Ⅲ 筆記具店

 

 シジッタ地区に入る前、俺は棄児院仲間から散々に警告された。

「なあ、ところでセルヴィン。お前が戻って来ない時はどうすればいいの」

「その時は、護民兵に通報だ」

「護民兵でもあそこには立ち入らないよ。生きて戻って来いよ、セルヴィン」

 最初のうち彼らは本気で止めていたが、俺の決意が変わらないと知ると、「まあセルヴィンなら何とかなるかも」そんな楽観視に変わっていった。

「なんたってお前が一番、攻撃魔法が強いからな」

「ヤッシュの姓をもらえる子は大抵、魔法が強いそうだな」

 魔法杖を指先でくるくる回しながら、俺は仲間の話をきいていた。そうなのだ。俺は他の者よりも魔力が優れているらしいのだ。しかしその能力の高さゆえに、

「セルヴィン。約束して下さいね」

 イスドナウ棄児院の男子寮舎監ウィスタ・ラヴィニアから、或る日、俺は誓わされた。

 セルヴィン。あなたは他の魔法使いよりも強い。滅多なことではその魔力を使ってはいけない。さもないとヤッシュの姓を持つ他の子どもたちまで同じように危険視されてしまうのですよ。

「強いといってもな」

 俺は不満を洩らした。

「攻撃魔法に特化した強さなんて、普通に生きていたら、全開で使うことなんてまずないぞ」

「だよな」

「しかもお前、軍隊の入隊を志願したのに、書類審査の段階で落とされたんだろ。宝の持ち腐れだよな」

 もしその力を発揮したくなった時には憶えておいて下さいね、セルヴィン。

 魔法杖を握った俺の手に手を重ねて、ウィスタ・ラヴィニアは俺の眼をじっと見つめた。今でも綺麗だが、若い頃は絶品だっただろうその顔が怖かった。ウィスタ・ラヴィニアは俺たちの面倒をみるために未婚のままでいる。そして生まれつき膝が悪くて走れない。

 

 あなたがその魔力を揮う時には、このウィスタ・ラヴィニアに向かって揮っているのです。それを忘れないで。


 ウィスタ・ラヴィニアと交わしたその時の誓いは、抑止力というよりも強烈な呪いとなって、それ以来ずっと俺を縛っている。がちがちといっていいほどに。

「お前の記憶の中の母親らしき魔女だけどさ。それ、ウィスタ・ラヴィニアじゃないのか」

 一切の記憶を抜かれて棄てられる魔法界の棄子。でも俺には魔女との記憶がある。仲間の意見に反して俺はその魔女がウィスタ・ラヴィニアではないと云い切れる。その魔女は庭を走り回る幼い俺を追いかけていたからだ。

 草花についた露が一面にきらきらと零れる青い庭だった。俺は庭を駈け回り、そのひとは幼い俺を抱き上げた。麗糸と宝石で縁取られた魔女の衣裳。ウィスタ・ラヴィニアは生まれつき膝が悪いし、修道女であることを示すウィスタやウェスタの魔女たちが高価な衣を身に着けることはまずあり得ない。

 あなたは誰。

 名も分からぬ魔女のことなんか忘れよう。そう想ったことだって何度もある。でも忘れることは出来なかった。日蔭のあの庭。もし他に分かることがあるならば、ほんの僅かでも。

 グレゴリオ筆記具店の店主一家におやすみの挨拶をして、住み込みの俺は自室に引き上げた。

 月の光が三階の俺の室の窓を蒼く染めている。夜空に昇るのは、あの青年魔法使いみたいな白い月だ。

 眠れない。寝がえりをうった俺は、何となく敷布の上に指先でその名を綴った。涼しげなのに物憂げだったあのひと。スタニスラフ。

 


 旧市街にあるグレゴリオ筆記具店の開店時刻は遅い。表玄関を開錠するのは朝市が閑散とする頃だ。急ぎの用がある客の為に早く店を開けることもあるが、そんなことは滅多とない。本当に急用ならば、うちの店よりも開店時間が早い文具店は他に幾つも魔都にある。

 昔ながらの営業時間を守り、グレゴリオ筆記具店は昼前に遮光布を引き上げ、そして夕方には閉店してしまう。その不便さが魔法使いたちにとっては魅力の一つなのだろう、遅いだの早いだの文句を云われたことは一度もない。

 だからといって裏方にいる俺たちが暇というわけでは決してない。けっこう忙しい。特に秘伝のインキは家内工業で調合している。この調合には「グレゴリオ店のものでなければ」と云われている秘伝があり、よく使われる青や茶でも他の店とはちょっと違う、絶妙な味わいの気品ある色調が揃っている。

 住み込みは今のところ俺だけ。通いの職人が一名。職人さんは工房にいて店の方には出てこない。

 食卓を囲むのは主人であるフーゴーさん、その妻バルバラさん、ご夫妻の長子で後継のエドガーさん。エドガーさんの弟そのいちローランド、弟そのブルーノ。そして俺。この中でインキの調合を許されているのは長子のエドガーさんだけだ。こうして一子相伝でグレゴリオのインキは守り続けられている。

「セルヴィン、この帳面の栞は何色がいいだろう」

「この列の棚を入れ替えてもっと分かりやすくしてみたいのだが、どうしよう」

 何かと俺に相談してくる長子のエドガーさんは、そんなかたちで俺に仕事を教えてくれる気のいいひとだ。エドガーさんは俺よりも五歳年上、年子のローランドとブルーノはまだ学齢。俺が住み込みになると、「男の子がひとり増えたから、よろしくね」バルバラさんは食材配達人に片目をつぶった。

