ。それもあって不必要な干渉は固く禁じられているの。エッケハルルは医者のくせにそれを破ったのよ」
「それで、どうしたんだよ」
「女子寮舎監のウェスタ・リュドミラの許に駈けこんだわ」
俺たちがちょうど十歳の頃だった。ドクトル・エッケハルルが突然イスドナウ棄児院を去り、代わりにドクトル・サリエリがやって来たのは。あの交代劇には、そんな裏話があったのだ。
「バニラやバーシェスと違い、セルヴィンのようなヤッシュはとても珍しいのよ」
ヤッシュだけは、物心がつかぬ幼いうちに魔女の特徴が吸収されて魔法使いに固定される。確かに俺は意識するまでもなく、気が付いたら当たり前のように魔法使いだった。
レニオンが俺たちの手から菓子のごみを集めて、丘の下の屑籠まで走って棄てに行った。この丘の斜面の角度は、箒が苦手なちびどもが飛び立つ練習をするのにもってこいだ。今度、棄児院に遊びに行ったら箒の指南役に勧めてみよう。
気がつくとキューリアが俺に軽蔑の視線を向けていた。
「悩みがなくていいわね」
「何だよ。俺だって深刻に悩むことはあるぞ」
「イスドナウの女子がいつも云っていたわ。せっかく顔がいいのだから、もうちょっと言動を落ち着けたら、ドクトル・サリエリのようにいい男になれるのに」
「そうかよ。その件については俺がもう少し大人になるのをお待ちください」
なにもドクトル・サリエリと比較することはないだろう。キューリアと云い合っているうちにレニオンが戻ってきたが、レニオンは脚を滑らせて斜面を転がり落ちた。その姿にひとしきり笑い、俺とレニオンはしばらく追いかけっこをした。白い雲が幾つも流れている。風吹く丘はまるで船の舳先のようだ。
「セルヴィンは、わたしたちのような身体でなくて良かったわね」
男装のキューリア・バニラはその整った横顔で遠くの地平を見ていた。
》4-Ⅱ
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