 棄児院は集団生活だ。だから周囲に大勢いる状態は慣れているのだが、住み込みとして他家の家族の中に入っていくのは最初のうち少し不安だった。ところがバルバラさんは男兄弟の中で育ち、さらにはエドガー、ローランド、ブルーノの男三兄弟と、近所にいる彼らの幼なじみの悪童を顎で使い倒してきた強者で、たちまちのうちに俺もその下僕として組み込まれてしまった。

「今日の皿洗い当番はローランドあんたでしょ。駄目よ、ブルーノの方を見たって。ブルーノは家の掃除を始めなさい。エドガーとセルヴィンは交代で三日以内に調髪に行くこと。あら、昼にパイを焼こうとしていたのに木箱の中にあった果実がない」

「しらない」三兄弟が口を揃える。「しりません」と俺も合わせる。本当は四人で食べたのだ。バルバラさんが俺たちを睨んだ。

 バルバラさんの握っている棒の中から一本だけ先端に色をつけた棒を引き当てたのは俺だった。

「セルヴィン、買い物籠」

「はい……」

「おおそうだ、セルヴィンは財布を失くしたんだったわね。この袋を財布の代わりに使いなさい。あ、箒で行くのは駄目よ」

 三階の俺の部屋の窓から箒で飛び立とうとしていた俺をバルバラさんは階段の下から引き止めた。

「果実が傷むから歩いて行って頂戴」

 尻を叩かれるようにして俺はバルバラさんの云いつけどおり、青果店まで徒歩でお遣いに出た。

 朝の魔都には十七色の虹が出ている。この十七色の虹にちなんで、魔法界では十七歳の誕生日を特別なものとして祝う。特別といってもいつもの誕生日よりも少し豪華という程度だが、十七歳を境にして、徐々に大人の魔法使いとして見做されていくのだ。

 十五歳で棄児院を出てフーゴーさんの許で働くようになり、先日俺はその十七歳を迎えた。

「十七歳おめでとう」

「おめでとう、セルヴィン」

 棄児院で育つ子どもの誕生日は一律、夏至の日に決められている。

 バルバラさんは常よりも豪華な料理を作り、俺だけの一皿も用意した。フーゴーさんとエドガーさんは世界で一つだけの特製インキを調合してくれ、ローランドとブルーノは小遣いを出し合って箒を磨く為の油を俺に贈ってくれた。

 窓の外では夏至を祝う花火が魔都の夕空にぽんぽんと色鮮やかに咲いていた。俺は本当に嬉しかった。


 青果店の店主は買い物籠を手にした俺にすぐ気が付いて、向こうから声を掛けてきた。

「やあ、セルヴィン。何が要るんだい」

「人間界の果物です。桃と林檎を下さい」

「桃は傷みやすいから気を付けるんだよ」

 箒で行くな。バルバラさんにはそう云われたが、実は俺は箒には自信があるのだ。箒の先端には鉤がついていて、買い物籠をぶら下げることが出来る。安定した速度と姿勢を保てば、果物が傷まないように持ち帰ることくらい造作ない。でも不測の事態に出くわして、飛んでいる最中に鳥の群れに襲われて中身が奪い去られることもあるからな。

 その不測の事態が起こった。

「しつこいわね」

 聴き覚えのある声だ。反対側の並木道で若い魔女が男に向かって怒鳴っている。男の子のように髪を短く切って男装をしているが、あれは女の子だ。

「とぼけないで。ずっとわたしの跡を付け回しているじゃない。また監獄に送られたいの」

 俺と同じイスドナウ棄児院出身のキューリア・バニラだ。

「キューリア」

 低空で行き交う空中馬車の合間をすり抜けて俺は向こう側に駈けつけた。

「彼女に何の用だ」

 育ちの悪さはこういう時に抜群の威力を発揮する。割り込んだ俺が睨みを利かせると、外套の頭巾を深くかぶって顔を隠していた男はすぐに背中を向けて立ち去った。

 今の男。何処かで逢った気がする。俺の勘違いだろうか。

 それよりも、キューリアだ。

「大丈夫だったか。キューリア」

「セルヴィンじゃない」

 助けてやったというのに、キューリアは露骨に厭そうな顔をした。頭巾で顔を隠した変態男に対峙していた時よりも厭そうな顔だ。

「セルヴィン、また背が伸びたのね。昔はわたしの方が背が高かったのに」

「そっちこそまだ男装なんかしてるのか」俺は云い返した。

「そんな恰好をしているから変質者の眼を惹くんだぞ」

 どえらい美少年がいる。

 イスドナウ棄児院の近所でそんな噂が立っていた。誰のことかと想えば、俺と、女子部にいるキューリアのことだった。キューリアは魔女だが、個性的なその美貌をいちばん引き立てるのはこれだと云わんばかりに、昔から髪を短くして男装をしているのだ。

「女子寮舎監のウェスタ・リュドミラも、嘱託医のドクトル・サリエリも、わたしが男装することを認めてくれたわ」

「それは棄児院の頃のことだろ。お前はもう十七歳だぞ」

 胸も出てるし。とは云えない。

「どこから見ても魔女と分かるぞ」

「わたしの勝手でしょ。ところでセルヴィンは何をしていたの。勤め先はどこだっけ。文房具店だと云っていたかしら」

「グレゴリオ筆記具店だよ」

 キューリアは頷いた。

「そうだったわね。この近くなのね。旧市街にある貴族階級御用達の高級文具店。わたし、行ってみたいわ」

「無理」

 俺は言下に却下した。グレゴリオ筆記具店は紹介状がないと入れない。しかしキューリアは連れて行けと云ってきかなかった。

 何か人生に重大なことが起こる時には一度に重なってくるものだ。後から振り返るに、道端でキューリアと偶然逢ったことも、その歯車のうちの一つなのだろう。



》1-Ⅳ

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